西洋の没落「国家」そのⅢ

「西洋の没落」(O.シュペングラー著 村松正俊訳 五月書房)の第二巻を読んでいます。第4章「国家」そのⅢとした副題は「政治の哲学」です。「政治とは何であるか。-可能なことの技術である。これは古い言葉である。そうしてそれでほとんどすべてをいいつくしている。植木屋は植物を種子から育てあげることもできれば、その茎を接木することもできる。植物中に隠れている胚を、その成長と姿とを、その花と果実とを発展させることもできれば、萎縮させることもできる。植物の完成、その力、その全運命は可能なこと、したがって必然的なことに対するかれの眼識に依存している。しかしその現存在の根本的形態と方向、その段階と速度と寿命、これを動かす法則はかれの力のおよばないところである。それらは実現されなければならない。そうでなければそれらは滅亡する。そのことは『文化』と称する巨大な植物についてもその政治的形式具のなかに封じこまれた人間種族の現存在の流れについても同様である。大政治家は民族の植木屋である。」「大都市とともに非階級、すなわち市民階級が指導権をにぎるや否や、転換が生じた。今やこれと反対に政治的形式が戦いの対象に、問題にまで高められる。そのときまでは政治的形式は成熟したが、今は創造されなければならない。政治は覚醒存在し、理解されるばかりではなく、概念化される。血と伝統に逆って知性と貨幣との力がたちあがる。有機的なものにかわって組織されたものが登場し、身分にかわって政党が登場する。政党とは人種の産物ではなく、頭脳の集積であり、したがって知性において古い階級にまさっているとともに、本能においてそれよりも貧弱である。」「新聞は今日では、注意深く組織された兵種を有し、記者を士官とし、読者を兵とする軍隊である。しかしこの軍隊においても、他のすべての軍隊と同じように兵は盲目的に服するものである。そうしてその知らない間に戦争目的と作戦計画とが変わっている。読者は自分がどうされるかについて何も知らない。また知ってはならない。そうしてまたどんな役割を演ずるかさえも知ってはならないのである。思想の自由に対して、これより恐ろしい風刺はない。かつて人は自由に考えることをあえてする必要がなかった。今やそうすべきである。しかももはやそうできない。人は欲すべしとされたことを考えようと思うだけである。そうしてそれこそ自由と感ぜられるものである。」選抜した文章引用が長くなりました。

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