社会の鬱積からの解放

武蔵野美術大学美術館で開催中の「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」を見て感じたことは、国家が社会主義体制にあった時代に、その鬱積から心を解放したいと願って、密かに作品を作っている芸術家の姿でした。そうした国家に対し、時の独裁者に迎合し、その猛々しい銅像を作る芸術家もいれば、スタシス・エイドリゲヴィチウスのような芸術家もいることが、造形美術の広範囲なあり方を示すものだろうと思っています。ナチスドイツの時代には国家の権威権力に対し、それとは無関係な新しい美意識を追求した美術作品が、退廃美術という烙印を押され、多くの作品が処分されました。美術史の観点からすれば、日常生活を図像として記録した古代の出土品を初め、宗教的な導きを図示化したものや社会的世相、たとえば戦争の意気掲揚を謳ったものまで、さまざまな表現が人類史と共に現れてきました。そうした社会的な動向とは無縁の、美意識だけを創作の中核に据えたのは、漸く20世紀になってからではないかと私は理解しています。現代はさらに美意識さえも変革し、人間が何処へ向かうのか、どうなってしまうのかを問いかける造形美術が登場してきたと考えています。現状を楽観視する作品もあれば、社会的な不安を訴える作品もあります。もう造形美術という範疇では語れない作品も存在しています。価値の多様化は現代そのものであるし、そんな中でもアートがコマーシャリズムに乗って大衆に根付いてきたことは確かです。翻って自分は何をすべきか、今風のアートを身に纏うべきか、先端アートに身を置いても、私はコンセプトを続けることができないのではないかと思ってしまいます。「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」が私に齎せた影響は、まさに社会の鬱積からの解放ですが、国家というより、私の場合は極めて個人的な感情によるもので、公務員としての社会体制からの些細な解放とも言えるものかなぁと思っています。個人の事情を考えると、こうした考えはとても小さなものに思えますが、だからといって作品が纏う精神性が浅いわけではないと思っているところです。

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