非存在という考え方

あまり夢を見ない私が、ある晩に見た夢を覚えていて、夢の中では学生時代に遡って彫刻を学び始めた頃の私になっていました。人体塑造をやっていた私は、どこの部分の粘土を削り取ったらいいのか散々考えていました。もっと量感を減らして、ギリギリの状態になっても、人体のイメージが留められるようになるのには、どうしたら良いのかを考えていたのでした。朝目覚めた時、何という理知的な夢なんだと我ながら驚きました。以前も鉄屑を寄せ集めて人体を作った夢を見たことがあります。真鍮直付けの池田宗弘先生か、またはジャコメッティのような彫刻を私は作っていて、その夢も朝まで覚えていました。最小の物体で最大の空間を得るというのは、私が前から拘っている空間の在り方で、存在に関する哲学書に親しんでいるのは、その要因があればこそです。そこにモノが存在していて、それが部分的に消去されても依然として存在感を保っていることは、私の夢の中だけの現象でしょうか。そこで非存在という考え方に私は囚われました。不在ではなく非存在という言い回しが果たしてあるのかどうか、ネットで検索するとギリシャ哲学の存在論で用いられる概念のことだと掲載がありました。存在しないこと、存在しないもの、あるものの欠如、思考の対象にならないものと説明があって、アレクシウス・マイノングという人が非存在言明をしたと書かれていました。そうか、非存在にはちゃんとした概念があったのか、これを調べてみると、マイノングはウィーン大学やグラーツ大学で教壇に立っていたオーストリアの学者で、若い頃ウィーンにいた自分には案外身近な人だったことが判明しました。ただし、存在しない対象が存在することは端的にいって理解不可能で、矛盾を孕んだ論理のため、哲学者ラッセルらによって非存在言明は困難と言う烙印が押されている論理でもあったようです。学術的見解はともかく、彫刻による空間変容を考える私には、非存在と言うより、限りなく存在を削った微存在が、存在しているものを強く大きく見せる心理的な働きを起こすとしたら、夢の実現もあると言った方が相応しいのかもしれません。夢は欲望充足というフロイトの考え方に従えば、私の彫刻は消去しながら存在を増す方向にいくのかなぁとも思っています。

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