週末 新作の内環部分の着手

今日も昨日に続いて工房に篭り、制作三昧の一日を過ごしました。まだ題名が決まらない新作の進捗状況ですが、作品全体はちょうど古代ギリシャで見られる円形劇場のような擂り鉢状の造形になる予定です。一番外側になる円環部分を20個の陶彫に分けて作っていましたが、一番外側の壁になる陶彫20個と、その上に配置する陶彫20個が完成し、現在は焼成を始めているところです。今日はその内側に位置する円環(内環)の大きさを決め、それをまた20個で構成するため、それぞれをどんな造形にするのか構想を練りました。ちょうどこの内環部分が作品全体の中核を成すので、じっくり考えました。今回の陶彫部品には曲面が少なく、平面を折りたたんだような構成要素が大半を占めます。全体では円形になるのに、ひとつひとつは直線(平面)が多いのです。それが新作の特徴と考えたのです。陶を使っての直線的な造形は難しいものがありますが、過去に類を見ない作品にしようと挑戦をしていると言っても過言ではありません。実際は四苦八苦していますが、何とかカタチにしたいものです。内環部分の成形は来週から作り始めます。制作サイクルは順調ですが、残り60個を何とか3ヶ月で作り上げなければならず、余裕がまるでありません。このところウィークディは窯を2回焚いているため、工房での制作は出来ません。と言っても、ウィークディの仕事が年度末を迎えているため、日々の神経疲れが激しく、夜は工房に行く意欲がなくなってしまっているのです。でも、今が粘り時です。今頑張らなければ、先は見えてきません。制作でも職場でも自分が放り出すわけにはいかない、制作では自分の根っこがそれを許さず、職場では自分の立場がそれを許さないのです。オレはまさに生きているなぁと感じる瞬間でもあります。

週末 作業と会話

久しぶりに週末になった実感が今日はありました。ウィークディの仕事が厳しかったことが、この実感に繋がっていると思っています。創作活動も厳しい局面を迎えているのですが、またウィークディの仕事とは意識が異なります。今日は朝から工房に篭りました。陶彫部品の仕上げと化粧掛けの作業に追われました。来週も今週に続いて窯入れをしたいと考えているからです。出来れば週の途中で陶彫部品を入れ替えて2回分焼成したいと思っています。陶彫部品の乾燥が進んでいるため、制作サイクルに弾みがつき、焼成を急いでいるのです。次の成形もそろそろ考えねばならず、時間との闘いになっていますが、土曜日はウィークディの疲れがあるためか身体が思うように動かず、気ばかり焦っている状態です。そんな折に工房に来ている若いスタッフとお茶を入れながら、詩について会話を交わしました。若いスタッフは詩的な文章を書く人で、自然な流れの中で詩的発想が生まれるようです。私は高校生の頃から詩人に憧れていたと言ったら、彼女はまったく詩人を意識したことがなく、また詩人になろうとも思ったことがないと言ってきました。自己の素質に詩的世界を操る能力を持っていれば、詩人に憧れることもないのかぁと私は自覚しました。こうした何気ない会話が私には貴重に思えます。大学院には議論好きな人がいると彼女は言っていましたが、私も学生時代は彫刻以外の人たちと議論をしていました。学校を卒業すると経済的な仕事に追われ、仕事以外の話をする機会が減ります。ましてや芸術のことなど話す機会は滅多にありません。疲れて身体が動かない土曜日に作業ばかりではなく、私の会話に付き合ってくれた彼女に感謝です。

仕事の後は美術館へ

ストレスのかかる仕事をした後、それをどう解消するか、人それぞれの方法があろうかと思います。少し前は私はスポーツ施設に行き、水泳でストレス解消を図っていました。五十肩が完治していない今は、美術や映画の鑑賞しかありません。そこで今日は勤務時間が終わってから、家内と橫浜駅で待ち合わせ、東京六本木にある森美術館に出かけました。「村上隆の五百羅漢図展」は前から見に行こうと思っていましたが、私自身が村上ワールドをあまり好きになれないことが、展覧会に行くかどうか迷いを生じさせた原因でした。相原工房に出入りしている大学院生が、村上隆が代表を務める有限会社カイカイキキで行っている制作現場に出かけてアルバイトをしてきたことが、村上ワールドを身近に感じさせた要因になり、それなら展覧会に行って見ようかと思ったのでした。アルバイトに行った彼女曰く、窓のない広大な建物の内部で、多くの美大生を雇い、壮大な作品を作っていて、全てシルクスリーンによる表現だと言うのです。スーパーフラットとはこのことを言うのかと思いました。彼女はあまりの労働の辛さに音を上げ、僅か5日間でアルバイトを辞してしまったと言っていました。制作は24時間体制でシフトを組んで行われ、短期間で超大作を作り上げる工房システムだったようです。そのスケールにも驚かされました。実際に見た村上ワールドは煌びやかな装飾に彩られ、巨大なスケールの画面にサブカルチャー的要素の強い五百羅漢が踊っていました。古来の日本絵画を村上流に仕立て直し、そこから迸り出るパワーにも圧倒されました。詳しい感想は後日にまわしますが、キラキラな作品を見た後で、私は少々毒気を抜かれてしまったようでした。

それでも新聞を読んでいます

インターネットの普及で、新聞の購読率が下がっているという話を聞きます。新聞ファンの私としては残念だと思いますが、それでも新聞を読もうといろいろな人に勧めています。インターネットはひとつの話題を掘り下げていくのに大変便利な媒体です。併行して知りたい情報が次から次へと出てくるからです。では新聞の魅力は何か、私は誌面全体に広がる視界情報だと思っています。興味の有無に関わらず、新聞を捲ると視界に飛び込んでくる多くの情報がそこにあるからです。何気なく目を移しながら、つい読んでしまう、そんな四方山的な情報の摂取が、自分の知識を広げ、心を豊かにするのではないかと思うのです。私は専門から言って文化芸術欄を必ず読みますが、職場の関連する記事もコピーかスクラップをしておきます。新聞によって私が興味を持ったのは国際情勢です。とくに日本を取り巻くアジア諸国の動向が気になるところです。株価等の経済情勢も気になっています。自宅では親の代から朝日新聞を購読しています。学生時代、朝日新聞の夕刊に掲載されていた展覧会評を当時スクラップブックに貼っていました。ギャラリーせいほうの個展も掲載されていて、いつかは自分もと思っていたのですが、現在その欄はありません。職場では朝日新聞の他、読売新聞、神奈川新聞、日本経済新聞をとっていて、職場に来れば必ず目を通しています。新聞によって記事の扱い方が違うのを楽しんでいます。インターネットの利便性が高いのは百も承知で、それでも私は新聞を読んでいます。

公務員職に拮抗する創作活動

「~さんは近々手術のために入院するんだって。それでもそんな素振りを見せずに練習に来ている。」「~さんは和楽器の他に書道や料理もこなす凄い人だ。」と家内がよく私に喋る何気ないコトバです。胡弓を演奏している家内は、年上の人たちとの交流が多く、その中には70代や80代の自由闊達な御仁もおられるようです。「あなたは今の仕事を退職してしまうと、きっと老けるわね。」と家内に言われ、然も有りなんと思ってしまう自分がいます。今の仕事は神経を使う厳しい面がありますが、降りかかった課題に何とか対応しようと私の声かけで組織を動かしていく、言ってみれば大変やりがいのある仕事です。でもそんな組織の中だからこそ頑張れるのであって、私個人はどうなのだろうと思ってしまいます。幸い私には創作活動がありますが、創作活動一本になるとどうなるのか、実は想像がつかないのです。先日のNOTE(ブログ)で気持を吐露した通り、私の創作活動は二足の草鞋として、公務員の仕事に拮抗してやってきました。その生活が長いため退職が怖いと言っても過言ではありません。もう一年再任用管理職としてやれることが決まっていますが、その後はどうなるのか、毎日彫刻家として自分を深める生活が出来るのか、そんな思いを抱いて仕事帰りに工房に立ち寄りました。焼成が終わった作品を窯から出して、次の作品を窯に入れる作業があるため、夜になって工房に行ったのです。そんな作業をしていると、ふと職場のことを忘れ、解放気分に浸れます。家内の周辺にいる人たちのように自由闊達に創作活動が楽しめるように、まだまだ若さを保ちつつやっていきたいと思うこの頃です。

花粉症が始まった

風邪なのか花粉症なのか、昨日は体調が悪かったのですが、どうも風邪の症状もなく、ましてや職場で流行っているインフルエンザでもなく、これは恒例の花粉症が始まったのかなぁと思っています。今日もくしゃみと鼻水が出てティッシュが手放せません。花粉症は年齢とともに軽くなっていくように思っていますが、毎年発症した初日はつらいものがあります。30年ほど前、初めて花粉症になった時は熱が出ました。現在それはありませんが、鬱陶しいのは相変わらずで、仕事が滞ることもあります。そんな時に限って仕事上の厳しい対応に迫られています。花粉症なんか気にしていられるかと啖呵を切ってみても、困難な状況は変わりません。花粉症は季節性のアレルギー鼻炎なので、時期とともに軽減していきます。仕事上の困難さも何とか複数の人の知恵を結集してやっていくしかありません。二束の草鞋生活を続けたいと昨日のNOTE(ブログ)に書いたばかりですが、さらにもう一年こんな課題を背負ってやっていくことに希望が揺らぐことはあります。花粉症のように一過性の困難であることを祈るばかりです。

二足の草鞋生活の影響

月曜日になりました。早朝出勤して仕事を全うし、夜には自宅に帰る生活が今日からまた一週間続きます。週末が待ち遠しいと思う生活は公務員になった時以来、長いこと続いていて、この仕事だけでも充分に働きがいがあるなぁと思っているこの頃です。私は公務員になる前から創作活動をやっているので、週末は彫刻の制作に明け暮れています。ウィークディの夜にも小さな平面作品RECORDをやっていたり、このNOTE(ブログ)を書いているので、一日のスケジュールに余裕がありません。こんな生活を続けてきた影響は、きっと退職後に出てくるのではないかと危惧するところです。多忙な生活から一気に時間ができる生活になるのは精神的に危険だなどと思ったりしています。指折り数えて夢にまで見た退職後に訪れる創作一本の生活、これはもうこの歳まで仕事をしてきたんだから、次の人生ステージは20代の頃に理想として思い描いてきた彫刻家としての生活を謳歌しても罰はあたらないのではないかと思う生活です。ところが、今となっては心境の変化が著しく、再任用管理職を希望している次第です。管理職を続ける理由は、現在の職場環境をどうにかしたいと思っているのが主なことですが、もう少し二足の草鞋生活を続けていたいとも考えています。多忙に慣れて創作時間を確保するために工夫をしてきた私です。生活を変えることは1年間かけて少しずつやっていきたいのです。

週末 華やぐ工房

今日の題名は特別のことではありません。工房にやってくる若いスタッフが与える心地よい影響のことを言っているのです。この時期、季節は三寒四温で体調を崩しがちになりますが、今日は春めいた快適な一日でした。工房は亡父の残してくれた植木畑に建っています。植木が周辺に多くあるというのは、季節ごとに移ろう花が視界に入ってくるのです。今は梅の花が満開です。工房の窓際には梅の大木が数本あって、窓から見える花々に心救われる思いになります。私は朝最寄の駅に着いた若いスタッフを車で迎えに行きます。車は工房に止めておきますが、家内が胡弓や三味線の練習の時は、私が車で練習所まで送っていくのです。家内が工房にやってきて車に乗ったときに「工房は外も内も華やいでいるね。」と言っていました。外は梅の花、内は若いスタッフ2人がいたからです。若いスタッフは2人とも美しい女性です。一人は中国籍のアーティスト、もう一人はインドネシア留学を終えた大学院生で、それぞれ自分の課題をやりにきているのですが、必要とあれば私の作品を手伝います。事情がわかっている家内は他愛のない一言をかけていたのですが、私はこの2人に実は精神的に助けられていることが多いのです。まだ20代で自己表現が定まらない2人にとって、創作活動は自分との闘いで悶々とした苦しさの中にいます。その自分を追い詰めていく空気感が私にも伝播してくるのです。私も自分の制作でボヤボヤしていられない状況になっていきます。張り詰めた空気が工房を支配し、お互い創作感覚が鋭くなっていくのを感じます。これは大変良い効果です。ただし、工房を去るときは私は疲労困憊してしまいますが、彼女たちは至って元気です。外見的には華やぐ工房ですが、内実は負けん気の集中力が炸裂する世界なのです。

週末 窯入れの前段階

週末になって工房での制作に拍車がかかります。ウィークディの疲労が残る土曜日ですが、そうも言ってはいられず、朝から身体に鞭を打っています。幸い若いスタッフが来ていて、自らの課題に夢中で取り組んでいるため、私も刺激を受けています。「疲れたぁ。」呟く声とは裏腹の溌溂とした彼女の笑顔に、私は何度も助けられています。「オジさんの方こそ疲れているんだ。」私の呟く声は本音です。肩が痛い、腰が重い、ままならぬ身体に、気合ばかりではどうしようもないことがあることを思い知らされています。それでも時は待たず、乾燥した陶彫部品が床に所狭しと置いてあります。陶彫部品は両手でやっと持ち上がるくらいの重量です。石や鉄の作家よりマシと思っていますが、この多くの部品を何とかしなければなりません。私の制作工程は、成形を終え乾燥した陶彫部品をヤスリにかけて、指跡を極力消していく作業があります。ヤスリがけの後に作業台は粉になった陶土でいっぱいになりますが、これを集めて容器に入れておきます。この粉を水に溶けばドベが作れます。これほど便利なリサイクルはありません。次の段階として、化粧がけをおこないます。化粧土は2種類使います。ここまできて漸く窯に入れることが出来るのです。部品が大きいので一度に焼成出来るのは2個から3個です。効率の悪い窯入れですが、陶器と違って凸凹が多くあり、窯内に無駄な空間を作ってしまうのが辛いところです。一週間のうち月曜日から水曜日を1回目、水曜日から金曜日を2回目として焼成を行っています。明日の夕方に窯のスイッチを入れます。明日も制作を頑張ります。

「自我・エス・超自我」について

かつて読んだニーチェの哲学書にも出てきた語彙ですが、精神分析学でフロイトが提唱したコトバが「自我・エス・超自我」です。現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第五章「フロイトの欲動の理論」に登場する第二局所論に、このコトバがよく出てくるので、改めて確認をしておきたいと思います。哲学や精神分析学に取り上げられるコトバは、普段の意識にのぼらない意味を含んでいて、形而上として捉える必要性があります。まず「自我」ですが、ネットで検索をしてみました。当初といっても1923年の話です。「自我」は当初、自己や私という意味であり、ここまでは私も普通に理解できるところですが、1923年以降のフロイトが精神分析に取り組むにあたり、「自我」を意識と前意識に無意識的防衛を含む心の構造として定義していきます。意識・前意識・無意識とは何か、これは簡単に説明できないので、私のNOTE(ブログ)のアーカイブから「フロイト入門」に関する文章を引っ張り出せば、説明している文章が出ていると思います。「自我」は「エス」からの要求と「超自我」からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する役割をもつのです。では「エス」とはなにか、これは無意識のことで無意識防衛を除いた感情や欲求や衝動のことを言うのだそうです。つまり本能に忠実なエネルギーのことです。「超自我」とは、ルールや道徳観、倫理観のことで「自我」と「エス」双方に伝える機能があるそうです。「超自我」は人として社会生活を営む上で必要な要素を有していて、さまざまな抑制の源になるように思えます。逆に「エス」が本能であるならば、「自我」に「エス」的部分が強ければ、感情を抑えきれない困った人になるのかなぁとも思いました。余談ですが、この「エス(es)」というドイツ語の意味の深さに私は驚いてしまいました。「Es ist~(それは~です)」というドイツ語会話は、普段の生活の中で頻繁に出てきます。私も滞欧中には多用していました。ずっと後になって和訳のニーチェを読んだときに不思議な感覚をもちましたが、哲学や精神分析学でのエスの扱いを改めて認識した次第です。

「幼児の性的な成長と性格の形成」まとめ

「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第四章「幼児の性的な成長と性格の形成」のうち後半部分である「幼児の前性器的な体制と性格形成」と「エディプス・コンプレックスの運命」のまとめを行います。これをもって第四章全体のまとめとさせていただきます。「幼児の前性器的な体制と性格形成」の導入として冒頭部分を引用します。「フロイトの前性器的な体制の理論の興味深いところは、それが倒錯と結びつけて考えられているだけではなく、成人の性格と関連づけられていることである。~略~口唇期では、口唇粘膜と口膣粘膜の性的な利用が、性倒錯の主要な現象となり、肛門期では肛門の性的な利用が倒錯となる。男根期では去勢コンプレックスとの関係で、フェティシズムが重要な性倒錯として挙げられている。」それらが幼児から成人となった時の性格形成に影響している部分の考察があります。フロイトの弟子であるアブラハムの考察を引用します。「あるものを体内に摂取し、財を獲得することへの欲望、それを体内に保持し、財を所有しつづけることへの欲望、そしてそれを体内から排出し、所有物を消費することへの欲望である。いわば口の欲、腹の欲、肛門の欲である。~略~『倹約家』という性格は、金銭を貯めるという営みが、便を腸のうちに溜め込むという行為と類似していることから生まれたものと考えられる。~略~この金銭と糞便との関係についてフロイトは『人間が手にしたもっとも貴重なものと、人間が屑として投げ捨てるもっとも価値のないものの対立関係が、ある条件のもとで黄金と糞を同一のものと考えさせたのかもしれない』とも語っているが、この逆説は興味深い。」次に「エディプス・コンプレックスの運命」のまとめを次の引用から行います。「フロイトは自らの夢の分析によって、エディプス・コンプレックスという概念を構築してきた。この概念は、誘惑議論を放棄するきっかけとなったものだった。患者たちが訴える誘惑の配置は、作られた記憶であり、その背後には、このエディプス・コンプレックスが存在することを~略~明らかにしたのである。~略~自分を大切にしようとする『ナルシシズム的な関心と、両親という対象にたいするリビドー備給のあいだに葛藤が生じる。そしてこの葛藤においては、通常はナルシシズム的な関心が勝利を収める。そして子供の自我は、エディプス・コンプレックスから眼を背ける』という帰結が訪れる。~略~超自我は父親との同一化によって生まれたものであるために、少年の自我にたいして『おまえは(父のように)あらねばならない』と命令する。~略~しかし同時に超自我は『おまえは(父のように)あってはならない』と命令する。父のように母親を愛してはならないのである。このようにして『近親相姦の禁止を永続させる』ことになる。」引用ばかりで単元の旨を掴めないかもしれませんが、一応ここで第四章を終わらせていただきます。

「幼児の性的な体制」について

「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第四章「幼児の性的な成長と性格の形成」のうち前半部分である「幼児の性的な体制」のまとめを行います。「夢解釈」の解説書として読み始めた本書でしたが、フロイトが提唱した理論全体を考える良い機会を得ました。「幼児の性的な体制」の冒頭部分を引用します。「当時の西洋では、子供は天使のように無垢な存在だと考えられることが多かった。そして子供に性的な欲望が存在するなどとは考えてもみなかったのである。しかしフロイトは、人間は誰もが幼児のときに、さまざまな性的な欲望を抱き、それを充足しようとするものだと考えた。そしてこれは否定的に考えるべきことではなく、むしろ人間の成長を促し、やがて他者を愛することができるようになるために必須の経験であると考えたのである。~略~フロイトは、幼児が成長していくさまざまな段階を、それぞれの時期に中心的な役割を果す身体部分によって名づけている。」まず、そこで登場するのが口唇期です。引用を続けます。「おしゃぶりという習慣は、栄養を摂取するための器官である口と唇を、幼児が性的な快感を享受するために利用していることを示すものであり、この時期を口唇期と呼ぶ。」次に肛門期です。「(排便に対して)子供が母親の期待にこたえ、自分の欲望の充足を諦めるのは、自分の身体で快感をえようとする欲望よりも、他者に愛される自分への欲望が勝るためである。」さらに男根期に続きます。「フロイトはこの時期は、思春期において正常な性器的な体制が確立される上で重要な役割をはたすことを指摘している。幼児期にはさまざまな部位で性的な快感がえられていた。しかし性器的な体制の確立という観点からみると、こうした部位でえられる快感は、それ自体で追求すべきものではなく、ほんらいの性器的な活動のための『前駆快感』にとどめられる必要がある。」その後に展開される性的な成長の中で「性対象倒錯」と名づけている同性愛やフェティシズムやサディズム、マゾヒズムの説明がありました。「幼児の性的な体制」のまとめはこのくらいにしておきます。

映画「サウルの息子」について

今だから語れる真実があるとすれば、かつて人々が経験した戦争の惨状だろうと思います。戦争は特定民族に焦点を当てて根絶させようとする大量虐殺を生み出し、その代償は孫子の代まで禍根を残すと言っても過言ではありません。ナチスによるホロコーストはその最たるもので、アウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所を初めとする各地に点在する収容所の惨状は、人類史の中でも最悪な汚点です。その猛威をふるっていた時代に収容所内部を定点観測の如く手持ちカメラで撮影したとすれば、きっとこんな状況だったのではないかと思わせる映画が「サウルの息子」でした。ユダヤ人の大量死体処理のために同胞から選び抜かれ、数ヶ月後には自分も同じ運命を辿る特殊部隊ゾンダーコマンド、その一人がサウルでした。未来のない強制労働に、サウルはガス室で生き残って軍医に殺害された少年を自分の息子と決め、ユダヤの教義に従った埋葬を望みます。そこにサウルが命がけで人間の尊厳を取り戻そうとした、人としての意思が読み取れました。それはナチスが部品と呼んでいた遺体に、人間性を見いだそうとしたサウルの小さな抵抗でした。しかしこの小さな抵抗は収容所で非業の死を遂げた全てのユダヤ人に対する贖罪と鎮魂だったと言えるのではないかと私には思えました。映像はサウルを執拗に追う手持ちカメラで進行します。観客はサウルの視点に限られた画面でしか情報を伝えられませんが、サウルの背後に展開する惨状に圧倒されます。ガス室は内部で激しく扉を叩く音と凄まじい阿鼻叫喚の響きがあるだけで、その音響によって観客は戦慄を覚えます。この映画のもうひとつの主役は音です。音によって想像を掻き立てられ、映像をさらに立体的に構築している効果があるのです。フィクションと言えども、これは一人の人間として生きていく証を突きつけられる衝撃の作品で、翻ってわが国も戦争によって犯した重大な罪があり、その償いに常に面と向かって考えるべき絶好の機会になると思いました。

橫浜の「日本画の革新者たち展」

展覧会に足を運ぶのに、予め見たい展覧会に時間を作って出かけていくことがあり、また何かのついでに見る展覧会もあります。時間を作ってわざわざ行ったのに期待はずれだったり、ついでに見た展覧会で印象的な作品に出会える場面があったりして、展覧会に行く動機と出会う作品は必ずしも一致しないように思えます。出会いは偶然が織り成す運命の悪戯のようです。先日、出張のついでに立ち寄った橫浜のそごう美術館で開催していた「日本画の革新者たち展」は、なかなか質の高い内容で、得をしたような気分になりました。福井県立美術館所蔵作品が中心でしたが、横山大観や菱田春草といった巨匠の作品に心が解放されました。日本画も西洋画の影響を受け、描写や空間解釈に新しい試みがなされたようです。今回の展覧会でとりわけ心引かれた画家は岩佐又兵衛で、私は初めて聞く名前でした。岩佐又兵衛は福井県に馴染みのある画家だったようです。細い描線を駆使し、細やかな風景や躍動感のある人物像など、極めて表現力の高い人だったことは、作品をひと目見て分かりました。群像の表現や水面の丁寧な描写を見ていると、岩佐又兵衛という画家のさらなる調査が待たれるところです。そごう美術館は日本各地の美術館の所蔵作品を今後も紹介していくそうで、横浜在住の私にとって大変有り難い企画だと思っています。地方の美術館に行くと、そこでしか味わえない素晴らしい名画に出会えることが暫しあります。郷土出身の芸術家を大切に扱っていて羨ましさを覚えることもあります。そんな出会いの機会を是非与えて欲しいものと切望しています。

週末 従兄弟の結婚式

春一番と雨が一緒になって朝は大荒れの天候でした。今日は家内の従兄弟の結婚式が行われる日で、車で横浜から千葉に行く湾岸線の状態が気になっていました。結果としては道路閉鎖もなくスムーズに通行でき、午前中の早い時間に式場のあるホテルに到着しました。家内の従兄弟は農林水産省に勤める国家公務員で、奥さんになる人は病院に勤める看護士でした。どちらもしっかりした生活設計を持って生きている人たちで、見ていて安定感がありました。最近は人前結婚式が多くなって、参列者全員が証人になる方法をとっていて、彼らも例外ではありませんでした。特定の宗教があれば別ですが、こういう結婚式もいいなぁと思いました。私にとって結婚式参列は本当に久しぶりで、祝宴はさらに良いものだと改めて感じました。遠縁の人たちとも久しぶりに再会できました。時間的には早めの挙式だったので、夕方工房に行けるかなと思っていましたが、やはり結婚式の重さが胸に刻まれてしまって、制作をしようとする気になりませんでした。制作はまた来週頑張ろうと思います。

週末 映画&制作の日

今日は前から楽しみにしていた映画を観に行きました。ミニシアターでなければ上映しないような内容の映画で、横浜のシネマジャック&ベティで今日から上映しています。初日ということもあって今までになく混雑していました。ハンガリー人監督が撮った「サウルの息子」はカンヌ国際映画祭グランプリを受賞した衝撃的な作品です。第二次大戦中のアウシュヴィッツ収容所の内部を描いた作品で、ナチスが収容者の中から選んだ死体処理の特殊部隊ゾンダーコマンドの一人が主人公です。カメラは常に主人公と共にいて「サウルの視点に止まり、彼の視力、聴力、存在を超えたフィールドに立ち入らない。」(図録より抄)のです。そのカメラワークがあるからこそ収容所の内部空間をまるでドキュメンタリーのような臨場感をもって描ききっているのです。内容についての感想は次回に改めます。今回は家内が演奏のため映画に来られず、工房に出入りしている若いスタッフを連れて行きました。こうした映画は初めてだったらしく初めは戸惑っていた様子も伺えましたが、そこはアーティストの卵だけあって、強烈な表現にすぐ適応し、映像で訴えるリアルな主張に興味関心を持ったようです。映画は午前中から午後にかけて上映されたので、その後駐車場に止めていた車で工房に戻り、3時間程度制作をしました。スタッフは大学院修了制作の雛型作り、私は陶彫成形をやりました。凝縮した時間を過ごし、お互い満足して工房を後にしました。

仕事の合間の美術展

私たちの出張は横浜市内の移動が多く、職場を離れて研修をする機会がほとんどです。今日は午前中に職場以外の場所での会議があり、午後も別の場所での研修会がありました。中身としては意見交換もあれば、次年度から始まる新たな取り組みの説明もあります。ただ聞くだけでも疲れる内容があり、新しい取り組みであれば、職場に伝えなければならない義務もあります。今日はもうひとつ夜の会議が職場で待っていました。夕方、横浜駅を通過する際に美術展のポスターが目に留まりました。夜の会議までには多少時間があったので、デパートの美術館で開催している「日本画の革新者たち展」を見てきました。仕事の合間に見る展覧会は、ホッと胸を撫で下ろすひと時を与えてくれるので、時間が許せば鑑賞したいと思っています。今回も菱田春草の「落葉」が心に憩いを与えてくれました。たっぷり潤いを含んだ空気感が画面から漂い、点在する木々の隙間に心を休ませる何かがあるのです。それは何も描かれていない空間です。日本画の魅力はこの空間にあると言っても過言ではありません。何も描かれていない空間は、決して何も語っていないのではなく、饒舌に表現を語っているのです。そんな空気を吸い込んで、夜の職場に戻っていきました。「日本画の革新者たち展」の詳しい感想は後日に改めます。

祝日は制作三昧

今日は建国記念日で勤務を要さない日でした。一週間の途中に祝日があり、工房に行けることを幸せに思います。職場は来年度人事の面で厳しい局面を迎えていますが、頭を切り換えることで精神的負担が多少減ります。創作活動も焦りを感じることもありますが、職場とはまるで違う分野なのでストレス発散は可能です。前のNOTE(ブログ)に書きましたが、工房に若いスタッフが来てくれることで社会的促進が図られ、制作に弾みがつきます。お互い利害が一致する関係ではありますが、私としては嬉しいのです。若いスタッフは夢中で修了制作の雛型作りに励んでいます。その取り組む姿勢に私も影響されて、疲れている身体に鞭を打って制作工程を先に進めています。今までもそんなことがありました。制作が緩慢になったりすると、必ず誰かが私を喚起させ、刺激を与えてくれるのです。そういう意味で私は恵まれています。スタッフとの会話にも活気づけられます。自分の思考は自分の中ではまとまらず、他者とのコミュニケーションによって結論が出せるということがあります。それが例えばスタッフの思考を自分が補うカタチであっても同様な効果が得られるように思えます。創作活動は思考と実践の双方で成し遂げるもので、隣で別々に制作している作家同士で、お互いの意見交換をすることが思わぬ効果を齎せ、自己表現に収斂していくことがあります。そんな促進が図られたら最高だと思うこの頃です。

2月RECORDは「めばえる」

今月のRECORDのテーマを「めばえる」にしました。今年はひらがな4文字でテーマを決めています。季節に応じたテーマを考えると、冬籠もりをしていた生命が蕾を膨らませたり、地上に僅かに頭を出したりする状況がイメージされて、今月は確実にやってくる春に向かって、生きとし生きるものが準備をする素敵な瞬間があると感じます。何かが始まろうとする予感は素晴らしいなぁと常々思っています。準備にかけた情熱が一斉に芽吹く瞬間を捉えたいと私は考えていて、それは芸術に限らず、どこの分野でも同じ感動を与えるものだと思います。一番分かりやすいのはスポーツでしょうか。日々の様子では少しずつ寒さも和らいでいるようで、梅の花が咲きはじめました。野鳥が梅の枝にやって来ると、まさに日本画の淡い世界観が重なって、窓は一幅の絵になります。そんな瞬間を愛でる心の余裕が欲しいものです。「めばえる」のは、何も外見に限ったことではなく、人間の心にめばえる感情もあります。そんな微妙な心の移り変わりをRECORDで表現するのは、困難この上ないことですが、春を待ち続ける一途な恋慕のカタチに近づけるよう努力はしたいと思います。

15‘RECORD7月・8月・9月分アップ

ホームページに2015年RECORD7月分~9月分をアップしました。昨年の月々のテーマは漢字一文字で表していました。7月は「捻」、8月は「遺」、9月は「間」にしました。7月の「捻」は動物や植物が成長する場合に、捻れながら伸びていく状況が見て取れるので、「捻」というコトバを思いつきました。腕や脚の筋肉を観察していると螺旋を描きながら成長するように思えてなりません。医学的根拠はありませんが、人体塑造の肉付けで、そんなことをイメージしたことがありました。8月の「遺」は夏季休暇を使って旅行したタイのアユタヤ遺跡からイメージしました。遺跡の前に立って、遥か昔の栄華を誇った都を感じることが私は大好きです。夏にまとまった休暇が取れるので、一昨年のカンボジアのアンコール遺跡群、昨年のタイのアユタヤ遺跡と、アジアに残る遺跡を見て回りました。8月はそこから構想を練ることが多くなっています。9月の「間」は人間関係をテーマにしました。6月のテーマにした「楔」との対比を描こうと思っていました。楔を打ち込んで密着した人間関係と適度に隙間のある人間関係、どちらが強いのでしょうか、橋梁や高層ビルでは隙間を作って、震災でかかるエネルギーを逃がすことで揺れに対応するとどこかで聞いたことがあります。人間同士でも同じ事かなぁと職場の人間模様を見ていて思いました。私のホームページを見ていただけるなら、このNOTEの左上にある本サイトをクリックすると入れます。それからRECORDを選んでクリックすれば、今回アップした7月分~9月分のRECORD画像が出てきます。ご高覧いただけると幸いです。

横浜中華街で春節を祝う

今日は止むに止まれぬ用事があって職場を午前中で退勤しました。自分の用事は意外に早く終わって、夕方から時間が出来ました。あと僅かで勤務時間が終わるため、職場に戻ることはしませんでした。今日は早急な仕事もなかったので、ゆっくり過ごそうと決めました。そう決めると工房に出入りしている中国籍のスタッフのことが気にかかりました。昨年まで学生だった彼女は、春節の時期には必ず帰国し、中国にいるご両親と過ごしていたのですが、今年度から大学に勤めているため、春節には帰国できないことを前から知っていました。それなら彼女を中華街に誘って、横浜で春節を迎えられたら、少しでも正月の気分に浸れるのではないかと思ったのでした。思惑は当たり、彼女は大喜びでした。もう一人工房に出入りしているインドネシア留学から帰国したスタッフも呼びました。普段は制作を通して2人の若い女性と体力や気力で張り合っていますが、今晩は中華街で獅子舞を見る機会を得たおかげで、私は中高年の持てる力を発揮しなければならず、素敵なオジさんを演出しようと決めました。中華街は混雑し、夕食の場所が見つからなかったため、駐車場から車を出し、桜木町に向かいました。みなとみらい地区にあるワールドポーターズにインドネシア料理の店があることを思い出し、もう一人のスタッフのためにインドネシアを思い出す機会を持ちました。これも思惑が当たりました。夜景の美しい窓側の席で、料理に舌鼓を打ちつつ、自分が若い頃はどうしてこういうことが出来なかったのだろう、こんな演出が出来ていれば、もっと女性にもてていたはずなのに、と思いながら彼女たちを駅まで送りました。

週末 社会的促進の作業

一人で部屋に篭って勉強しているより、カフェ等で他者の視線を感じながら勉強した方が捗ることがあります。学習環境として複数の生徒がいる教室を有している学校は、その最たる施設なのです。これは心理学でいう社会的促進で、他者がいることでお互いの作業が捗る効果です。昨日と今日は工房に若いスタッフがきていました。彼女は大学院生で修了制作に向けて準備を始めているところです。大学院の工房は茨城県取手にあるため、通学時間のことを考えると、相原工房の方が彼女の自宅に近いので最適と言えます。私も若いスタッフがいることで作業が進みます。まさに社会的促進です。私自身はウィークディの疲労もありますが、そろそろ制作工程を考えると余裕のない状態になっています。若いスタッフは直接私の作品制作を手伝うこともありますが、寧ろ同じ空間で共に作業をしている状況を作ってくれている方が、私には有益です。今日の私は乾燥が進んだ陶彫部品3点にヤスリをかけ、化粧掛けを施し、窯に入れました。その後、昨日タタラにしておいた陶土を使って成形を1点作りました。一日の作業としては精一杯でした。若いスタッフは修了制作のための雛型作品を作っていました。彼女も一日の作業として精一杯だったのではないかと思いました。工房を去り際に窯入れしたので、3日間は工房が使えません。木曜日の建国記念日には焼成が終わる予定です。建国記念日に次の作業が待っています。

週末 継続する意志

週末の2日間は陶彫制作に明け暮れています。土錬機で回して配合を終えた陶土をタタラにして、翌日成形をして彫り込み加飾を施す、こうして出来た成形を乾燥させ、仕上げに化粧掛けをして窯に入れる、これが制作サイクルです。この流れを週末のたびに繰り返しています。どんなに焦っても早く乾燥が進むわけではないし、窯の中の焼成時間も常に同じです。木彫なら猛烈に鑿を振るい、自分の都合で早く作業を行うことも可能ですが、陶彫はそういうわけにはいきません。自分の都合ではどうにもならない工程があるのです。制御できない素材に翻弄されながら何とかカタチを決着させていく、それが陶彫の面白さかなぁと思ってます。次から次へと進む工程は、自分の気分とは関係なく、自分にノルマを課してきます。ウィークディ明けの土曜日は疲れていると思っても、陶彫制作は待ってくれません。そんなことを思いながら20年以上も陶土と付き合っています。継続する意志はしっかり身についていると感じています。今日は朝から工房に篭って制作三昧でした。若いスタッフもやってきて、自らの課題に向き合っていました。夕方、神奈川県民ホールのギャラリーに若いスタッフを連れて出かけました。友人が書道展に出品しているので見に行ったのでした。勇壮な文字が書かれた友人の書を見て、自分も創作活動を継続する意志を再度確認した次第です。

「第一局所論」について

「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第三章「夢とヒステリー」のまとめを行います。第三章の中心部をなす「夢の仕事」に関しては、既に内容をアップしていますので、それに続く「第一局所論」について書き、これをもって全体のまとめとさせていただきます。「第一局所論」とは何か、文中から引用します。「夢とヒステリーのような神経症は、無意識的な欲望とその抑制という同じメカニズムによって発生していることがわかる。~略~人間の心は意識、前意識、無意識の三つの場所=審級で構成され、それぞれの間に二つの検問所が存在していることが指摘されてきた。これが第一局所論と呼ばれるものであるが、この局所論は人間の心、知覚、記憶についてのさらに基本的なモデルに依拠したものである。~略~フロイトが考えた心のモデルでは、人間の心をさまざまな場所に分解して考えようとする。人間の心は、さまざまな部品で構成された装置のようなものであると考えるのである。フロイトは『心の仕事に従事している道具を、たとえば組み立て式の顕微鏡やカメラのようなものとみなす』ことができると考えた。~略~フロイトはこの反射装置で、『心的プロセスは、一般的に知覚末端から運動末端へ経過する』という想定を示したのである。」この知覚末端と運動末端の関係を調べていくうちに通常とは逆のプロセス、つまり退行もあると考えて、精神疾患治療の手掛かりにしたことが伺えました。

映画「放浪の画家ピロスマニ」について

1969年に制作されたグルジア(ジョージア)の映画「放浪の画家ピロスマニ」を久しぶりに観てきました。私は20代の頃から数回に亘って本作を観ています。そのつど印象が異なり、ピロスマニという孤高の画家にずっと魅力を感じています。ゴッホは職業を転々とし、父のような牧師にもなれず、生前絵が売れなかったことで有名ですが、ピロスマニは酒場を回り、食糧や酒と引き替えに看板や壁に掛ける絵を描いていたところは、ゴッホとは境遇的には違うかもしれません。ただ、若い頃の自分はピロスマニにゴッホと似た生涯を感じ取っていました。ピロスマニは一時中央の画壇に注目されたときもあったのですが、晩年は貧困の中で亡くなり、共同墓地に埋葬されたようです。2人とも己の絵画の素晴らしさを信じて疑わなかったことが似ていると思った要素でしょうか。ピロスマニの絵画はグルジアの身近な風習や歴史、人や動物をテーマにしています。素朴派に通じる世界ですが、イコンのような正面性の強い絵は、独特な趣があって一目見てピロスマニの絵と分かります。映画のそれぞれのシーンもピロスマニの絵のような画面構成をしていて、制作当初より40年経ってもその美しさは変わりません。広い草原に一軒だけある乳製品を売る店が、まさに絵画そのものです。村の居酒屋で歌い踊るフランス人女優に恋心を抱くピロスマニが画面に映し出されます。真意のほどはわかりませんが、そのモチーフが「100万本のバラ」という歌になったというエピソードもあります。「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ。」とピカソが言ったそうですが、映画そのものも時代を経てもなお新鮮な感動があります。

「夢の仕事」について

昨年11月から今年1月までの間に「夢の仕事」のまとめをNOTE(ブログ)に掲載していますが、これは「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第六章「夢の仕事」をまとめたものです。今回の「夢の仕事」のまとめは「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)の単元をまとめたもので、出所は同じですが、解説書からの引用であることをご理解いただければと思います。「人間の心は意識、前意識、無意識の三つの審級で構成されている。無意識と前意識の間に、第一の検問所が存在する。この検問所は、無意識のうちに潜む欲望を意識にのぼらせることを望んでいる。ここを通過した願望は、前意識の領域に入る。前意識と意識の間にある第二の検問所は、この願望を検閲して、それが意識の領域に受け入れられるように、手直し、歪曲するのである。ここで夢の仕事が行われることになる。」引用した文章は、神経症と同じようにフロイトが図示したものに夢の分析をあて嵌めたものです。フロイトはこのように人間の心には、意識、前意識、無意識の三つの審級があると考えていて、これを第一局所論と呼んでいます。夢の技法の中に「圧縮」があります。顕在的な夢内容は、夢の潜在的な内容に検閲をかけて、それを偽装したものを「圧縮」と呼んでいます。「置き換え」という技法もあって、夢の内容と意味を他のものに置き換えるものです。「表現可能性」という技法もあって、夢見る人は直喩や隠喩の散りばめられた詩人の言葉のような文を、像によって描かれる夢内容に表現しなければならないことを言います。「二次加工」という技法は、夢の顕在的な内容の形式そのものにかかわるのではなく、すでに形成された夢内容にあとから働きかけるという特徴があります。いずれにしてもここに掲げた言葉は、「夢解釈」に出てくる内容で、言葉によっては前にNOTE(ブログ)にアップしたものと重複しているものもあろうかと思いますが、今は「フロイト入門」のまとめとして書かせていただきました。

魂の在り処

「祈るときは合わせた二つの掌のあいだに、口惜しくて歯ぎしりするときは歯と歯のあいだに、悔いて顔をしかめるときは眉間、あるいは瞼のあいだに、魂はある。」これは朝日新聞に掲載されていた「折々のことば」欄にあった印象に残った一文です。筆者は鷲田精一氏で、現代フランスの思想家の言葉だそうです。魂とは何か、私は魂という語彙に敏感に反応してしまうのです。以前に読んでいた西欧の哲学書や、現在読んでいる精神分析に関する書籍にも魂が出てきます。宗教では洋の東西を問わず、魂は人間の精神を形成する重要な位置づけがなされています。「仏作って魂入れず」という諺もあるくらいで、何か肝心なものが欠けていることを言います。創作活動をしていると目に見えない何か不可思議なものの存在が気になります。作品が生命を宿したように見えるのは何故なのか、同じような作品でも形骸化を感じたり、技巧ばかりが目立って退屈なものに見えたりするのは何故なのか、人の感じ方でどのようにも取れるところを、誰が見ても心が打たれるのは何故なのか、自分には不思議でなりません。作り手から言えば、苦心したものにそうした魂が宿ると信じたいところですが、そうとも言えないのです。苦心して作ったものは空回りしていて、見ていて苦しいと感じる時があります。苦心した次にやってくるものに自然な流れを感じ、無理なく作品が出来上がることがあります。暫し見ているとその作品に魂が宿っていると感じるのです。魂とは精神がのり移ったもの、これは疑えないことかもしれませんが、その判断はどこからくるのでしょうか。それを認めるのも人の魂なのでしょうか。

寒さ厳しい2月になって…

先月の前半は暖かかったのですが、このところ寒波がきていて寒さは一段と厳しさを増しています。朝の起床の辛さは、何回季節が巡ってきても慣れるものではありません。窯入れをしていると、出勤途中に工房に立ち寄らなければならず、そのために自宅を出る時間が多少早まります。それでも工房のある植木畑の梅の木に小さな蕾を見つけると、春は確実に近づいていると思っています。2月をどう過ごすか、陶彫制作をどこまで推し進めるか、毎年のように目標を立てていますが、どうも今年は例年に増して制作に邁進していかないと、完成間近になって相当辛い思いをすることになりそうです。目標としては擂り鉢状の新作を可能な限り作り続け、外側の円形部分の完成を目処にしたいと思っています。外側の円形部分は陶彫部品の他に木材を組んで台座を作ります。それも合わせて今月中に完成させたいと考えています。RECORDは今月も継続です。自宅での夜のRECORD制作が習慣化しているので、好きな音楽を聴きながらやっていきます。猫のトラ吉に邪魔されながら、寸時を惜しんで頑張りたいと思います。鑑賞では展覧会情報を張り巡らせ、これはと思う展覧会には足を運びたいと思っています。映画ではミニシアター系で観たい映画があります。テーマが暗いので家内が躊躇していますが、自分は必ず観に行こうと決めています。読書はやはりフロイト一辺倒でしょう。その他に従兄弟の結婚式や知人の書展があります。健康に留意して過ごしたいと思っています。

週末 1月を振り返る

早いもので1月の最終日を迎えました。2016年も光陰矢の如く過ぎていくように思われます。今月は正月の休庁期間や三連休があって、新作の制作工程を少しでも進めようとしていました。それが遅々として進んでいないように感じるのは、気が急いているせいかもしれません。週休2日間のうち、最近は土曜日に疲れが出て、なかなか思うように制作に集中できないのが焦る理由です。昨年までのNOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、今年は本当に苦しいと思っています。来月は陶彫部品の制作に弾みをつけないといけないと自覚しています。疲労を言い訳にしてゆっくり休んでいるわけではないのに、どうして週末になると焦りだすのか、作品を通して求める世界が年々水準を上げているのか、無意識に自分の首を絞めているように思えてきます。創作活動は自分に楽しみを与えるものだという定説が、自分には信じられなくなっていて、自分の身を削るように感じます。それでも制作をやっていくのは何故なのか、自分にもわかりません。来月は何とかしたいものです。今月の鑑賞は展覧会には行っておらず、専ら映画を観ていました。娯楽性のあるものでは「スターウォーズ フォースの覚醒」を観ました。ミニシアター系では「消えた声が その名を呼ぶ」と「放浪の画家ピロスマニ」を観ました。読書はフロイト関連のものばかりで、「夢解釈」を中断して「フロイト入門」を読んでいるところです。精神分析の面白さに魅了されつつあります。RECORDは相変わらず日々苦しみながらやっていますが、陶彫部品の制作ほど焦りを感じません。毎晩1点ずつ制作するRECORDの厳しさに慣れてしまっていて、これが当たり前になっているのです。今月は職場で体調を崩す職員が複数いました。前半は暖かかった気温が一転して厳しい寒さに見舞われたことが大きかったと思っていますが、幸い私は元気に出勤しています。でも異様な疲労に襲われると、病気ではないかと疑うところもあります。身体には充分留意して過ごしたいものです。今日は工房で夕方窯入れをしてきました。来週工房は窯を稼動しているため、夜の作業は出来ません。この寒さの折なので好都合かもしれません。

週末 管理職研修から帰って…

昨日の勤務終了時間から東京浅草に向かいました。横浜市旭区には12の公的施設があって、一つひとつに管理職がいるので、私たちの仲間は12人いるのです。日頃は多くの職員の中で一人で仕事をしていて、大小の事案を判断しています。私たちは孤独な役職でもあり、そういう意味でも12人が集まる場はとても貴重な機会です。みんなが相談できる相手であり、支えあう同士です。私たちは12人で1年に一度宿泊して研修を深めます。とりとめのない話も大きな危機管理としての心構えもお互い確かめ合って、明日からの仕事の糧とするのです。昨夜は浅草の雷門近くにある「駒形どぜう」に行って鰌料理に舌鼓を打ちました。ホッピー通りにも足を伸ばし、ワイワイガヤガヤと夜更けまで話し合っていました。今朝、浅草から帰って、家の用事を済ませ、明日の制作の準備にタタラを3枚作りました。自宅で暫し休憩し、夜は恒例になったミニシアターに出かけました。観た映画は「放浪の画家ピロスマニ」です。これは1969年に制作された映画なので、封切りから40年近く経っていることになります。私の記憶ではオーストリアのウィーンにある映画館で初めて観て、帰国後に数回観ているのではないかと思っています。私は1980年から85年までウィーンに住んでいて、よく場末の映画館に通っていました。物語が虚覚えなのはドイツ語吹替版だったせいかもしれません。帰国して観た本作の日本語字幕を読んで、初めて物語が分かったような記憶があります。まるでナイーヴ絵画のようなシーンはよく覚えていて、草原の風景や服装等の風俗を改めて思い出しました。20代に初めて観た時と、現在の年齢で観た印象が異なっていて、自分の年齢に応じた感覚の差異に我ながら面白さを感じました。詳しい感想は機会を改めます。今日はたいして制作は捗らなかったものの充実した一日を過ごしました。

「夢解釈」執筆の動機

「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)を中断して、現在「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)を読んでいるところですが、いよいよ「夢解釈」をテーマとする第三章に入ってきて、フロイトが「夢解釈」を書き始める動機がわかってきました。まず夢とはどういうものか、文中から引用いたします。「神経症は想起することが不愉快な心的な外傷の記憶と、それを抑圧しようとする意識との葛藤が、身体的に症状として表現されたものだった。失錯行為は、無意識のうちに抑圧された欲望が作りだすコンプレックスと、それを抑圧しようとする意識との葛藤が、日常生活のうちに作りだす現象だった。そして夢は、わたしたちが無意識のうちに感じている欲望と、それを抑圧しようとする意識の間で、一つの妥協として作りだされるものである。」そんなことを念頭に入れて、フロイトが試みたことは自己分析でした。ところが、「自己分析というのは、精神分析においては困難な問題を提起する。~略~無意識のうちに抑圧されているものは、自分が意識したくないために抑圧されているのであって、それを自分で意識のうちにのぼらせるのは困難なことである。精神分析は原則として、分析者と被分析者との対話のうちで初めて成立する営みである。フロイトはそこで、自己に精神分析を実行して自分の無意識を直接に分析することを諦めて、無意識の表現である夢を分析することにしたのである。」というフロイトが辿った精神分析のひとつの試行結果として夢の解釈を始めたのでした。「フロイト入門」を読み終えれば「夢解釈」の再読を始めますが、執筆の動機がわかったことは、自分には意義があることだと思いました。