非道具的存在性における突飛な発想

「世界内存在の日常性には配慮的な気遣いの諸様態が属しているのであって、それらの諸様態は、世界内部的なものの世界適合性がそのさい現れ出てくるように、配慮的に気遣われた存在者を出会わせるのである。たとえば、まず最も身近に道具的に存在している存在者は、利用不可能なものとして、その特定の利用にはあつらえむきでないものとして、配慮的な気遣いのうちで遭遇されることがある。仕事の道具が損傷していることがわかったり、原料が不適当であったりすることがわかるような場合が、それである。そのさい道具はいずれにしても道具的に存在してはいる。しかし、利用不可能だと暴露されるのは、あれこれの固有性を眺めやりつつ確証するからではなく、使用しつつある交渉の配視によるのである。利用不可能だとそのように暴露されるときに、道具は目立ってくる。道具的に存在している道具が目立つようになるのは、或る種の非道具的存在性においてなのである。~略~この使用不可能なものは道具でありながら事物としておのれを示すのであって…~以下略~」些か長い引用になりましたが、「存在と時間Ⅰ」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)の中にあった文章です。道具が壊れて使い物にならない時にこそ道具の存在が明確に示されることが述べられていますが、自分はこれを読んでいるうちに突飛な発想が頭を過ぎりました。もちろんハイデガーの論考とは異なることは承知の上でシュルレアリスム的発想が芽生えたのです。道具の用途を転換し、道具の存在性だけを示した一連の作品、たとえばM・デュシャンのレディメイドやその他諸々の作品がそれです。存在論から発想するモノとして突飛なことが出てくるのは、それはそれで楽しいのかなぁとも思っています。

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