彫刻にむけたコトバ

真白い大理石から・彫りだされてくるきみ・先ず胸筋が初めての風を受け・頬には荒々しいのみの跡。谷川俊太郎の詩集「空に小鳥がいなくなった日」からの「裸」という詩の一節です。高校3年生の時、これを読んで彫刻っていいなと思いました。これが理由で彫刻家になる決心をしたわけではありませんが、脳裏に焼きついた一節であることに変わりはありません。コトバがもつ唯物としてのイメージがあって、石の荒彫りから完成にいたる情景が目に浮かびました。その頃はまだ彫刻の何たるかを知らずにいましたが、たとえばミケランジェロの作品がこんな具合に生まれてきたのかと連想させられます。コトバのもつストレートな力を感じて、こんなコトバがどうしたら出てくるのか羨望さえ抱きました。

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