「日本で装う 仕組と趣向がはずむ」について

「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第三章は「日本で装う 仕組と趣向がはずむ」という副題がついていて、前章より引き続いて職人に関する日本独自の視点が述べられています。著者は京都の呉服屋に生まれたそうで、現代日本における和装の衰退を語っていますが、確かに普段から和服を着ている人はほとんど見かけない現状があります。家内は和楽器奏者なので、それでも和服を着る機会が多いのですが、着付けの困難さを考えると、特別の場合以外は和服が敬遠されてしまうのも分かります。現代に和装文化を蘇らせる捉えとして「着物を”できあがった着物”として見るのではなく、たとえば布として、たとえば紐として、たとえば染や織として、さらにテキスタイルデザインやファイバーアートとして、見なおしてみるとという視点です。~略~紐として見るというのは、そこにムスビ(結び)のおもしろさを発見しようということです。~略~また、文様として着物を見れば、これは装飾古墳の内側の意匠、屏風や襖や扇子の文様、文箱や牛車の装飾というふうに連鎖的に広がって、そのなかに着物も入るということになり、むしろ着物を文様群のひとつとしてみなせる余地も出てきます。」という文章がありました。こうした日本独特な文化の傾向をまとめると「日本文化を支えている文物の多くは、構造と部品の機能的な大小関係で成り立っているのではありません。それぞれの部品が自立していながら全体をアソシエイトしたりシンセサイズしているというふうになっている。また全体にも部分にもかかわって、それらを覆っている複数のパラメーターが動いている。全体と部分のあいだに所属関係や従属関係があるようで、ないのです。」となります。次にこの章では仕組という言葉が登場してきます。仕組はシステムとも思われますが、著者は仕組はもっと柔らかいものだと述べています。システムは体系で、仕組は体系ではないのです。日本の建築を引用して、こんな言葉を発しています。「こういう仕組と仕事の関係が柔らかいからといって、そこに法則がないというのではありません。能や歌舞伎に序破急があるように、そこには独特の『矩』というものがあり、『矩尺』というものがある。矩とは寸法についての考えかたのことです。したがってこの矩や矩尺はけっして法則的な理論とか標準的な1メートルの物差しというものではなくて、素材や場面や相手にあうようにつくられていく。どんな調整もつくようになっているわけです。そこも柔らかい。」著者の感覚的な捉えも面白くて柔らかいなぁと思いました。

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