「地に伏す心のうた」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の4「地に伏す心のうた」についてのまとめを行います。この章の舞台はロシアです。私はまだロシアに足を踏み入れたことがありません。もう40年も前にルーマニア国境からウクライナの風景を眺めたことがありました。有刺鉄線の向こうは旧ソビエト連邦で、真冬であったために雪に閉ざされた極寒の地という印象でした。ここではロシアのイコンについて書かれた箇所に注目しました。「聖者や聖人あるいは宗教的秘蹟が、全体をおおう金色の板の上に、黒を基調として朱・緑・黄などを配色し、明確な太い輪郭で描かれているが、これらの幾何学的な造形表現と、それらにともなう大胆な色彩感覚が、魂の内部ー描いた人と見る者の内部ーに神秘的な輝きを与えるのである。それは人物なり事物が、平板な二次元の中に要約することによってかえって一種の奥行きをもち始め、対象をこえてイメージの世界に見るものを誘いこむからであろうか。~略~イコンの中のイエスの表情は、悲しみの故か他の聖者らと同様下前方に視線をなげかけていて、たとえ正面あるいは天上を見上げるときも、いかにも不安げである。昇天したキリストはその後でさえむしろ地に埋もれたやさしい母の胎内に帰っていくことを望んでいるのではないか、ロシアの人びとがきびしい自然の中の生活をたえぬいて、やがて死をむかえるときに、天上でなくどこか地の底に花の冠をつけてやさしく微笑んで迎えてくれるものの存在を期待する、そんな心情がこれらのイコンの中に読みとれるのだが、そうした気持ちは、聖堂におかれていた棺の中に収まった老婆のための飾りつけにもゆきとどいていたように思う。」イコンは東欧の教会にも多くあって、描かれたイエスの表情とともに芸術性に富む絵画として私は見てきました。絵画と我流に解釈していたとしても、イコンは信仰の対象であり、人々はそこに深い慈愛を感じていたのではないでしょうか。「政治は人間の生活の苦しみを軽減する。しかし魂の救済者ではありえない、私は体制としての宗教の犯した罪までを容認しようと思わないが、私たちは平和な暮らしの中で人間をこえたものの力を知ることを忘れている。そしてまた遠ざけてきている。しかし信仰や宗教を失った世界では芸術もただ快い娯楽に堕していくように思われる。」

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