「現象学というシステム」について

「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)の最終章である第十二章「現象学というシステム」について取り上げます。この章は最終章に相応しく、そもそも現象学というシステムとは何か、それを考えるにあたって、その全体のモデルを提示するところから始まります。「実在経験や世界、感覚その他の連合、時間性、他我、歴史、規範性などそれぞれの場面では、その都度必要なメカニズムが起動し、存続するための独特な構造や現象が取り出された。受動的綜合、時間形式や他我の自然発生性、歴史や規範性における受動的能動性などがその例である。」次に現象学全体像の従来のものを一歩推し進めるカタチで「差延状構造」という概念が登場します。「どの場面をみても、〈可能性がそこに追加されるといわれるその当のものを、可能性が後から生み出す〉根元の補欠、それどころか、カント的意味における理念などに典型的であるように、『可能性がそこに追加されるといわれるその当のものを、実現不可能である当の可能性が後から生み出す』構造が現象学的装置を可能にしている。反復や非現前といった、デリタの言う指標的構造は随所にあらわれる。現象学的構造とは一連の差延状構造なのであり、現象学的還元は差延状構造を可視化する装置にほかならない。」次に新たな全体像として第十二章の最後にある文章を書き出します。「実在や自我などにあたるものが現象学的構造において構成され、にもかかわらずそれを実体化しがちな経験の罠が随所に仕掛けられていることを解明することによって、現象学はニーチェの言う『眺望固定症候群』に実質を与える。正義や真理、自我などを、あらかじめ確定した実体とみなすのは、ある時点における眺望を固定して、その背後に恒久的実体を想定する病によるというのがニーチェの言う眺望固定症候群だ。なるほど、現象学的構造それ自体は不変であり、その構造だけは実体化されていると思われるかもしれない。けれども、目的論や伝統の構造が示す土台としての伝統と将来の世代の同意への依拠という事情は、現象学の分析成果についてもあてはまる。」以上が本書「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」の最終引用になりますが、私自身は章毎にキーワードになる文章を探そうと今まで躍起になっていました。しかしながら理解が及ばない箇所が多すぎて、NOTE(ブログ)では伝えきれていない勉強不足に、自己嫌悪に陥りそうです。再度チャレンジしようとも思いますが、嘗て読んだ哲学書にも同じような後悔があるため、ともかく時間を置こうと思っています。最後に「おわりに 現象学の読解」という著者の振り返りがあったので、明日はこれをもってまとめにしたいと思います。

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