「夢の問題に関する科学的文献」後半部分

やはり大著を読むのには相当の時間がかかることを改めて自覚しました。常に鞄に携帯しているのに、読みたい気分にならない時が結構あります。この場合、読書はリラックスタイムではないと思った方がいいのかもしれません。「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)の第一章に付けられたタイトルの後半部分を漸く読み終えました。後半部分は「なぜ人は夢を覚醒ののち忘れるのか」という章から始まりました。シュトリュンペルや他の研究者が論考を寄せる中、次の一文に気を留めました。「(文は)秩序に従い、適切な順序で並べられていれば、一つの語が他の語の助けとなり、そして全体は意味あるものとして記憶中に容易に、また長期間にわたってしっかり残る。それに対して、不条理なことは、錯綜して無秩序なことと同様、一般に保持しておくのが困難で、まためったに保持されることもない」という暗喩で夢の忘却が語られています。次の章は「夢の心理学面での特殊性」で、夢は心にとって奇異なるものとして捉えられ、ここではシュライエルマハーの一文を引用をします。「覚醒状態の特徴は、~略~思考活動が像ではなく、概念によって進行するところにある。さて夢はおもに像によって思考する。そして睡眠に近づくにつれて、意志的な活動が困難になり、またそれとともに意思によらない表象が現れる」というものです。さて次なる章は「夢の中の倫理的感覚」に関してです。夢の中にどの程度の道徳的素質が入り込んでくるのかという問いかけに対し、イェッセンの一文を引用します。「夢の中で良心は沈黙するようだ。つまり、同情も感じず、窃盗、殺害、撲殺などどんな重犯罪でもまったく頓着なしに犯すことができ、その後、後悔もしないのである」という反道徳的な箇所が特に印象に残りました。次は「夢理論と夢の機能」で2つの試みを提示しています。一つは「覚醒時の完全な心的活動が夢においても継続するという理論」、二つ目は「これとは逆に、夢においては、心的活動性の低下、連関のほころび、必要とされる素材の不足が生じるとされる理論」があるようです。最後の章では「夢と精神病の関係」が述べられています。紙面の関係で結論部分のみを引用します。「将来、夢の心理学と並んで、医師が夢の精神病理学に取り組むであろうことにまず疑いの余地はない。」引用文の羅列になってしまいましたが、今後の展開を考えると、この大著に関して章ごとにまとめておきたかったというのが本音です。

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