「意志と表象としての世界」まとめの前に…(その2)

「美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、われわれが純粋観照の状態に入ったとき、その瞬間にはいっさいの意欲、すなわちいっさいの願望や心配を絶して、いわば自分自身から脱却し、われわれはもはやたえまない意欲のために認識する個体ー個体とは個々の事物と対応するものであるーではなしに、すなわち『眼前にある』いちいちの客観が動機となるような個体ではなしに、意志を離れた永遠の認識主観ーこれはイデアと対応するものであるーになっているということにいつにかかっているのである。われわれは知っている、われわれが残忍な意志の衝迫から解脱して、いわば重苦しい地上の空気から脱け出して浮かび上がっているこのような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうるもっとも祝福された瞬間であることを。そうだとすれば、ここから推定して、美の享受におけるこの場合のように意志が瞬間的に鎮められるのではなくて、永久に鎮められているような人がいるとしたら、その人の生活がいかに至福に満ちあふれた生活であらざるを得ないかは言を俟たないであろう。」「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)純粋観照の状態とは美的なものに圧倒された時に、我を忘れて感動が溢れだす瞬間を言います。考える余裕もなく、つまり本書で言う意志の認識する個体ではない精神状態に置かれた時のことです。それは自分にも訪れることがあります。美術や音楽、または風景や環境によって鳥肌が立つほど震える経験です。それは意志から解脱した状態であると本書は説いています。その解脱状態が永久に続くとしたら、それは意志の否定、完全なる諦念に基づく浄化や聖化があって、さらに揺ぎない寂静と浄福と崇高な境地に立てるのだと述べています。いよいよ本書も最終に入りました。

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