「意志と表象としての世界」第二巻の読後感

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第二巻を読み終えました。「意志」に関するさまざまな論考をまとめ上げるには、あまりに膨大でどうしたらよいかわからないと思っていたところ、第二巻最終章に適切なまとめがありましたので引用いたします。「われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。」「実際、いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということは、意志そのものの本質に属している。意志は終わるところを知らぬ努力である。」「努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、間もなく忘れ去られ、古着のようにぬぎ捨てられ、実際にはいつでも、公然とではないにしても、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられる。願望から満足へ、そして満足から新しい願望へという移り変りがすみやかに進む場合を幸福と称し、ゆっくり進む場合を苦悩と称するが、願望すべきものがまだ残っている間は、この休むことのない移り変りの、自由に動く余地が保たれ、停滞に陥らずにすむ。しかし移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、特定の対象をもたない気の抜けた憧憬、死にたい思いにさせるほどのもの憂さとなってあらわれるのである。」以上3点の引用文をもって第二巻のまとめに代えさせていただきます。

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