「もの派」を考える

素材に何も手を加えず、ギャラリーの空間に放置する展示方法を自分はどのように考えるか、現代に至る造形思想史を辿れば、「もの派」の登場した背景がわかりますが、これを美術に関心の薄い人々はどう見るのでしょうか。もっとも私の非対象の造形作品にも説明を求めてくる人がいるので、「もの派」となれば物質と哲学を表裏一体にして提示する必要があるのかもしれません。昨日のNOTEに引き続き、「問いなき回答」(建畠哲著 五柳書院)から造形作家李禹煥について論じた部分を抜粋して「もの派」について考えてみたいと思います。「室内であれ野外であれ、李の作品はある位置を占拠するのではなく、むしろその場の時間と空間とを浸透させながら、同時に自然そのものへと解消されることのない、確かな強度を維持しているのである。それはまた自立した物体の示す即物的な存在感とも関わることのない強度である。『開かれた拘束性』と彼は言う。『出会いを呼び起こす』ためには『世界と解け合っていながら他のものと隔てられている、作品の二重性』が必要なのだ。それは自然石を作品の中へと構造化し、人工的な鉄板を同じ構造の中に放置するという、在り方の『ズレ』による世界の顕在化であると言えるかもしれない。そのズレによって、作品の構造は開かれ、”それだけで完結した”造形とは別の様相を美しく開示する。~略~」別の様相という在り様は自分にもよく解ります。かつて横浜美術館で見た「李禹煥展」で感じたことのひとつです。解け合うところと隔てられるところ。自分のその時受けた感覚を巧く説明できませんが、広がる自然な空間に凛とした隔たりをもって物質が存在している状態を感じ取ることがありました。それは「もの派」を自分の中に取り込めた瞬間だったのかもしれません。

関連する投稿

  • 美術館&ギャラリー巡りの日 週末になり、ウィークディの仕事から気分を解放させるため、今日は美術館に出かけました。朝8時半に家を出て東京の六本木まで電車を乗り継いで行きました。国立新美術館で開催中の「シュルレアリスム展」は必ず行 […]
  • 「種村李弘の眼 迷宮の美術家たち」展 先日、東京の西高島平にある板橋区立美術館に行き、表記の展覧会を見てきました。故人である種村季弘は、私が滞欧中に親しんだウィーン幻想絵画を取り挙げた文学者で、深層心理に働きかけをするドイツ・オーストリ […]
  • 土練りのあと美術館へ… 成形に使う陶土がなくなり土練りをしました。陶彫は土を単身ではなく複数の土を混ぜて使っているのです。近々新しい土錬機が来るので、今使っている土錬機最後の仕事かもしれません。自分と懇意にしている陶芸業者 […]
  • 辻晋堂の彫刻 八木一夫のオブジェ焼に関する書物を読むと、そこにちょいちょい辻晋堂という名が出てきます。彫刻家辻晋堂は亡くなられて随分経ちますが、ギャラリーせいほうで個展をやっていた作家でした。自分は学生時代に個展 […]
  • 週末 上野と青山の美術館巡り 今日は東京の美術館を巡って3つの展覧会を見ようと予定していました。工房はまだ窯入れしている陶彫部品があるため今日は使用できず、それならば美術館に行こうと決めたのです。まず、上野の東京都美術館で今日か […]

Comments are closed.