「木喰と東北・上越」について

「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)のⅡ「木喰と東北・上越」についてのまとめを行います。文章の冒頭に「木喰行道は、大正12年(1923)、柳宗悦によって文字通り『発掘』された。」とありました。円空と木喰、この2人の僧が残した多くの仏像群を展示した企画展を見て、私は彫刻家魂が震えた覚えがあります。柳宗悦は民藝運動を起こした思想家で、「工芸」として生活の中に美を見出した人です。「木喰85歳に書いた自伝風の『四国堂 心願鏡』や27年間にわたる『納経帳』『国々御宿帳』などを発見できたときのかれ(柳宗悦)の喜びは大きかった。」木喰は郷土史などに名が残っていなくて、知人の教えで生誕地が山梨県下部町丸畑であることが分かったようです。さらに「45歳のとき、日本廻国の大願をおこし、常陸の木喰観海上人のもとで、木喰戒を継いで、『木喰行道』と名乗った。」とありました。「56歳に当たる安永2年(1773)、木喰は大山不動の近くにある伊勢原市から旅立つ。北は北海道、南は九州にいたる日本六十余州をあまねく行脚し、おびただしい仏像を刻んだ。寛政12年(1800)、83歳で郷里丸畑に帰るまでの間にかれは『日本国々山々嶽々嶋々の修行を心に掛けて、日本粗々成就に至る』と、前の『心願鏡』に書いている。」とあり、彼は凄まじい修行を経て作仏しているようです。東北や越後での作仏も詳しく解説されていて、「木喰が、円空仏に触発されたということは、確かにあったかもしれない。だがそれにしても、木喰が蝦夷に残した作品は、同地に残る円空仏とあまりに違った趣である。」とありました。さらに越後での作仏は老齢にも関わらず、多作を極めています。「86歳にあたる享和3年(1803)から、88歳の文化2年にかけて、二年余りの同地滞在の間の、信じられない旺盛な制作ぶりである。」とあり、その中で私は「奪衣婆」の解説が気に留まりました。「三途の河で亡者から衣服をはぎ取られるこの老婆の哄笑に、木喰は一見忘れ難い表現を与えている。『蓋し宗教芸術に現れた奇醜の作品として最も優れたものの一つ』と宗悦はこの作品を評しているが、グロテスクななかに、庶民のたくましいユーモアと生命力が含まれていることを見逃せない。」木喰は円空に勝るとも劣らぬ凄い人だったと言えます。

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