映画「サウルの息子」について

今だから語れる真実があるとすれば、かつて人々が経験した戦争の惨状だろうと思います。戦争は特定民族に焦点を当てて根絶させようとする大量虐殺を生み出し、その代償は孫子の代まで禍根を残すと言っても過言ではありません。ナチスによるホロコーストはその最たるもので、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を初めとする各地に点在する収容所の惨状は、人類史の中でも最悪な汚点です。その猛威をふるっていた時代に収容所内部を定点観測の如く手持ちカメラで撮影したとすれば、きっとこんな状況だったのではないかと思わせる映画が「サウルの息子」でした。ユダヤ人の大量死体処理のために同胞から選び抜かれ、数ヶ月後には自分も同じ運命を辿る特殊部隊ゾンダーコマンド、その一人がサウルでした。未来のない強制労働に、サウルはガス室で生き残って軍医に殺害された少年を自分の息子と決め、ユダヤの教義に従った埋葬を望みます。そこにサウルが命がけで人間の尊厳を取り戻そうとした、人としての意思が読み取れました。それはナチスが部品と呼んでいた遺体に、人間性を見いだそうとしたサウルの小さな抵抗でした。しかしこの小さな抵抗は収容所で非業の死を遂げた全てのユダヤ人に対する贖罪と鎮魂だったと言えるのではないかと私には思えました。映像はサウルを執拗に追う手持ちカメラで進行します。観客はサウルの視点に限られた画面でしか情報を伝えられませんが、サウルの背後に展開する惨状に圧倒されます。ガス室は内部で激しく扉を叩く音と凄まじい阿鼻叫喚の響きがあるだけで、その音響によって観客は戦慄を覚えます。この映画のもうひとつの主役は音です。音によって想像を掻き立てられ、映像をさらに立体的に構築している効果があるのです。フィクションと言えども、これは一人の人間として生きていく証を突きつけられる衝撃の作品で、翻ってわが国も戦争によって犯した重大な罪があり、その償いに常に面と向かって考えるべき絶好の機会になると思いました。

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