「結びの章」について

先日、読み終えた「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)には最後に「結びの章」があります。著者は美学者であり、その視点から現代の芸術やアートを一貫して考察してきました。その全体のまとめが本章です。冒頭に「芸術に自明なことは何一つない、このことが自明になったというアドルノの言葉は、今日の芸術にとってだけでなく、むしろ美学、芸術哲学にとって衝撃的だった。」と書かれていました。横行する芸術やアートという不可解なものを、哲学を基盤にして語ってきた本書は、絡んだ芸術の謎を紐解くように追求してきましたが、「結びの章」では謎は謎として残されていて、今後のアートの展開を見ていくことになりそうです。「デュシャンの暴挙が、おそらく無意識に種を蒔いた芸術の『トテゴリー』、自己審問と実験、半世紀を経て実際に芽吹いてみると、芸術のトテゴリーはすべてを芸術にし、すべてを芸術でなくしてしまった。~略~だがそれを哲学的問題として見るアドルノにとって、芸術のこのような状況に関する『試論』自体が『何を試みようとしているのか』、それが先決的問題になる。アドルノより三十年余り早く、ヘーゲルの芸術哲学に言及して、ハイデッガーはこんな風にいっていた、『ヘーゲルの芸術過去説に何らかの決着を付けるのは、まだまだ先になるだろう』、芸術哲学の当面の『課題は芸術の謎を見ることである』、と。ハイデッガーにとって、そしてアドルノにとって当代の『芸術』は芸術哲学=美学の問題であり、哲学そのものの問題であった。だから両者ともに《芸術過去説》に明快な対応ができないのである。明快な対応ができる、それが『哲学すること』、ハイデッガーに即していえば、『思索すること』の放棄になりはしないか、と恐れるからだろう。」デュシャン以後の芸術またはアートはどこへ向かうのか、そこに哲学はどう関わっていくのか、幸福な時代は終焉したと誰かが言っていたコトバをふと思い出しましたが、現代に生きて現代彫刻をやり続ける私にとって、多種多様な価値観の中で、出口の見えない迷路を歩いているような気分になります。

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