秋深まる10月に…

10月になりました。芸術の秋と言われる10月ですが、実は休日出勤や創作とは関係のない用事が多く、今月は間隙を縫って制作をしなければならないと感じています。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、これは今年だけではなく例年のことのようで制作時間を確保するために工夫を凝らしている様子が伺えます。制作目標として陶彫に関して言えば、第2ステーションの成形、彫り込み加飾の完成と、屏風の下書きが出来れば良いと考えています。屏風をどうするのか、それによって屏風に接合する陶彫部品を考えていかなくてはなりません。床置きの2つのステーション完成の見通しが立てば、次は屏風に制作工程を移していこうと思っています。一番面白いところではありますが、壁に筒状の陶彫部品をどのように這わせていくのか、イメージ通りの狙いになるのか、あれこれ思考することが多いなぁと思います。結局、今月は新作の土台を作る重要な1ヶ月になるでしょう。RECORDは日々きちんと作ることを目標にしていきます。過去の山積みされたRECORDが解消されている今、新たにスタートする気持ちで始めていこうと思います。鑑賞は師匠の池田宗弘先生が所属する美術団体展があったり、見たい展覧会や映画もあるのですが、前述した通り様々な用事が多くて、叶わぬ望みもあるかもしれません。読書は継続です。欲張ると辛くなるのは分かっていますが、夜の時間帯に工房に通えるといいなぁと思っています。たとえ1時間でも陶彫がやれれば制作工程に余裕が生まれます。新作は屏風の処理に時間がかかると思っているので、陶彫制作は前倒しで進めたいところです。秋深まる10月に造形思考も深まる1ヶ月でありたいと願っています。

9月を振り返って…

9月最後の日になり、今月を振り返ってみたいと思います。今月は三連休が2回あり、2回とも陶彫制作に没頭していました。三連休中に母の通院付き添いもありましたが、ほぼ朝から夕方まで制作時間が取れて、週末を全部合わせると新作の陶彫部品第2ステーション7個目の成形や彫り込み加飾が終わっています。屏風用の厚板も準備しました。先々の制作工程を考えるとまだまだ安心はできないものの、今月も精一杯制作してきた充実感があります。陶彫はコツコツとした地味な作業が続きますが、その労働の蓄積が深い表現になって現れてくるのではないかと思っています。RECORDは長い間下書きばかりを山積みにしてきましたが、何とか今月で解消しました。RECORDの年間撮影も実施しました。RECORDに関しては怠惰な習慣が身についている傾向があるので、同じことを繰り返さないように、その日のRECORDはその日のうちに完成できるように、日々頑張っていきたいと思います。美術の鑑賞では「奈良大和四寺のみほとけ」展(東京国立博物館)、「円山応挙から近代京都画壇へ」展(東京芸術大学美術館)、「二科展」(国立新美術館)その他で同僚が参加したグループ展に行ってきました。映画の鑑賞では「風をつかまえた少年」(シネマジャック&ベティ)に行きました。鑑賞はまぁまぁかなと思えますが、今月は制作に本腰が入っていたように感じています。来月は芸術の秋本番を迎え、創作活動も鑑賞も充実させたいと考えています。読書では「モディリアーニ」の生涯を扱った書籍が面白くて、とりわけモディリアーニの彫刻に注目しながら読んでいます。秋が深まると多少難しい書籍に挑戦してもいいかなと思えてきて、今はどうしようか思案中です。

週末 19’RECORD撮影日

懇意にしているカメラマンが私の作品を撮影する機会は、年間で3回あります。1回目は個展図録用の撮影日で、ここで7月の個展に向けて新作の陶彫作品全てを撮影していきます。日頃から付き合いのある複数のスタッフに工房に来てもらい、この日初めて陶彫部品を組み立てます。陶彫作品全体が見渡せる最初の瞬間であり、私自身が自作に自己評価を下す日でもあります。これは一日がかりのイベントで、私はスタッフのために宅配ピザを用意しています。次の撮影は個展開催中の会場です。これはホームページのExhibitionにアップするための撮影です。東京銀座のギャラリーせいほうでは照明がきちんと設備され、白壁に美しく映える作品が我ながらいいなぁと思い、工房との環境空間の違いに雲泥の差があると感じています。3回目はRECORDの撮影で、撮影用にRECORDの設置場所を工房に作って撮影しています。RECORDはポストカード大の平面作品で一日1点ずつ作っているので、1年間分を1回の撮影で済ませています。今日がその撮影日で、2人のカメラマンは午前10時半にやってきました。設置のために準備をして1年間のRECORDを1点ずつ撮影していきました。私は横目で撮影風景を眺めながら、陶彫成形をやっていました。時折目に入ってくるRECORDは懐かしいものばかりで、あの時はこんな思いをしていたなぁとか、この時は大変だったなぁと私の脳裏に去来し、たかが1年、されど1年の重みを感じていました。撮影が終了したのは午後1時過ぎでした。今日は若いスタッフもやってきていて、基礎デッサンに勤しんでいました。彼女と遅い昼食を済ませ、午後の作業を再開しました。スタッフもRECORDの撮影を見ていて、一日1点ずつ制作している私の姿勢をどこかで感じ取っていたようでした。すっかり習慣になっているRECORDですが、12年間の蓄積は我ながら大変なものだなぁと自負にも似た気持ちになりました。RECORDは1点1点が作品であるばかりではなく、ずっと継続している行為そのものがRECORD(記録)であって、その関係性や時間的な繋がりを表現にしているものです。心の日記とも精神の散歩とも呼べるかなぁと思っていますが、実際の制作は七転八倒していて、切羽詰った状況の中でやっているのです。それでも今日の年間撮影では満足を覚えました。1年間頑張った自分を褒めてあげたいと思っています。

週末 地域行事&陶彫加飾

週末になりました。私の勤めている職場は地域行事が多く、その都度管理職が出向いていきます。私は役職上これも仕事と割り切って参加していますが、職場が置かれた地域のことを考えると、地域ボランティアにも本腰を入れなければならないと思っています。午前中は職場に出かけて、地域の方々とボランティアをしてきました。ただし、そんなことがあるからと言って創作活動を休むわけにもいかず、午前中の時間を取り戻すために、午後は精一杯陶彫制作に励みました。夕方には先日来ファンになったラグビー・ワールドカップの対アイルランド戦が実況中継されるため、それまでには今日の制作ノルマを終えようと奮闘していました。今日のノルマは陶彫成形が終わった作品に彫り込み加飾をすることと、明日の成形に備えて大きなタタラを数枚用意すること、この二つの作業を夕方4時までに終わらせることでした。私は時間が区切られている方が集中力が増すようで、夕方には予定通りの成果を出すことが出来ました。さっそく自宅に帰ってラグビーの試合をテレビで見ました。格上のアイルランドに大差をつけられないように日本は健闘してくれたらいいなぁと謙虚に思っていましたが、前半は負けていたものの、後半はトライを決めて逆転し、何と日本が勝ってしまいました。これには思わず興奮して声が出ました。以前、南アフリカに勝った時は奇跡と称された日本でしたが、明らかにアイルランド相手に力が拮抗していて、日本が確実に実力をつけているのが分かりました。今年のワールドカップ日本開催でラグビーの面白さを実感することになりました。きっとそれは私だけではないはずで、日本にラグビーファンが増えて、観戦が身近になってくれたらいいなぁと思っています。

ポートフォリオについて

ポートフォリオとは何か、職種の課題として市の全体会議に出すために私に課せられたもので、人材評価に使われるが故に、その定義をしておこうと現在私が取り組んでいる媒体です。後輩の彫刻家によると大学の講義でポートフォリオを扱っているらしく、理論や実践をそこで学べることになっているそうです。私の時代にはありませんでした。確かに美術系の大学はデザイン会社に就職を求める学生が多いので、実績をアピールするための作品集をどのように作るかは重要な就活アイテムになっていて、クリエーターにとって現在なくてはならないものと言えます。ポートフォリオを和訳すれば書類を運ぶためのケースであり、ファイル等に綴じ込むものとは多少意味が違うようですが、内容をひとまとめにしたものと言えば分かり易いと思います。ネットで調べるとポートフォリオには大きく3分野があり、金融・教育・クリエイティブで主に使われていると示されていました。金融関連のポートフォリオは、金融商品等の偏った資産分配をすると、予測外の大きな市場変動があった場合のリスクが発生します。それを避ける目的で、バランスを考えた資産分配の方法としてポートフォリオ理論が使われていると書かれていました。ポートフォリオは単なる記録ではなく、自己アピールのために企業の求めに応じたスキルやキャリアを示すもので、作成者が資料を取捨選択し作品化するものです。そこに全体のバランス感覚も問われてしまい、それが採用評価に繋がるものと考えられます。とりわけクリエイティブな分野では作品の意図するところや、学習や実習で培われた能力などを最大限示し、視覚的にも映えるものを作らなければなりません。教育分野では個人評価ツールとして、生徒が学習過程で残したレポートや試験用紙、活動を写し取った画像等を保存する方法で、ポートフォリオはテストでは測りきれない個人能力の総合的な評価方法であると書かれていました。学生に限らず、転職を考える社会人もポートフォリオを作成し、自己能力を可視化して評価をしていただくのが最近の傾向のようです。ポートフォリオそのものをアート化するのも表現方法としてはいいかもしれないと思います。

睡魔との闘い

朝晩涼しくなって凌ぎやすい季節になりました。工房周辺の草刈りが終わって、工房が建っている植木畑がすっきりしています。親戚の造園士に感謝です。工房への小路は畑の中にあるので、草が生い茂っていた時は、草をかき分けて歩いていましたが、今は露が足を濡らすことがなく、楽に歩けるようになりました。そんな状況なので、そろそろ夜の時間帯に工房に通おうと思っていますが、如何せん最近の涼しさ故か、夜になると猛烈な睡魔に襲われます。睡眠はしっかりとれているので、睡眠不足ということはありません。私は23時を回ると眠くて起きていられなくなり、すぐ就寝してしまいます。二足の草鞋生活のおかげかもしれませんが、自分は人より多忙な生活かもしれず、夜が眠れないことはありません。職場の課題はありますが、睡眠を邪魔するほどではなく、あれこれ考えていても眠気がやってきて、そのまま寝てしまうのです。困っているのは20時くらいから23時くらいまでの間に襲ってくる睡魔です。20時に寝てしまうと、さすがに深夜に目覚めてしまうので、何とか23時まで持ちこたえています。というより、私には日々の創作活動と記録があるので、寝ていられないのです。創作活動とはRECORDのことで、一日1点ずつ完成させていく小さな平面作品です。記録とはこのNOTE(ブログ)のことで、これも日々書いてアップしています。RECORDは下書きだけの山積みされた過去の作品に対し、現在は猛烈な勢いで仕上げに入っています。1年間に1回のカメラマンによるRECORD撮影日が決まったので、今は慌ててその帳尻合わせをしているようなものです。途中で絵の具の筆を置いた時に、ふと眠くなってテーブルにうつ伏してしまう時間があります。あ、まずいと思って、冷水を飲んでもう一度画面に向かいます。まさに睡魔との闘いです。NOTE(ブログ)はパソコン画面を見ていると睡魔が消えていきます。ICT機器は睡眠を邪魔するものなのでしょうか。睡魔は精神的なもののようで、創作活動は集中はするものの心はリラックスしているのかもしれません。週末の昼間にやっている陶彫制作よりも、毎晩睡魔と闘いながらやっているRECORD制作の方が、ある意味では厳しいと感じています。

彫刻家の憧れの生活

「ブランクーシは完全性と洗練された簡潔性をその芸術と生き方において達成した芸術家であり、~略~彼はさまざまな形態、ヌードや飛んでいる鳥や接吻している男女などをその本質まで還元した。彼の作品の評判を聞いたロダンは助手として彼を雇おうとしたが、ブランクーシは『大樹の下には何ものも育たない』といって断ったという。青い仕事着に木靴をはき、がっしりした髭面の彼は、自己完結した世界をアトリエに作っていた。家具も自分で作っており、客はくぼんだ丸太に座らされ、食事は自作の石のかまどで自分で作った。」この文章は、私が一番気に入っている箇所で、「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)にあったものです。若い頃、私はヨーロッパ各地を金銭を切り詰めながら旅行していて、パリのポンピドーセンターの敷地内にあったブランクーシの移設したアトリエを見てきました。その彫刻素材に囲まれた空間に入るなり、気持ちがホッとした記憶が残っています。ウィーンに住むようになってから、石彫家カール・プランテルの農家を改造した自宅を訪れたことがありました。その時もプランテルの簡潔な彫刻形態がそのまま反映された住居を見て、憧れにも似た気持ちになりました。白壁に古い重厚な家具、その洗練された組み合わせに、生活を楽しむとはこういうことかと改めて考えさせられました。身近なところでは長野県に住む師匠の池田宗弘先生の「エルミタ」と称する自宅兼工房があって、蔦の絡まる煉瓦壁に真鍮で作られた彫刻や調度品が配置され、その雰囲気も特筆できるものであり、私にとって憧れる存在です。画家の住居より、立体を扱う彫刻家の方が私に刺激的な住居空間を提供してくれているような気がしています。衣食住全てにわたって、自分の世界を作ることが出来るのは何と素晴らしいことか、ブランクーシ流に言えば、その芸術と生き方において達成した芸術家に許されると言うことですが、今の私は到底達成できるものではありません。二足の草鞋生活が終了したら、少しずつ憧れの生活に近づけようかなどと夢想するこの頃です。

「モディリアーニ」第4章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第4章「モンマルトルからモンパルナスへ」のまとめを行います。副題として「彼は恐るべき衝動に駆られて彫刻を作っていた」とあり、25歳になったモディリアーニは、一旦故郷に帰りますが、だんだん家族のモラルが息苦しくなり、再びパリに戻ってきます。モンパルナスに移ってもモディリアーニの関心は彫刻にあったようです。「彼は恐るべき衝動に駆られて彫刻を作っていた。砂岩の大きな塊をアトリエに持ってこさせ、石にじかに彫りこんでいた。彼はときに怠惰を愛し、高度に洗練された態度で怠惰に身をまかすことがあるように、仕事に深く没入することもあるのだ。彼のすべての彫刻は石をじかに彫ったものであり、粘土や石膏は決して使わなかった…この(彫刻への)衝動に襲われると、彼は画材をすべて脇に押しやり、ハンマーを握るのだ」これはドイツの批評家がモディリアーニの制作の現場を見て感想を述べたものです。「モディリアーニがブランクーシと同じく、現代の彫刻は堕落しており、ロダンの影響でだめになっていると思いこんでいた。彫刻家はあまりにも粘土によって塑形しすぎており、彼のことばによれば『泥まみれになっている』というのであった。この芸術を再生させるためには、大理石をじかに彫る以外に道はないという。」モディリアーニがアフリカの原始的な黒人彫刻に傾倒していた様子も伺えました。また、こんな一文もありました。「彫刻を続けるために、朝デッサンを描き、夜それをカフェで売るという生活をしていた。この作業は彼の心身をすり減らし、彼は不安と人生の孤独で消耗してしまった。しかし、石に自らの意思を刻むという肉体的な努力は、何事にもかえがたいある種の満足と例外的な平安を彼にもたらせた。若い頃イタリアの偉大な美術都市を訪れて以来、モディリアーニは環境を浄化するような建築的な等身大の彫刻を創りたがっていた。」モディリアーニは絵に関しては気難しい面もあり、偏屈な性格が垣間見えるところもあったようです。「彼は絵を売るときもいつも傲慢であり、見込みのある客にもへつらったり持ち上げたりすることはできなかった。あるとき、モディリアーニのデッサンをまとめてほしがった画商が、彼が希望した控えめな価格よりもさらに安く値切ろうとした。~略~モディは押し問答するのをやめた。彼はカウンターにあったナイフをつかむと、紙の束を突き破って穴を空け、それらを紐でくくると、おもむろに店の裏手の手洗所に行き、トイレの中の留め金にその繊細なデッサンを引っ掛けてしまった。」やれやれ、食うや食わずになってもプライドの高い芸術家であったモディリアーニ。早くも人生の佳境を迎えようとしていました。

三連休の総括

今月は2回の三連休がありました。そのほとんどを陶彫制作に費やし、新作の制作工程を進めてきました。昨日は屏風用の厚板を購入してきましたが、まだ全体の下書きに着手できずに、厚板を眺めて過ごしました。今日は陶彫部品2点の成形を行い、夕方4時に工房を後にしました。今日は真夏のような暑さと風の強い一日で、暑さの影響で汗が滴り、シャツがびっしょりになってしまいました。前半の三連休は屏風ではなく、床置きになる陶彫部品の中心をなす第2ステーションの制作に入りました。第1ステーションは4点の陶彫部品で構成されていますが、第2ステーションは10点の陶彫部品で構成いたします。10点のうち今日までに6点が立ち上がっています。そのうち4点は成形と彫り込み加飾が終わり、乾燥を待っている状態です。今日作った2点は成形が終わっただけで、彫り込み加飾は後日です。残りは4点。今月中の第2ステーションの完成は無理です。陶土も足りなくなってきたので、栃木県の問屋に注文しなければなりません。陶彫制作は一日頑張っても7時間が限界かなぁと思っています。陶彫は一気呵成に出来るものではなく、着実に一歩ずつ先に進めることが肝心なのです。その意味では2回の三連休とも着々と制作を進められたと自負しています。2回の三連休で気になったことは、制作の疲労はいつも通り蓄積されていますが、これはあまり気にしていなくて、寧ろ気候のせいか朝晩が肌寒くて、その分睡魔が襲ってきてどうにもならないと感じたことです。昼間は陶彫制作を工房でやっていて、夜の時間帯に自宅の食卓でRECORDの山積みされた作品の仕上げをやっています。このRECORD制作が、睡魔に邪魔されて思うように進まないのです。夕飯が終わると眠くなります。飼い猫トラ吉の頭を撫でながらこのまま眠ってしまいたいと暫し思うのですが、その本能に打ち克ってRECORD彩色を始めます。昼は立体、夜は平面、こんな生活が続いています。これは三連休が終わっても継続していく作業です。

三連休 屏風用厚板を購入

三連休の2日目です。今日は朝7時に工房に出かけ、昨日の続きである彫り込み加飾を行ないました。9時に一旦朝食を取りに自宅に戻った後、再び工房へ行き、土錬機を回しました。そろそろ貯蓄していた陶土がなくなりつつあって、栃木県益子の明智鉱業に連絡しないといけません。土錬機で陶土の混合を行いながら、菊練りを終えた陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを8枚作りました。1点の陶彫成形に4枚のタタラを使用する計算にしてあって、2点同時に成形するために8枚のタタラが必要なのです。補強用に紐作りも行なうので、陶土はタタラ以外に残しておく必要もあります。そんなことをやっているうちに昼になり、近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行って来ました。水泳をやっていると身体が思った以上に疲れていることが判明し、途中から水中歩行に切り替えました。午後から陶彫制作をやるべきか考えて、体力を消耗する陶彫制作より、屏風用厚板を木材店に調達に行こうと決めました。屏風は今まで何点か制作していて、デビュー作の「発掘~鳥瞰~」も屏風でした。畳大の6枚の厚板を折り曲げて床に立たせ、そこに半立体の陶彫部品を設合していく方法ですが、厚板に角度をつけるため、接合している陶彫部品にもそれぞれ角度が生まれ、結果大変面白い空間を現出させられることが分かり、それから何点も屏風の作品が誕生しました。屏風の作りも毎回異なっていて、1枚ずつの板を箱型にした場合もあれば、ブロックの木材を貼り付け、そこに木彫を施した作品もあります。また厚さをほとんど作らず、砂マチエールの厚みだけで表現した作品もありました。今回の新作では厚板にさらに厚みを加えることは考えていません。寧ろ厚板を彫り込んでいこうと思っています。陶彫部品に施している彫り込み加飾のカタチを、そのまま厚板の彫り込みのデザインに使おうと思っています。厚板への下書きをいつやろうか、全体をイメージして行なう作業のため、面白い反面、精神的負担を強いることになりますが、ワクワク感が止まらず、早い時期に実行しようと思っているところです。

三連休 初日から制作三昧

今月は2回の三連休があり、今日から後半の三連休がスタートしました。実は昨晩、ラグビー・ワールドカップに熱中しすぎて、今朝はぼんやりしていました。私は今までサッカーで熱中することはなかったのですが、ラグビーは自分の感覚に合うらしく、対ロシア戦を無我夢中で応援してしまいました。その後も暫し興奮冷めやらぬ状態でいました。私は野球やサッカー観戦に行ったことはあるものの、ラグビーを競技場で見たことがなく、こんなに試合が面白いのなら一度は競技場に足を運びたいなぁと思いました。今日は朝から工房に若いスタッフが来て、基礎デッサンをやっていました。三連休の初日は、私は陶彫成形が終わった2点の作品に彫り込み加飾を施していました。この三連休では陶彫成形をもう2点追加制作をしたいと思っていて、時間を有効に使わなければならないところを、なかなか作業が進まず、次の陶彫成形のための土練りまではいきませんでした。気温も肌寒くなってきて、温度差の疲れが出ているのかもしれず、重い身体に鞭打って作業を進めていました。ただし、完全にオフにすることは考えていなくて、新作のイメージが心を支配しているうちは、制作に邁進することだけを考えていようと思っています。イメージによって身体が突き動かされることは時折あって、これは創作に対する幸福な状態なのだと自分では考えています。そうでなければ、何か言い訳を見つけて怠けてしまうこともあるかなぁと思えるからです。若いスタッフが来てくれていることは、自分の背中を押される効果があって、意志を持続させるためには大いに助かっていると思っています。これは心理学で言う社会的促進です。今日も夕方4時までは制作に明け暮れていました。内容は遅々として進まないことがあっても、何とか陶土に喰らいついていれば、状況は好転するものです。明日は土練りとタタラをやって、明後日の成形準備をするつもりです。

HPに18’RECORD4月~6月をアップ

RECORDは一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っている総称を言い、文字通り自分にとっては日々創作しているRECORD(記録)なのです。2007年から毎日欠かさず制作していて、現在12年目を迎えています。私はコツコツ継続していくのが得意ですが、当初こんなに長く続くとは思いもせず、そうであれば生涯を賭けてRECORDをやっていこうと決めている次第です。このところ一日1点をノルマにしてきたRECORDが一日では完成せず、下書きだけを終わらせて、食卓に山積みしています。今月はその下書きに彩色し、仕上げを施して、山積みの解消をしようと奮闘しています。少しずつですが、解消の兆しが見えてきて、仕上げに弾みをつけているところです。ホームページのアップにも久しぶりに取り組みました。ホームページにはそれぞれ月毎にコトバを添えていて、2018年のコトバはひらがなを用いています。これは月毎のテーマから発想したコトバで、RECORDの解説ではありません。コトバ作りは私の学生時代からの憧れで、当時は現代詩に傾倒していました。私が目指そうとしたのは難解な語彙を用いる非現実的な世界ではなく、日常の簡単な語彙を使った感情の吐露でした。私にとってそれは大変難しく、造形のように自由に扱えなかったのが、40年も前に詩作を諦めた要因でした。それでもホームページに拙いコトバを連ねて掲載しています。未練がましいのは承知でやっているのです。今回、ホームページに2018年の4月から6月までの3ヶ月をアップしましたので、ご覧いただければ幸いです。私のホームページに入るのは左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にRECORDの表示が出てきますので、そこをクリックすれば今回アップした画像を見ることが出来ます。

同じ時期に「RECORD奮闘中」

昨年のNOTE(ブログ)を見ていると、2018年9月10日付「RECORD奮闘中」という記事を見つけました。その記事をそのまま書き出すと「一日1点ずつポストカード大の平面作品を作ろうと決めたのは、2007年の2月でした。それから10年以上も毎日作り続けていますが、この小さな制作が習慣になっているとは言え、ウィークディの仕事が多忙な時や、旅行している時は厳しいなぁと思います。それでも夜になると場所を選ばず、RECORD用に小さくカットしたイラストボードを取り出しています。私の鞄にRECORD用紙が常に入っていて、出張中の時間潰しに立ち寄るカフェでも、下書きをやっているのです。」とありました。この時も下書きばかりが先行していて、自宅の食卓に山積みされている過去のRECORDがあったはずです。それを懸命に彩色して仕上げていく作業を繰り返していたように記憶しています。1年経った今も状況は同じで、RECORD制作に精を出しています。昨年も9月に山積みが解消していて、10月のRECORDの撮影に間に合わせていたのではないかと思い出しています。今年も毎晩遅くまで彩色や仕上げを行っていて、夕食後の食卓は古新聞の上に絵の具が散乱している状態です。飼い猫のトラ吉をダイニングから締め出しているのも昨年と一緒で、ガラス扉越しにトラ吉はじっとこちらを睨んでいます。昼間の公務員の仕事から解放された夜の時間帯を、毎晩RECORD制作に充てて、しかも過去の作品の仕上げもやっているのは、なかなか厳しいスケジュールですが、ここで頑張らないとRECORDの継続が難しくなります。今年も「RECORD奮闘中」です。来年はそうならないように自分に厳しくありたいと願っています。

2019個展の批評より

(株)ビジョン企画出版社から発行されている「美じょん新報」は月々の展覧会情報が掲載されていますが、「評壇」欄では美術評論家瀧悌三氏による、端的で歯に衣着せぬ展覧会批評があって、私は常々参考にしています。瀧悌三氏は個展初日に来廊され、お会いすることが出来ました。「発掘~双景~」の前で、制作上の難しかった点などを、私の方から遠慮なく申し上げさせていただきました。私は古代出土品のような装いになる陶土を作り上げることに何年も費やし、それでも焼成によって壊れてしまうことも多々あると正直なことを言わせていただきました。その話を受けて簡潔に書いたいただいた評を掲載いたします。「遺石出土品に擬した陶彫オブジェ。大作は管状のもので繋いだ等身大の塔2体。中品は台状の物体、小品は帯文付けた方形立体。茶褐色の古色を出すのが難しい由。」簡単な文章ですが、きゅっとまとまった文章で表現していただいて感謝申し上げます。「旧盆長期休暇期間は催事閉散だが、前後、結構ある。~略~日本画、彫刻も活発。量は通常の一月分を優に越す。」と「評壇」欄の前置きにこのような文章がありましたが、私の個展も旧盆長期休暇期間の前に当たり、活発な状況を助けているのかもしれません。毎年この時期にギャラリーせいほうを会場に個展をしておりますが、来年のこの時期は東京オリンピック・パラリンピック開会式に当たります。その頃の銀座の街はどうなっているのでしょうか。搬入・搬出は滞りなく出来るのでしょうか。ちょっと心配をしておりますが、もう私自身は来年に向けて新作を作っている最中です。今日は2回の三連休に挟まれたウィークディですので、次の三連休に向けて気合を込めているところです。

モディリアーニとブランクーシ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」の続きをまとめます。この章ではモディリアーニらしい絵画表現に辿り着く重要なポイントがあり、さらに彫刻家ブランクーシとの関係が述べられているので、敢えてNOTE(ブログ)に取り上げました。私は彫刻家としてブランクーシの形態の本質に迫る簡潔性を信奉しています。若い頃、私はルーマニアを旅して、農村に残る建築柱の木彫に注目したのも少なからずルーマニア出身のブランクーシのことが頭にあったのでした。モディリアーニの世界にも共通する要素を認めるのですが、ブランクーシは生活や精神の在り方が彼と異なっていて、そこにモディリアーニは魅力を感じていたようです。まず、モディリアーニが自己表現を探り当てた箇所を引用します。「伝説によると、モディリアーニは麻薬で皆が躁状態になっているパーティーで紙と鉛筆をひっつかむと熱に浮かされたように描き始め、『ついに正しい道を見つけたぞ』と叫んだ。描き終えると、彼は白鳥のように長い首をした女性の頭部のスケッチを見せびらかしたという。」次はモディリアーニが未練のあった彫刻制作のエピソードを拾ってみます。「パリの地下鉄は拡張工事をしており、~略~モディは開け放たれた倉庫にオーク材の枕木が保管されているのを発見した。~略~夜遅く地下鉄の駅の柵を乗り越えると数本の枕木を盗んだ。」というわけで、モディリアーニの彫刻に枕木と同じ寸法の木彫作品があるそうです。さらにブランクーシのことを記した文章を引用します。「気持ちのうえでは彼は彫刻家になる決意をいまだ捨てておらず、ポール・アレクサンドルに頼んでルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシを紹介してもらった。ブランクーシは完全性と洗練された簡潔性をその芸術と生き方において達成した芸術家であり、それはモディリアーニにとって大きな魅力であった。彼はさまざまな形態、ヌードや飛んでいる鳥や接吻している男女などをその本質まで還元した。彼の作品の評判を聞いたロダンは助手として彼を雇おうとしたが、ブランクーシは『大樹の下には何ものも育たない』といって断ったという。青い仕事着に木靴をはき、がっしりした髭面の彼は、自己完結した世界をアトリエに作っていた。家具も自分で作っており、客はくぼんだ丸太に座らされ、食事は自作の石のかまどで自分で作った。またサロン・ドートンヌにその作品が展示されたことがあっても、美術界の派閥や陰謀には頑として近づかなかった。哲学的で神秘的な気質と正直で暖かい人柄を持つブランクーシは、ちゃらちゃらして気取ったモンマントルの人間に比べて、思慮深く頼りがいのある人物であり、モディリアーニを強く引きつけた。モディリアーニは何ら正式な彫刻の教育を受けていないために、ブランクーシが彼に力を貸し、勇気づけたのは確かである。」モディリアーニに限らず、私もそんなブランクーシにずっと魅せられています。

三連休 前半の成果

今月、三連休が2回あります。今回の三連休は2回のうち前半に当たります。前半の成果は第2ステーションの陶彫部品を4個制作したことです。まだ彫り込み加飾が出来ていませんが、何とか4個の成形を立ち上げることが出来ました。第2ステーションは残り6個で、今月中の完成は無理があるかなぁと思っています。今日も昨日に続き、朝7時に工房に出向きました。早朝の制作は意外にも集中して行うことが出来ることを発見しました。私は朝が強いのかもしれません。ウィークディの公務員の仕事も午前中に仕事の大半を終える仕事ではないかと思っているところがあって、長い間に自分の体質が変わり、朝に強くなっていたのかもしれません。学生時代は朝が苦手で、眠い目を擦りながら学校に行っていました。社会人になって自分は変わったのだろうと思っています。その分、夜更かしは出来なくなりました。日照とともに起きて仕事をして、日没とともに床につくという始原的生活が自分には合っていると思うようになりました。私は度々NOTE(ブログ)に書いてきましたが、規則的な生活を好みます。ウィークディの仕事は勤務時間が決まっているので、私には向いているのではないかと思うのですが、週末の創作活動も自分で時間を決めてやっています。今読書中のエコール・ド・パリの画家モディリアーニのような生活をすることは、私には到底出来ません。気分が乗れば何時間でも制作をして、気分が乗らなければ何もしないという生活は、あるいは芸術家気質を物語っているのかもしれませんが、私は公務員の気質を持った芸術家だと自分で吹聴しています。これは彫刻家であっても芸術家ではないのかもしれませんが、気分をコントロールして創作活動に打ち込んでいるのです。今日は夕方になって若いスタッフと話し込んでしまいましたが、たまにはそういうこともあるかなぁと思って容認しました。また、次の後半の三連休で頑張りたいと思っています。

三連休 地道な頑張り

今日は朝7時から工房に行きました。朝の涼しいうちに少しでも陶彫制作を進めたいと思ったからですが、40キロの土練りを行い、明日の成形準備になるタタラを数枚用意しました。陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを複数枚作っていると、涼しい朝にも関わらず汗が噴出してきました。昨日作業していた彫り込み加飾の続きを行なっているうちに、若いスタッフがやってきました。スタッフは現在高校生で、美大受験を視野に入れて基礎デッサンをやっているのです。一日7時間も工房でデッサンが出来るのは、彼女は美術の専門家になる資質はあるのだろうと思っています。私は昼ごろ工房を空けて、近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行ってきました。年齢を気にしているわけではなく、定期的にスポーツをしなければならないなぁと常々感じていて、創作活動を末永く続けるために体力を保持したいと考えているのです。退職したら私はスポーツ三昧になる可能性もあるのですが、あくまでも創作活動のためにスポーツをやっているんだと自分に言い聞かせています。今日は夕方4時まで陶彫制作をやっていました。現在は第2ステーションの陶彫部品が2個出来たところです。第2ステーションは残り8個が必要です。今月これが終わるかどうか分かりませんが、明日は2個の成形を計画しています。秋風が立てばウィークディの夜に工房通いも出来ます。制作工程では、今は地道な作業で、螺旋階段を一段ずつ登っているようなものです。詩人黒田三郎の詩に、手にランプをぶら下げながら坦々と螺旋階段を登っていく詩があります。登った先に水平線が見えるはずだと綴ってありましたが、私の気持ちは今まさに螺旋階段を登っている心境です。デッサンをやりに工房に来ている彼女は、まだ螺旋階段の入り口にも到着していません。これから大変だよと昼食を頬張りながら彼女と話をしました。自分が好きな道ならば多少の苦労も厭わないとでもいうように瞳がキラキラしていました。

三連休 母の通院&陶彫加飾

三連休の初日です。今日は介護施設に入居している母の通院に家内と付き合いました。施設から病院まで車椅子を押していくのが私の役目で、検査は家内が付き添ってくれました。とくに母には異常がなかったので安心しましたが、90代の母は何があってもおかしくないと思っているのです。母は食欲はあるし、会話も問題なく出来るので、当分大丈夫かなぁと感じますが、部屋にいても車椅子に乗っている最中でも眠っていることが多く、この歳になれば人間はそうなるのかもしれないと思った次第です。私自身はこの歳まで生きていられるのか、生きていられれば創作意欲はどうなっているのか、葛飾北斎のようにさらに高みを目指すようでありたいと、私は願ってやみません。母の付き添いの後、工房に出かけ、成形が終わった陶彫部品に彫り込み加飾を施していましたが、この制作姿勢をいつまでも保ちたいと思いつつ、陶土に向かい合っていました。凌ぎ易い気温になったおかげで、集中力が増し、あっという間に夕方5時を回っていました。本来なら土曜日はウィークディの疲れが残り、なかなか作業が進まないところですが、母を見るにつけ、残された人生を感じ取り、夏の暑さも一段落したことも相俟って、陶彫制作に気持ちが入ってしまい、久しぶりに前後の見境なく集中した状態になりました。今夏は一心不乱に創作に打ち込んだ記憶がないため、6月個展用撮影前の状態に心が戻った気がしました。創作活動はこうでなくっちゃいけないと思いながら自宅に帰ってきました。三連休初日はいいスタートを切れたのではないかと思います。明日から若いスタッフもやってくるので、一日1回は集中状態が作れれば幸いと思っています。

「モディリアーニ」第3章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」のまとめを行います。冒頭の文章に「アメデオはパリに着いたとき、21歳とはいえ、まだ経済的にも精神的にも母に頼っている少年であった。」とありました。ここから親の保護下で裕福に過ごした時代と別離し、次第に荒廃した生活になっていくモディリアーニの状況を、パリの芸術運動と絡ませて述べている箇所を引用いたします。「彼がパリに着いた1906年初頭は、芸術は空前の興奮状態にあった。世界中からやってきた若い画家たち、ピカソ、マチス、ブラックといった俊英がこの街に集まり、印象派や後期印象派のめざましい成果に引かれ、あるいは反発した。~略~ピカソとその追随者に先導された前衛芸術は、モディリアーニが絶賛していたアール・ヌーヴォーや後期印象派を嘲笑した。」次にモディリアーニの生活について述べている箇所を拾っていきます。「モディリアーニは高級ホテルに長く滞在する余裕はなかった。ピカソの助言がなくとも、どのみち彼はつい最近までロートレックが通いつめていたモンマントルの歓楽街にたどり着き、その周辺のサーカス小屋をのぞいたであろう。~略~浮浪者、乞食、数人の芸術家はマキ地区に掘っ建て小屋やバラックを建てており、つい最近まで街を闊歩する上品な男であったモディリアーニは、ここで波打つトタン板を葺いた無人の木造小屋を見つけ、掃除し、修繕して、パリにおける彼の最初の住居として整備した。~略~一般の人の理解する日常生活や日課というものは、モディリアーニにとってはほとんど不可解であった。彼にはまったく仕事をしない日というものがあり、そんな日にはカフェからカフェへと流れ歩くか、友人たちを訪ねるのであった。~略~彼はしばらくの間『バトー・ラヴォワール(洗濯船)』に住んだ。これはラヴィニャン広場にある木造アパートで、風が吹くとセーヌ川の洗濯婦の船のようにきしむところからこの名で呼ばれた。ゴーギャンの時代以来、芸術家たちは小部屋が集まったアトリエを借りるようになった。建物は老朽化しており、暖房も水も電気もないので、彼らはランプや蝋燭の光で仕事をしなければならなかった。訪問客の大半は広い部屋に住んでいるピカソに会いにきた。」モディリアーニの生活ぶりが伺える箇所ですが、こんな底辺の生活の中から彼の表現の方向性が示されてきます。そこは別稿でまとめたいと思います。

応挙の絶筆「保津川図」について

東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、応挙の写実性に富んだ画風から展開した軽妙洒脱な呉春や、近代京都画壇を彩った様々な画家の代表作品が展示されていて、ひとつひとつに深みのある世界があって大変見応えのある内容になっていました。私にとって馴染みがあるのは長澤芦雪、川合玉堂、竹内栖鳳、上村松園くらいでしたが、まだまだ力のある画家が他にも控えていて、思わず足を止めてじっくり見入ってしまいました。全作品を回覧して印象的だったのはやはり円山応挙で、絶筆作品として知られる大作「保津川図」でした。ただし、応挙の故郷である亀岡から流れる川が保津川であるため、この作品は保津川を描いたものだろうと推定されるだけで確証はないようです。その対象がどうであれ、私は切り立った岩の間を飛沫を立てながら流れる川の動きに快さを感じていました。岩と水のコントラストを形成する墨色が美しく、岩肌に翻弄されながら渦を巻く川の流れに、隅々までコントロールされたリズムを感じ取っていました。迸る水に目がいきがちですが、ふと見ると鮎の姿が何気なく描かれていて、実は細かい部分まで計算されて丁寧に処理されているのが分かりました。何というデッサン力だろうと惚れ惚れしていましたが、解説によると「保津川図」は応挙が亡くなる1ヶ月前に描いたとのこと、それが本当だとすればこの力強さはどこからくるものか、私には到底理解できるものではありません。絶筆作品は芸術家として生涯を全うした人には必ず存在するもので、その人らしさを物語っていると私は常々感じています。彼方へ消えてしまいそうな作品もあれば、「保津川図」のような力の篭った大作もあります。その人の置かれた健康状態や精神状況にもよるものかもしれませんが、展覧会に絶筆作品が展示されていると、思わず足を止めて見てしまうのは私だけではないでしょう。「お疲れさまでした。」と私は作品を見て呟いてしまいますが、私自身はまだ絶筆作品のイメージが持てません。創作活動をやっていると10年、20年はあっという間に過ぎ去って、私もいつかこれが最後かもしれないと思える彫刻を作るのでしょうか。制作中にその意識があるものなのでしょうか。現在の私には見当がつきません。ただ眼の前にある「保津川図」が絶筆作品ならば、円山応挙という画家はとんでもない力量を持っていたと改めて認識するしかないと思いました。

上野の「円山応挙から近代京都画壇へ」展

先日、東京上野にある東京芸術大学美術館で開催されている「円山応挙から近代京都画壇へ」展に行ってきました。隣にある大学の大学祭(芸祭)があったせいか大変混雑していましたが、前から見たいと思っていた大乗寺にある有名な屏風はしっかり堪能することが出来ました。私は20代の頃は西洋彫刻しか視野に入らなかったので、日本美術を扱った展覧会にはほとんど足を運びませんでした。それでも応挙の世界は知っていて、応挙が描く動植物の写生は目を凝らして見た記憶があります。応挙の絵画は、狩野派や土佐派にある様式的な絵画ではなく、まさに西洋の科学的な形態を踏まえた描写に近かったので、興味関心が湧いたのではないかと述懐しています。本展では応挙と呉春、さらにその流れを汲む画家を網羅していて、円山・四条派と呼ばれる系譜を知ることが出来ました。図録には応挙と呉春の特徴を述べた箇所がありました。まず応挙。「応挙は絵画一筋の画家であったと筆者は考えている。作家には様々なタイプがある。普段は制作とは関係なく好奇心のままに過ごし、その経験を活かして着想を得る者もいれば、常に作品と向き合い、作品との対話の中から新たな展開を見出す者もいる。~略~応挙の場合は、写生したものを活かしていかに画面を作り上げるかということを、観る人の視点を考慮しながら綿密に考え尽くす必要があり、おそらく旅に出ている時間がなかったと想像される。」次に呉春。「呉春は蕪村に学んだことで、画技の基礎として俳画や文人画を培っており、応挙の写生の精神を学んだ後も画風が全く応挙風になるということはなく、叙情性のある独自の画風を生み出した。」(引用は全て平井啓修著)今回の企画展で私は応挙のリアルな世界ではなく、呉春の軽妙洒脱な世界を楽しむことも出来ました。呉春は四条派を形成していきますが、門弟たちが京都の四条に住んでいたことからこの名称になったようです。それぞれの絵画世界については別稿を起こしたいと思っています。

上野の「奈良大和四寺のみほとけ」展

先日、東京上野にある東京国立博物館本館で開催している「奈良大和四寺のみほとけ」展に行ってきました。奈良県にある岡寺、室生寺、長谷寺、安倍文珠院の4つの寺は、古刹の寺として一度は訪れてみたい場所です。その寺から仏像や文書が出品されていると知って、東京国立博物館にやってきたのでした。その日は六本木や銀座を歩き回って疲れていましたが、仏像の静かな佇まいに触れると不思議な安らぎに満たされて、暫し疲れを忘れました。図録からの文章を引用いたします。「このヤマトとその南の飛鳥が、八世紀初頭の平城京遷都まで、古代政治の舞台となった。ここに、安倍文珠院、岡寺、長谷寺と、その少し東に室生寺が所在する。いずれも創建は、七世紀から八世紀にさかのぼり、仏教が伝来して以降、受容発展した日本仏教の足跡を今に伝える古刹がある。」この4つの寺のうち成立が最も古いのは安倍文珠院で、本展には文珠菩薩像内納入品という文書が出品されていました。岡寺から出品されていた義淵僧正坐像を、私は肖像彫刻として写実性に注目しつつ、僧正の風貌が大変面白いと感じていました。図録には「行基はじめ多くの弟子を育てた高僧義淵が、天智天皇から寺地を賜って龍蓋寺とした。」とあって、これが岡寺の発祥と思われます。長谷寺からは小さめの十一面観音菩薩立像が出品されていました。深さを湛えた良い菩薩立像だなぁと思いました。長谷寺には十一面観音菩薩立像の巨大な本尊があり、このエピソードが図録にありました。「この聖なる像は、ある霊木から造られた伝承をもつ。すなわちその昔、近江国から流出した巨木が、漂着した各地で災いを起こしながら、やがて当地にたどり着いたという。この祟りをなす霊木を御衣木として造られたのが本像だった。」最後に室生寺の釈迦如来坐像の佇まいに触れます。一木彫像の真骨頂と図録にありましたが、着衣に見られる襞の美しさに、私は一木の彫り跡の巧みさを見取りました。室生寺は山林修行の場でもあったらしく、図録にはこんな文章がありました。「当時、政治との癒着がすすんだ奈良時代の仏教の在り方を反省し、その反動として戒律を保ち、山林修行を通して聖なる力を得た浄行僧が尊ばれた。こうした新しい風潮のなか、都から遠く離れた、独特な地形をもつ室生の地が修行の場として見出されたのだろう。」(引用は全て皿井舞著)こうした仏像は寺を巡って訪ね歩くのがいいと思いますが、博物館の計算された照明の中で鑑賞するのもまた格別で、宗教を離れた芸術作品としての価値が際立つと私は考えています。

最大級の台風が夜半に通過

今日の明け方は自宅全体を揺らす暴風と横殴りの雨によって目が覚めました。と言うより夜半過ぎから風と雨の音がうるさくて眠りが浅くなり、頭の中でぼんやりと我が家は大丈夫かと思いを巡らせていました。私の自宅は横浜市の郊外にあり、近隣は雑木林が残る地帯で、横浜の都会的なイメージとかけ離れたところにあります。小高い丘に建っている一戸建てですが、周囲の風景は展望が開けて美しいと思う反面、風の力を真正面に受ける嫌いがあって、暴風の時は窓のシャッターを閉めていないと危険と思えるほど大変な環境なのです。自宅から農道を5分程度歩くと工房があり、そこも風が強く当たるところにあります。工房は窓を開けておくと爽やかな風が入ってくる良さがあって、季節によっては居心地の良い場所です。明け方、関東地方を襲った台風15号は最大級の規模だったようで、鉄道の運休が相次いで発表され、私は自家用車で職場に向いましたが、あちらこちらで渋滞していました。私の職場では通常の仕事は停止し、会議を前倒しして行ないました。台風一過で今日は気温が上昇し、蒸し暑くなりました。日本に住んでいる以上、災害に備えていかなくてはならず、明け方の台風はもとより地震も身近な自然現象です。防災をどうするか、ことあるごとに考えてしまいます。災害は過ぎ去った後も現場復旧に時間がかかります。私の自宅の近隣に住む人々も道に落ちた枝や葉をせっせと掃除していました。日本人は勤勉だなぁと思うところです。

週末 第2ステーション制作

新作の陶彫作品は、屏風と床の双方を使って表現するもので、そこに陶彫部品が数多く設置される集合彫刻です。先月から床置きになる陶彫部品を作っていて、蒲鉾型の部品を連結させて網のように床を這っていくイメージを私は持っています。その這っていく根茎のような部品の中に、中心となる集合体が2箇所あります。それを私はステーションと呼ぶことにしました。一つ目の第1ステーションは4個の陶彫部品で構成しています。既に4個とも成形と彫り込み加飾を終えて、乾燥を待っている最中です。先日から第2ステーションを作り始めていますが、第2ステーションは10個の陶彫部品で構成する予定です。第1ステーションよりやや低めに設定しており、部品のサイズも小さめです。今日は朝から工房に篭り、第2ステーションの2個目の陶彫部品の成形を行いました。成形は陶土を立体にしていくので、私にとって最高に楽しい作業で無我夢中になって取り組んでしまう工程ですが、迫り来る台風の影響なのか今日は湿度が高く、いつもより汗が噴出してきました。シャツと頭に巻いた手ぬぐいを2回替え、それでも滴る汗を止めることが出来ませんでした。今日は朝から若いスタッフが2人来ていて、それぞれの課題に取り組んでいましたが、各人の体調を考えて昼ごろには近隣にあるファミリーレストランに涼を取りに行きました。9月に入ってもこの暑さには辟易しています。陶土の乾燥が早いため表面があっという間に硬くなり、彫り込み加飾がやり難くなります。加飾が終わらなければ、濡らした布を作品にかけて、さらにビニールで包まないと、次の週末までいい具合に陶土を保つことが出来ません。他の素材に比べると陶彫制作は陶土の管理が大変です。制作工程の最後に焼成があるため、陶土の乾燥具合を常にコントロールしなければならないのです。木彫や石彫を扱う作家は多いのに陶彫を扱う作家が少ないのは、こうした陶土の管理に問題があるのではないかと思うところです。ただし、最後に窯に入れて上手く焼きあがった時の喜びは格別で、陶彫は鎧を身につけた戦士のようになって私の手許に戻ってくるのです。それが味わいたくて、面倒な工程を粛々とやっているようなものです。今日は夕方4時に工房を後にして、スタッフを車で送りました。秋の涼しさが待ち遠しいこの頃です。

週末 六本木・銀座・上野を渡り歩く

今日は東京の博物館、美術館、画廊を回ろうと決めていました。後輩の彫刻家が二科展出品、同僚の画家がグループ展参加、その他見たい展覧会があって、二科展とグループ展の日程が合うのが今日しかなかったのでした。とは言え陶彫制作をしないわけにもいかず、朝8時に工房に出かけました。明日の成形準備のために大き目のタタラを4枚、陶土を掌で叩いて作りました。9時過ぎに自宅に戻り、汗になったシャツを着替えて、東京に出かけました。まず向ったのは六本木の国立新美術館。ここで二科展が開催されていて、私は後輩の彫刻家から招待状を頂いていました。彼の作品は合板を重ねた積層を利用した立体作品で、今年の新作は2m以上もある直方体を基本としていましたが、寧ろ曲面で構成された多面体と言える流動感のある柱でした。極めて彫刻的な造形で、シンプルにして豊かな空間を創出していました。昨年までの彼は工芸的な要素が目立つ作品を作っていましたが、今年は吹っ切れたような立体になっていて、彫刻として訴えてくるものがありました。今後の彼の活躍に期待したいと思っています。次に向ったのは銀座です。日本美術家連盟画廊で開催されていたグループ展に、私と同じ二足の草鞋生活を送る同僚が絵画を出品していました。青と白を使った抽象絵画ですが、描写行為のない平面作品は、絵画と言うより平面を媒体にした空間作品と、私は思っていました。とりわけ新作は絵の具を垂らしたり、滴らせたりしていて、彼は何か別の方向を探っているようでした。昨年まで次第に簡潔になっていく画面を見ていて、この先はどうなってしまうのだろうと思っていましたが、模索を繰り返すうちに、彼は新しい世界を開拓したのかなぁと感じました。次に向ったのは上野でした。全て地下鉄銀座線の途中下車の旅で、最後の上野に到着した時はクタクタに疲れていました。まず東京国立博物館本館へ。先日は平成館の「三国志」展を見たばかりでしたが、再びトーハクに戻って来ました。今日見たのは「奈良大和四寺のみほとけ」展。日本の仏像に接するのは久しぶりで、7月に見た魂漲る石川雲蝶の木彫群とも異なる世界は、奈良時代や鎌倉時代に奉納安置された仏像ゆえに、静かな佇まいが空間を支配していました。「奈良大和四寺のみほとけ」展に関しては後日改めて詳しい感想を書きたいと思います。最後に訪れた東京芸術大学美術館の「円山応挙から近代京都画壇へ」展は、かなり混雑していました。というのは芸大が大学祭(芸祭)をやっている最中で、模擬店やら出し物を見にくる人の往来が激しく、その影響もあったのかもしれません。日本画家円山応挙は写実に長けた人で、その流れを汲む画家も、それぞれが確かな描写力があって、西洋技法が日本画に巧みに取り入れられているところが面白いと感じました。「円山応挙から近代京都画壇へ」展も詳しい感想は後日に改めます。今日のNOTE(ブログ)のタイトルを普通に東京の展覧会巡りにしようと思っていたのですが、展覧会の場所がアートが集まる三大地域ということもあって、敢えてこのタイトルにしました。

「モディリアーニ」第2章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第2章「旅からの霊感」のまとめを行ないます。第1章でモディリアーニは、スペイン系ユダヤ人としてイタリアの裕福な家庭に生まれたこと、病弱で生死の境を彷徨い、その都度母親のエウジェニアの献身的な看病を受けたこと、その折に読書や夢想に耽って芸術家としての下地が作られたこと等、モディリアーニの幼少期から少年期に到る生育歴が綴られていました。第2章ではイタリア各地を旅するモディリアーニが描かれていますが、まだ母親の保護下にあって、着実に画家への道を歩み始めていたのはよく分かりました。私が注目したところはモディリアーニが画家になる前に彫刻家を志していたことがあって、その箇所も引用したいと思います。まずは前章の確認のような文章を引用します。「エウジェニアは彼を甘やかし、不安定きわまりない将来に生きる望みを抱かせようとした。彼女は彼が健康になってくれさえすればよかったのである。~略~エウジェニアが驚いたのは、彼は普段移り気で落ち着きがない子だったのに、ギリシャやローマの美しい彫像に感嘆しながら何時間でもじっと立ち尽くすことであった。」モディリアーニはオーストリアに登山に行く予定もあったようですが、結局都市から離れることはありませんでした。「生涯を通じて彼に最良の作品を生む霊感を与えたのは都市の喧騒であった。彼は健康と自信を回復するにつれ、芸術家として感性と、療養による制約やエウジェニアの息苦しいほどの献身的態度との相剋が明瞭になってきた。」ここで彫刻制作についての文章がありました。「彼は暑い夏にリヴォルノに帰り、彫刻家になるという野望を大胆にも実行に移そうと努力をした。~略~彼は有名な大理石の石切り場カラーラから5マイル下がったところにある小さな美しい街ピエトラサンタに宿をとり、三点の素朴な彫刻、二点は頭部で一点は胴体、を制作した。~略~石のほこりは彼の喉を害して咳をさせ、また制作はきつくて退屈であったが、こうした人生の早い時期にのみと槌を使って制作したために、モディリアーニは素材を尊重し、石を用いる芸術家だけでなく職人にも敬意を抱くようになったのである。」モディリアーニの数少ない彫刻は私に感動を齎せてくれました。アフリカの民族彫刻に見られるようなプリミティヴな力が宿っていると感じたからです。パリに旅立つ前のモディリアーニの外見を描いた一文がありました。第3章に入る前にこれを引用いたします。「(画家兼文筆家)ソッフィーナはモディリアーニの『優美な容貌と優雅な外見』に感銘を受け、少ししか食べず、ワインを水で割り、『偉大なる平静心』を持つ優しく行儀のよい少年としてこの画家を記憶している。後半生のモディリアーニは、苦悩に満ち、取り乱した男として登場するが、これは初期の彼は穏やかで落ち着いた若者というイメージと興味深い対照をなしている。」

「モディリアーニ」第1章のまとめ

先月の終わりから「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)を読み始めています。第1章は「家族の絆」というタイトルがつけられていて、モディリアーニの生誕から美術への道に進むようになった契機や青年時代の印象が書かれていました。文中からモディリアーニの成育環境を調べていきます。「彼の両親は二人とも、古い家系のスペイン系ユダヤ人であった。彼がパリで会うことになるマルク・シャガールやシャイム・スーティンはともにユダヤ人で東欧の窮迫化した寒村の出身だが、彼らと違ってモディリアーニはゲットーの生活と無縁であった。彼が生まれたのは特権的な家であり、彼はイタリアでは反ユダヤ主義に接したことはなかった。」さらに両親の結婚について触れた部分を書き出します。「1872年1月エウジェニア・ガルシンとフラミーニオ・モディリアーニはリヴォルノの中心にある壮麗なバロック様式の教会で結婚し、エウジェニアは後にすべての子供たちが生まれることになるローマ通りにある広いヴィラ(別荘)の一部に移り住んだ。~略~アメデオ・クレメンテ・モディリアーニは1884年7月12日に生まれた。アメデオという名前は『神に愛された者』という意味だが、この赤子は最悪の時期にかろうじて生まれてきたのであった。~略~エウジェニアは金策に奔走していた。それというのも、いつしかモディリアーニ家の商売は経営が傾き、1884年には国中が不況となり、モディリアーニ家は破産した。」モディリアーニは学齢期を迎え、病弱な体質ゆえに母エウジェニアの手を煩わすことが頻繁にありました。「彼はほとんどこの世離れした美しい容貌とぱりっと整えられた優美な衣裳によってほかの生徒から抜きん出ていた。~略~1895年、11歳になった夏に彼は肋膜炎を悪化させた。~略~その間にアメデオは読書と夢想に耽り、それはエウジェニアを戸惑わせ、興味を引くほどになった。『この子の人格はまだ固まっていないので、私はなんと考えればよいのかわからない。甘えん坊のように振る舞っているが、知性を欠いてはいない。この蛹の中に何が潜んでいるのか、待っていて見ることにしよう。ことによると芸術家だろうか』」母エウジェニアの予言が次第に現実味を帯びてきます。「14歳になったばかりのアメデオは絵の勉強を喜んだが、この家族は不運につきまとわれていた。美術学校が始まるとすぐ彼は重い腸チフスにかかった。これは当時は不治の病とされていた。数週間で重態となり、1か月すると意識朦朧となった。伝説によると、このときアメデオは画家になりたいという熱意を表明したということである。」母エウジェニアの献身的な看病によって一命を取り留めたアメデオは、美術への道を歩んでいくことになるのです。第2章ではイタリア各地を旅して、モディリアーニはいよいよ画家としてスタートしていくことになります。

9月RECORDは「連繋の風景」

「れんけい」という漢字表記は「連携」を一般的に用いますが、敢えて「連繋」にしたのは繋がりをRECORDで表現したい意図があるからです。専門家集団で構成されている私の職場でも、常に連繋を意識して組織的な動きをしています。お互いが補い合えるというメリットがあるため、日々連繋する場面が多くあります。今月に入って仕事が本格化した今、私の頭にあるのは職場の連繋ばかりで、他の言葉を思いつかなかったというのが本音です。職場で行われている連繋の場面を、私は造形的に形や色彩を用いて象徴的にRECORDにしていこうと思っています。RECORDになった作品は抽象化していたり、別のモチーフを利用していたりしますが、テーマとして掲げているのは、自分の身の回りにあることが多く、動機としては日常生活から発生しているのです。そうでなければ、日々RECORDを作ることは出来ません。RECORDは一日1点ずつ作っていて、もう10年以上続く長期的規模の作品ですが、アーカイブを見ていると、その時どんな思いで作った作品なのかが思い出されてきます。身近なテーマを象徴的に表現している証拠かなぁと思います。週末ごとにやっている陶彫制作は完全なるイメージ世界の産物ですが、RECORDは抽象化や象徴化された日常風景だと言えます。現在は下書きが先行するRECORDですが、過去の下書きに仕上げを施す際は、その時の気持ちまでも振り返りながら作業をしているのです。そうならないように一刻も早く山積みされた下書きを仕上げて、通常のRECORD制作に戻したいと願っています。

9月の制作目標を考えていたら…

9月の制作目標を立ててみました。屏風と床置きの双方で見せる新作を現在作っています。先月の制作目標に屏風になる厚板のことについて触れていますが、今月は厚板を加工するところまでいけるでしょうか。床置きになる陶彫部品が4個で構成される第1のステーションに続く、10個で構成される第2のステーションを現在作っていますが、これだけでも今月いっぱいかかりそうです。あるいは第2ステーションは今月だけでは終わらないかもしれません。でも頭の片隅では屏風の下書きをやってみたいと思っていて、幸い三連休が2回あるので、陶彫制作の傍らで下書きくらいは出来るかなぁと思っているのですが、どうでしょうか。今月は見たい展覧会もあるので、制作時間を削って東京に出かけようと思っています。鑑賞を含めてあれもこれも欲張り過ぎですが、芸術の秋になるとアートで心が高揚します。涼しくなればウィークディの夜も工房に通って陶彫部品の彫り込み加飾は出来るかなぁと思うところです。ただし、下書きの山積みが解消されないRECORDをどうするか、思い切って週末の一日をRECORDの山積み解消に使ってみるか、これも気になるところです。何かに絞ってやっていかないと、結局何も解消できずに1ヶ月が過ぎていくことになってしまいます。優先順位をつければ、まず第2ステーションの完成、次に屏風の下書き、次にRECORDの山積み解消。ついでに鑑賞と読書。毎月変わり映えがしませんが、これでいこうと思っています。実はこんな制作目標を仕事からの帰り道に考えていました。今晩は雷鳴が轟き、夜空に稲妻が光っていました。横浜市で停電している地域があると情報が流れていましたが、自宅に帰ってみると我が家は停電真っ最中で、家内は蝋燭を灯して待っていました。え?停電なの?東日本大震災の時も計画停電に当たると思っていた我が家は、停電もせず、何も問題なく過ごせていましたが、今日に限って停電なのかと少々焦りました。電気がないと何も出来ない現代人の悲しさで、夕食は車で近くのファミリーレストランに行きました。同じ横浜市旭区内でも停電していない地域があったのでした。9時半ごろに電気が復旧しました。このNOTE(ブログ)が書けるのも電気のおかげです。文明の有難さを感じつつ、頭の中は即刻、今月の制作目標に戻ってしまいました。

映画「風をつかまえた少年」雑感

映画「風をつかまえた少年」を昨日観てきました。本作の舞台になったアフリカのマラウイという国を私は知りませんでした。21世紀になった今日まで開発途上にあったこの国の、映画で描き出されたリアルな状況を知って、唖然としたのは私だけではないでしょう。撮影はマラウイの農村を使ったそうで、乾燥した土壌が強風に舞い上がる場面も、まさにマラウイの気候風土そのもので、洪水と干ばつを繰り返す状況に言葉を失いました。図録にあった国の説明を引用いたします。「マラウイの都市部では電気を使う家庭も多いが、農村部の電化率は現在も4%に留まる。調理には木を伐採して薪を利用するのが一般的で、夜には灯油ランプやろうそくなどを使用することもあるが、基本的には暗くなったら就寝する家庭が多い。乾電池を使用するラジオ以外の家電製品は農村部ではなかなかお目にかかる機会もない。このような食糧・教育・電化事情がある中で、学校を中退せざるを得なかった少年が、風力発電に取り組み、食糧増産を目指すということが、どれだけ切実な課題だったのか、そしてどれだけ画期的なことであったかがお分かりになるかと思う。」(草苅康子著)父親役のベテラン俳優が監督や脚本も手掛け、息子役の主人公は一般公募から選ばれた少年で、その自然な家族の演技に心酔しました。主人公になったウィリアム・カムクワンバ氏の原作が本作の基になっていますが、氏のインタビューで「完成した映画を観てとても感激した。でも心境は複雑で、というのも僕と家族がくぐりぬけなければならなかった辛い体験を再度思い起こすことになったから。」とありました。それだけ映画はリアルな現状を伝えていると私は判断しました。最後に解説を担当している池上彰氏の言語についての一文を引用いたします。「現実のマラウイではチェワ語と英語が、まるでちゃんぽんのように話されています。映画でも、その点は忠実に再現され、登場人物たちは、英語とチェワ語で会話しています。観客にわかるように英語を使っているのではないのです。」現地出身の俳優ならともかく、そうでない人は言語を覚えるのは大変だったろうなぁと思いました。

9月最初の週末に…

9月最初の週末になって、今日は新作の床置きになる10個の陶彫部品で構成するステーションの1個目の成形を行いました。昼前に家内と映画を観に出かけ、映画館から帰ってきてから、再度工房に行って制作の続きを行いました。映画鑑賞は通常ならレイトショーに行くところですが、観たい映画が11時過ぎに始まることを知って、陶彫制作の合間に横浜のミニシアターに出かけたのでした。観た映画は「風をつかまえた少年」というイギリス・マラウイ合作による映画で、実話を元に作られていました。主人公ウィリアム・カムクワンバ氏は、現在も農業や教育に携わっている人で、2013年のタイム誌「世界を変える30人」にも選出されています。アフリカ南東部に位置するマラウイ共和国は、旱魃による被害でトウモロコシの収穫が出来ず、貧困に喘いでいたところをカムクワンバ少年の知恵で風力発電を起こし、農産物に水を与える快挙を起こしました。それも2001年のことですから、本当に最近のことだったようです。これは無学な父親を説得して、息子を学校に通わせた母親の隠れた存在が描かれていて、その故に学校で知識を得た少年の行動によって、村々が救われたと解釈できます。教育の大切さを考える機会になった映画という評価を私は持ちました。学校教育に携わる者は一度は観た方がいいかもしれません。詳しい感想は後日改めます。今日は「映画の日」でもあり、また人気のある映画だったようで、上映間近にはチケットが完売していました。私たちは早めに出かけたので、チケットが買えてラッキーでした。午後2時に工房に戻ってきて、陶彫制作を再開しました。取り組み始めた2つ目のステーションは背丈のやや低めの作品で構成されますが、背丈の高低に関わらず、手間暇は同じようにかかっていて、これを10個も作るのは先が長いなぁと思いました。9月いっぱいはこれにかかりっきりになってしまいそうです。9月の制作目標は改めて考えていこうと思います。