モーセ出生の見解

現在読んでいる「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)では、著者フロイトが起稿した動機が冒頭に語られています。「ある民族が同胞のうちでもっとも偉大な人物として誇っているような人間の存在を否定することは、やってみたくなることでもなければ、軽々とやれることでもあるまい。とくに自分自身がその民族の一員であるばあいはなおさらのことである。とはいうものの、いかに先例があっても、民族的利害と思われることのために、あえて真実を伏せておく気になるものではない。そのうえ、事態を解明しさえすれば、われわれの洞察にとってプラスを期待することもできるのである。」自民族の源泉を辿り、その真実を暴こうとする精神分析学者フロイトは、批判覚悟で自らの論理を展開しようとしたようです。「モーセという名をエジプト語だと認めた多くの学者のうちのだれかが、エジプト語の名前を帯びている人は、それ自身がエジプト人であったとする結論を出すか、ないしは、すくなくともそのような可能性を考えたかもしれないということは、当然期待してよいであろう。」モーセは実のところエジプト人だったのではないかとする出生の見解が名前から導き出されています。その根拠となる論考がさらに肉付けされていますが、そこは省略します。「モーセにまつわる棄児神話を解釈すると、モーセは本来エジプト人であったが、民族の要求によって故意にユダヤ人にされたという結論にならざるをえない、とつけ加えたのであった。また、その論文の末尾のところで、モーセがエジプト人であったという仮定からは、重大かつ広汎な推論がみちびきだされるが、私にはそれを公然と弁護する用意がない。というのは、その推論がただ心理学的確率にもとづいているだけで、客観的論拠を欠いているからだ、と述べておいた。」学者はまず個人的な推論を述べておいて、その後付けとして旧約聖書を初めとする他学者の参考文献を挙げて、推論の根拠を伝える方法を採りますが、あまりにも古い歴史のため調査が行き届かず、定説とされていたことが覆されることに社会的な反発があることは、当時でも現在でも当然と言えます。私も興味関心が湧いているにも関わらず、今ひとつしっくりきていません。モーセは何者だったのか、謎が謎を呼んでしまうことに胸躍る思いがしています。

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