「意志」に纏わる論考

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第二巻は「意志」がテーマになっています。気に留まった箇所を引用しますが、全体としてのテーマに沿った重要な部分かどうかは自分では判断できません。「意志の現象のうちの若干数は、その客観化の低位の段階、つまり無機的な領域においては、たがいに葛藤し合い、因果性に導かれつつ、それぞれが目前の物質を占領しようとすることがあるのである。この闘争から、一つのより高位のイデアの現象が立ち現れ、今まであった不完全なイデアをことごとく圧倒してしまう。しかし、高位のイデアは自分のうちに今までの不完全なイデアの類似物をとりこむことによって、今までのイデアの本質を従属的な仕方で存立させておく。こうした事態が起こるのは、ほかでもない、イデアはいろいろあっても現象する意思は一つであること、および意志はだんだんと高度の客観化をめざして努力するものだということからのみ理解できることである。」イデアとはプラトンの定義したものです。引用を続けます。「いかなる意志現象も、人間という有機体のなかに現れる意志現象もやはり、多くの物理的・化学的な諸力と持続的な闘争をつづけている。物理的・化学的な諸力は、低位のイデアであるから、物質に対し先行権利を有しているのである。人が重力に打ち勝ってしばらくのあいだ持ち上げたままにしておく腕が、やがて下がってくるのは、この闘争がつづいているためである。快適な健康感とは、自己意識をもつ有機体のイデアが、体液を根源的に支配している物理的・化学的な諸法則に打ち勝った表現であるが、このような健康感が、たびたび途切れてしまうというのも、右(ブログでは上)の闘争が行われているためである。快適な健康感は途切れるだけでなく、大小の差はあれ、ある種の不快感につねにつきまとわれるのが本来の姿だといっていいが、それも例の物理的・化学的諸力からの抵抗に由来する。この事実だけでも、われわれの生の植物的な部分は、かすかな苦悩とたえることなく結びついているのだといえる。消化があらゆる動物的な機能を低下させるのもこの同じ理由による。同化作用によって化学的な自然の諸力に打ち勝つために、消化は生命の全力を傾注することを要求するからである。そのためにまた、一般に肉体的な生の煩わしさが生じ、睡眠の必要性が生じ、かつさいごに死の必然性が訪れるのである。」

関連する投稿

  • 「超越論的ー論理学的問題設定の諸疑問」第69節~70節について 「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 […]
  • 東京駅の「きたれ、バウハウス」展 先日、東京駅にあるステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展に行ってきました。バウハウスとはドイツ語で「建築の館」という意味です。1919年に建築家ヴァルター・グロピウスによって設立 […]
  • 新聞掲載のフロイトの言葉より 昨日の朝日新聞にあった「折々のことば」(鷲田清一著)に興味関心のある記事が掲載されていました。全文書き出します。「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。ジ […]
  • 師匠の絵による「人生の選択」 昨日、長野県の山里に住む師匠の池田宗弘先生から一冊の絵本が送られてきました。「人生の選択 […]
  • 建築に纏わる東京散策 今日は夏季休暇を取得して、前から計画していた東京の展覧会等の散策に出かけました。先日も夏季休暇を使って「江戸東京たてもの園」に行ったばかりですが、今日も建築に纏わる散策になりました。例年なら夏季休暇 […]

Comments are closed.