信仰とは何かを考える②

前回のNOTE(ブログ)の続きです。自分は本当の意味で信仰をもっているのか、信仰がどういうものか理解しているのか、という素朴な疑問があります。神に対する従順と信頼は、自分には怪しいもので、そこを問われると答えに窮します。信仰は自分で意図的に身につけるものなのか、意図せずに生まれてくるものなのか、自分にはわかりません。キリスト教は、とりわけカトリックは、荘厳にして華麗な教会装飾により、自分の感覚とは異なる文化に溢れていて、そうした意味で芸術や学問としてこれを学ぶとしたら、大いに興味関心の尽きぬ世界です。でも、これは信仰とは違います。聖書の中にある諭しにも一定の理解と納得はしていますが、これも信仰とは違うと思っています。極論すれば、日本のような秩序が保たれた先進的な社会にあって、宗教の必要性を問いたくなるのは無理のないことかもしれません。社会全般が不安定で生死の境を彷徨っていれば、何かに縋りたくもなるし、超絶的存在に依存したくもなると思います。ただし、この問題は社会全般として片付けられるものではなく、個人の内面に拠があるので、信仰の自由はあって当然です。自分にも何かしら信仰が宿っていると感じることがあるのです。験を担いでみたり、縁起の良いことをしてみるのも信仰の現れと言えます。人間はどこか脆弱なところがあり、社会を形成するために何かしらストレスを抱えています。フロイトの言う超自我は、外に向けて自分を保ち、内向きで弱い自分を見せないような要求をしてきます。信仰とはそんな自分の中でバランスをとるための欲求かもしれません。前述の導入文の答として、人間を超えた存在が希望を叶えてくれるかもしれないという他者依存の現われが信仰だと私は思っています。それがたとえ宗教でなくても、信仰は思考したり感受したりできる人間に本来備わっているものではないかという解釈をしているのです。

関連する投稿

  • 週末 梅雨前線の活発化 週末になりました。昨晩から関東地方は豪雨に見舞われていて、夜中に警戒警報が鳴りました。土砂災害に纏わる避難勧告が出されていましたが、私が住んでいる地域は周囲に河川が少ないため、大きな被害にはならなか […]
  • 厚板下書き&バラ園散策 中規模の新作は今日から作り始めました。過去幾度となく私が作ってきたテーブル彫刻になりますが、今回の新作では陶彫部品を接合せず、木材のみで作ります。厚板を4本の柱で支える構造ですが、厚板には文様化した […]
  • 東京の自衛隊大規模接種センターへ… 新型コロナウイルス感染症のワクチン接種が始まり、私は65歳になっていたので、既に接種券や予診票が横浜市から送られてきていました。すぐに地元の横浜市のワクチン接種に関するネットにアクセスして、何度か予 […]
  • 体力維持のために… 私は自宅の近くにスポーツ施設があるため、そこで水泳をしていました。20年以上も前は仕事帰りに夜間コースに通い、そこで知り合った仲間たちとマスターズ登録をして、年齢別の競技大会にも出ていました。その頃 […]
  • 一日のルーティンを考える 学校を退職し、私は日々の出勤がなくなりました。一日中自由に過ごせる日常は、退屈と隣り合わせになるかなぁと考えていましたが、1週間以上が過ぎた今は校長職にあった時と変わらない時間の使い方をしています。 […]

Comments are closed.