「枯山水」読後感

家業が造園業であったにも関わらず、自分は造園関係の書籍を読んだことがありませんでした。学生の頃、造園の仕事が好きになれなくて、造園を学問として扱うことを避けてきたように思います。実際は自然石を据え付け、植木を配置して、時に池泉の施工に父や職人とともに関わっていたのですが、それを生涯の仕事としてやっていく自信がもてなかったのでした。自然石や植木は自分の思い通りにならず、また造園会社という組織を動かすことも自分には躊躇われました。巡り合せは不思議なもので、土を焼き、木を彫り、空間にそれらを配置した彫刻を作るようになって、ようやく庭園に興味関心が出てきました。「枯山水」(重森三鈴著 中央公論新社)を読み終えて初めに感じたことは庭園と自分の繋がりです。本書では平安時代から現代にいたる日本庭園の造形変遷を扱っていて、宗教や絵画の影響、そして現代の課題まで、枯山水を多義に亘って説いています。とりわけ室町時代に興った象徴主義的庭園は特筆に値すると思いました。まとまった箇所を引用すると「慈照寺の白砂檀から、竜安寺の枯山水に発展し、それが大仙院の枯山水となって躍進し、更に退蔵院の枯山水において日本化した」とあります。最後に作庭家であった著者自身による創作論が展開されている箇所があるので、これをもってまとめにしたいと思います。「私は、時によっては陶器ばかりの枯山水を作ったり、土だけの築山を設けたり、白砂だけの地紋を作ったり、切石による彫刻的なデザインによる石組を作ったり、刈込のみによる特殊なデザインの庭としたり、庭木の手入法を全然変化させて、庭木のみの庭としたり、敷石のみによる色彩的又は地紋の変化を見せる庭としたりなどして、従来に見られなかった枯山水を作ることが可能だと信じている。~略~そのいずれであるにしても、庭園である限り、特に枯山水の場合は枯山水としての創作であり、本質的な意味での枯山水でなければならない。」著者の自由闊達で筋の通った庭園論をさらに深めたい欲求に駆られました。

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