「志向性の諸理論と志向的相関理論」について

先日から「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)を読んでいます。一度中断していた書籍ですが、哲学的な語彙が散りばめられた論文を読むのは、やはり手強いなぁと改めて思っています。今まで読んでいた軽妙な随筆に比べると、読書の速度が一気に落ちています。通勤時間帯ではその論理に入り込むのは難しいと言わざるを得ません。でも夜はRECORD制作に時間を費やしてしまうので、通勤の途切れ途切れの時間で読むしかありません。内容は第三章「 時間ー内ー存在」に入り、前段の部分で現象学における志向的相関理論の整理がありました。「現象学は、観念論と実在論、真理に関する相対主義と絶対主義といった対立を超えて、反ー基礎付け主義、反ー対応説もしくは反ー実在論といった『第三の道』を見出す。」というのが現象学の立ち位置だろうと思います。ここでドイツの論理学者であるゴッドロープ・フレーゲの意味論が登場してきます。フレーゲは「宵の明星」と「明けの明星」を意味と意義で説いた人くらいしか、私には雑駁な理解しかありませんが、本書では「フッサール現象学をフレーゲ的意味論と類比的とする解釈には問題がある。」と指摘しています。「フレーゲは『文脈原理』を提唱した。文脈原理とは、『語の〈意味〉は文という連関の中において問われるべきであって、孤立して問われてはならない』というものである。~略~両者が言葉遣いなどにおいては類似しながら、基本的な構制において全く異なることは明らかである。フレーゲは単独の文の〈意味〉を真理値とし、文の〈意義〉ならびに文の構成要素の〈意味〉と〈意義〉は、文の〈意味〉を決定する上での寄与によって規定した。文の〈意義〉は文の真理値を決定する条件(『真理条件』)であり、また文は真か偽かのどちらかでしかありえないため、個有名の〈意味〉となる指示対象はかならず実在しなければならない。フッサールにおいても、ノエマ的意味は真理にいたるための規則、真理条件の機能をはたす。ところがフッサールは名辞の対象を実在の個物とはせず、同一化可能なものと定義したのだった。」長くなりましたので、このくらいにしておきます。

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