「日本美術に流れるアニミズム」について

先日から「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読んでいます。本書の1「日本美術に流れるアニミズム」についてのまとめを行います。本章では、縄文時代の土器から江戸時代の絵師伊藤若冲と葛飾北斎に至るまでのアニミズムの際立つ特徴的な作品を取り上げ、日本美術の独自性を浮き彫りにしていました。あらゆるものに神仏が宿ると祖父母に教えられてきた私は、我が家での身近な風習を思い出し、実家の裏山に鎮座する稲荷の祠を蔑ろにすると罰が当たると信じていたのでした。地元の神社の周囲にある巨木にも何かが棲息していると子供心に思っていたことが、アニミズムへの憧憬とも感じられて、本書に書かれた内容に共感を覚えました。「古い巨きな樹に、人々は神が宿ると信じ、神木として崇めてきた。仏教が入って来てからそうした聖なる樹に仏が化現するようになる。神と仏との融合である。山中で修行する修験僧は、樹木に仏の姿が化現するのをまのあたりにすることができた。かれらはその姿を生きたままの樹木に彫り付けた。いわゆる立木仏である。」また、実家で使い古した食器にも不思議な謂れがありました。「『つくも神』は人間や他のものの霊が器物にとりついたのではなく、古くなった器物がそのまま精霊に化したものである。それは日本人のアニミスティックな心性の端的なあかしにほかならない。15、6世紀の絵巻にいきいきと描かれたこれら器物の妖怪のイメージは、中世人のアニミスティックな心を映し出す鏡といえるのである。」解説はさらに伊藤若冲や葛飾北斎に及んで、私はこんな文章に注目しました。「日本の美術に見る動物たちが、可愛らしく擬人化されているのは、日本人が自分たちとかれら動物たちとの間にはっきりした境界を設けないことに関係する。日本美術におけるアニミズムは、自然に対するおそれだけでなく、このような自然への親しみをこめたユーモラスな遊びの表現と結びついている点に大きな特色があるといえよう。~略~日本のアニミズムは、道教や俗信仰を通じて中国のアニミズムの影響を絶えず受けながら、縄文以来一万年をうわまわる年月を生き延びてきた根強い文化伝統として現在にもまだ生きている。」そういうことならば現代美術にも脈々と流れるアニミズムがあるはずで、コトバで説明できない空気感かもしれず、私たちの生育歴から齎されるモノとも考えられます。最近のゆるきゃらにしても、おたく系のアニメ動画にしても、私は日本人としての独自性が発揮された表現と言えるのではないかと思っています。そこにちょっぴり不気味な要素が漂うと、まさにモノノケとの境界を設けない私たちの専売特許で、そこが外国人にウケるところかもしれないと思ったりしています。

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