素描に埋めつくされた日記

現在、通勤時間に読んでいる「ある日の彫刻家」(酒井忠康著 未知谷刊)に、風変わりな章がありました。私が尊敬する彫刻家で既に逝去された若林奮に関する論考ですが、「素描に埋めつくされた日記」という題名がつけられていました。冒頭に「画面のなかに5月12日から22日までのことを細かいペン字でぎっしりと書かれた日記が埋め尽くされている。素描と一体になっているのである。」とありました。若林氏が若い頃、工業高校の講師を勤めていた時代に書いたもので、美術準備室(本人は研究室と呼んでいる)で授業の合間に綴っていた文章のようです。私も学生時代にノートに文章を書いていた記憶があります。それは人に見せるものではなく、今となっては気恥ずかしい内面の吐露であって、造園業をやっていた亡父が植木の枝を作業場で燃していた時に、高校時代に描いていた多くのデッサンと一緒に日記も燃やしてしまいました。過去の清算がないと先に進めないと当時の私が考えていたからでしたが、工房に出入りしている若いアーティストが小さな文字で日記を綴っているのを見て、自分と重ね合わせていました。彼女はそのノートを分解して糸で繋ぎ留め、自身の展示作品として展覧会に出していたので驚きました。若林氏の素描と一体になった日記も、こんなふうに公開されることが念頭にあったのでしょうか。現在私が毎日書いているNOTE(ブログ)はホームページにアップすることを前提にやっていて、密かなメモとは違います。それに比べて表題にした「素描に埋めつくされた日記」は微妙なニュアンスが漂う文面です。その中で気に留まったコトバ(若林メモ)を書き出してみます。「彫刻はその作った結果は、一銭にもならない事が多い。注文される以外、全てそうなのであるが、作る時、金をかけ様と思えば、いくらでもかけられるし、又かけない様にすれば、ただでも作れる。それをつくらすのは情熱であろう。昔から彫刻などやる者は貧乏ときまっていた。結果としてそうなるのかと思ったが、今は、貧乏でなければ、出来ない事であると考えをかえた。金がある人間はこんな事をやってはいけないのだ。ここで金があるというのは、もちろん、生活の経済的な安定を意味する。彼等は、それぞれの社会に適した小さな経済機構の中で精一杯、金をあつめ、長生をする事を考えてればよい。腹のへった彫刻家は、せめて、それをつくる事によって自分の考えをまとめ、あるいは何の役にもたたないかもしれない美を自分の手にいれるのだ。」

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