上野の「運慶展」

10代の終わり頃から西洋彫刻を学んでいた私が、仏像に興味関心を持ったのはいつ頃だったのか、今では思い出せませんが、その契機となったのが運慶だったことは覚えています。運慶の筋骨隆々とした木彫に西洋彫刻を重ねて見ていたというのが正直なところです。私にとって仏像は今も信仰の対象ではなく、彫刻として鑑賞すべき美術作品なのです。そうした自分の過去を再認識したのが、現在東京上野の国立博物館で開催中の「運慶展」です。運慶または運慶工房で作られた仏像は全部で31体あるという現在の見解だそうですが、そのうち22体が博物館に展示されているようで、まさに圧巻で迫力のある展示空間が広がっていました。運慶の仏像と言えば、写実的で動きがあって定型に拘らないというのが私の印象です。図録に仏師と彫刻家の違いが述べられている箇所があって、その認識に惹かれました。「仏像は彫刻の一種であるが、仏像の姿形は仏教の経典や儀軌の定めにより、制約がある。~略~仏師は、同時代の価値基準によって評価が決まる。これに対し、彫刻家の評価は、どのような独創的な活動をしたかによって決まる。~略~運慶は定型を繰り返すということがなかった。常に自分の独創的な像を造るという意識があったように思われる。日本の古典に学んで創り上げた面もあるが、写実の追求が感情、精神といった内面にまで及んでおり、極めて独創的である。」(浅見龍介著)この文章で言えば、運慶は優れた仏師であり、独創的な彫刻家でもあったわけです。自分が運慶を仏像理解の契機にした理由はこんなところにあるのかもしれません。展示は運慶の父であった康慶の仏像から始まり、運慶の初期から晩年に至る仏像と、運慶の子どもたちによる仏像がそれぞれ時代を追って部屋を与えられていました。どれも緊張した空間があって、甲乙つけがたい作品の数々でしたが、自分の好みで言えば、「無著菩薩・世親菩薩」の存在感が印象に残りました。「運慶展」についてはまた機会を改めて述べてみたいと思っています。

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