めっきり寒くなった11月に…

11月になりました。朝晩めっきり寒くなった11月に、陶彫制作に闘志を燃やすのは何も今年に限ったものではありません。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、11月から窯入れを始めているようで、今年も例外なく窯入れをやっていこうと思っています。今月の陶彫制作は屏風と床置きのステーションを繋ぐ蒲鉾型の陶彫部品を作っていきます。今まで作ったものより多少小ぶりな造形になるので、1ヶ月で数多く作れるのではないかと期待していますが、果たしてどうでしょうか。屏風の木彫の最終デザインも決めていこうと考えていて、その壁のイメージを思い浮かべていくことも重要な仕事です。今朝は寝起きにふと壁のイメージが湧きましたが、まだ漠然としていてカタチが掴めません。私は紙上のエスキースをしないので、常に頭の中をイメージが去来しているのです。次第に霧が晴れてくるのを待っているような按配です。毎年のことですが、今月は昼間の仕事も多忙感がつき纏い、かなり厳しくなります。来年度の人事体制を考え始めるからです。私の場合は、いつもこの時期から公務員管理職としても、彫刻家としても神経も体力を使わざるをえないのです。ストレス解消としては美術館や映画館に行くことですが、今月はそれが出来るでしょうか。RECORD制作は今のところ調子が良く、自宅での集中力が増しています。この調子の良さは、疑似科学ではあるけれどバイオリズムの周期というものを信じたくもなります。慣れると緩慢になりそうでいて、そうでもないところで踏ん張っているRECORDが前よりも楽しみになっています。読書は相変わらずで、先月の継続になるかなぁと思っています。今月も頑張っていきたいと思います。

週末制作を全う出来なかった10月

今日で10月が終わります。月の最初のNOTE(ブログ)に書いた通り、今月は週末にいろいろな用事があり、なかなか制作時間が取れず、陶彫制作を全うすることができませんでした。今の職場の地域行事の参加や前職場の若手職員の結婚式参列、台風で壊れた自宅の雨樋修繕のための業者との打ち合わせ、母の介護施設への引っ越しの手伝いと、母の転倒による入院手続きとその付き添い、先週末に行った2つの美大の芸祭など、週末がやってくる度に制作時間を削ってきました。それでも第1、2ステーションの陶彫成形と彫り込み加飾の完了と、屏風を構成する6点の厚板に基本となるパターンの下書きを終えました。用事がなければ制作工程としては遅々として進まなかった状況ですが、これだけの用事がある中でよくぞここまでやったなぁという思いに駆られています。ただ、制作工程としては厳しくなっているのは確かです。来月に期待したいところです。RECORD制作は毎晩やっていて今月は及第点です。この調子で継続したいと思っています。最近賢くなったかもしれない飼い猫のトラ吉は、私が食卓でRECORDを制作している時は、ガラス扉越しにずっとこちらを見ていて、大人しく待っているようになりました。美術鑑賞は師匠の池田宗弘先生が所属している「自由美術展」(国立新美術館)、「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」(武蔵野美術大学美術館)へ行きました。映画鑑賞では「トム オブ フィンランド」、「イーダ」(いずれもシネマジャック&ベティ)の2本を観てきました。多忙な10月だったにも関わらず、これも陶彫制作同様まずまず良かったのではないかと思っています。読書は「モディリアーニ」をまだ読んでいます。職場には民俗学の書籍を持ち込んできました。朝晩めっきり寒くなってきた10月末ですが、来月も元気に頑張っていきたいと思います。

「モディリアーニ」第7章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第7章「モディリアーニの成功を夢見る男」のまとめを行います。「ポーランドの詩人レオポルド・ズボロフスキーはこの展覧会を訪れ、モディリアーニのずば抜けた才能に驚嘆した。ズボロフスキーは政府の給費留学生として文学を学ぶために戦前のパリにやってきたが、給費が途絶えたのでセーヌ河岸で本や版画を売って生活していた。~略~八年前にポール・アレクサンドルがモディリアーニを支援して以来、ズボロフスキーほど彼の作品に強い興味を抱いた人物はいなかった。~略~『彼のような画家がカフェテラスで作品を売らねばならないとは何とも惨めなことだ』~略~ズボロフスキーは契約の一部として彼に煙草を提供したほか、苦労してワインも手に入れてやった。今やグラス二杯か三杯のワインは彼の制作活動にとってなくてはならないものだったからだ。~略~ほんの少量の酒で彼が酔っ払えたというのは驚くべき事実だが、おそらくワインは彼の力を発揮させる触媒だったのであろう。彼の友人たちは皆、彼がどんなに酔いつぶれても手だけは正常で、ずば抜けた技術とセンスをもってスケッチすることができることを知っていた。」ここまでモディリアーニと彼の画商になったズボロフスキーの関わり合った部分だけをピックアップして書きましたが、モデルになった女性関係や戦時下の混乱した生活状態のことは省略させていただいています。最後にモディリアーニの人物画家としての特徴を書いた部分を引用いたします。「フィレンツェとヴェネツィアでの修行時代からモディリアーニは女性のフォルムを繰り返し熱心に学習し、パリにきてからも裸体画のクラスに通っていた。彼が描くほかの肖像と異なり、彼の裸婦は物憂げな雰囲気がなく、直接的で開放的、肉感的なフォルムを持ち、華やかな色彩が用いられている。顔の描き方は簡潔で、ほかの肖像のそれのような悲痛な面持ちは見られない。しかし、そうした肖像のモデルとなったのが皆、彼の芸術家仲間や作家の友人といった複雑な性格の持ち主であることを考えれば、心の奥底を暴き出すような苦痛の表情が描き出されたのも驚くにあたらない。かたや、裸婦のモデルとなったのはプロのモデルやメイド、ウェイトレス、乳絞り女といった肉体と性的魅力を誇示する若い健康的な女性たちであった。」

社会の鬱積からの解放

武蔵野美術大学美術館で開催中の「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」を見て感じたことは、国家が社会主義体制にあった時代に、その鬱積から心を解放したいと願って、密かに作品を作っている芸術家の姿でした。そうした国家に対し、時の独裁者に迎合し、その猛々しい銅像を作る芸術家もいれば、スタシス・エイドリゲヴィチウスのような芸術家もいることが、造形美術の広範囲なあり方を示すものだろうと思っています。ナチスドイツの時代には国家の権威権力に対し、それとは無関係な新しい美意識を追求した美術作品が、退廃美術という烙印を押され、多くの作品が処分されました。美術史の観点からすれば、日常生活を図像として記録した古代の出土品を初め、宗教的な導きを図示化したものや社会的世相、たとえば戦争の意気掲揚を謳ったものまで、さまざまな表現が人類史と共に現れてきました。そうした社会的な動向とは無縁の、美意識だけを創作の中核に据えたのは、漸く20世紀になってからではないかと私は理解しています。現代はさらに美意識さえも変革し、人間が何処へ向かうのか、どうなってしまうのかを問いかける造形美術が登場してきたと考えています。現状を楽観視する作品もあれば、社会的な不安を訴える作品もあります。もう造形美術という範疇では語れない作品も存在しています。価値の多様化は現代そのものであるし、そんな中でもアートがコマーシャリズムに乗って大衆に根付いてきたことは確かです。翻って自分は何をすべきか、今風のアートを身に纏うべきか、先端アートに身を置いても、私はコンセプトを続けることができないのではないかと思ってしまいます。「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」が私に齎せた影響は、まさに社会の鬱積からの解放ですが、国家というより、私の場合は極めて個人的な感情によるもので、公務員としての社会体制からの些細な解放とも言えるものかなぁと思っています。個人の事情を考えると、こうした考えはとても小さなものに思えますが、だからといって作品が纏う精神性が浅いわけではないと思っているところです。

東京小平市の「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」

昨日、東京都小平市にある武蔵野美術大学美術館で開催されている「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」に行ってきました。リトアニア出身でポーランドで活躍する画家スタシス・エイドリゲヴィチウスは、なかなか覚えられない長い名前のためか、私はそれまでこの画家を知りませんでしたが、展覧会場に入るなり、その絵画の素晴らしさに思わず見惚れてしまいました。展示前半は私が日々作っているRECORDと同じサイズの小さな作品が多数並んでいました。どうしてそのサイズになったのか、理由は1974年当時に編入されていたソ連の兵役に就いていた時、彼は上官の目を盗んで、すぐ隠せるサイズの紙に絵を描いていたことがその根拠になったようです。しかも細密に内面世界を描き出す作品は、どれも完成度が高く目を見張るものがありました。私はRECORDを作る際の刺激を大いに貰った感じがしています。RECORDにはもう少し時間をかけなければならないと思いました。彼にとって絵画は解放区と言うべきもので、寓意と哀愁が漂いつつ、東欧の土俗性が根付いていて、その卓抜としたシュルレアリスム的世界観に、私は圧倒されていました。特徴としては顔の戯画化が多く、真ん丸な目がこちらを見つめているような錯覚を起こします。その目は人間の目ばかりではなく、鳥や動物の目のようにも感じました。彼はポスターや絵本にも着手していて、どこかで一度は手にしたことがある絵本も展示されていました。絵本では「ながいおはなのハンス」が有名かなぁと思いましたが、作者名を気にしたことはありませんでした。社会主義時代から体制が変わった時代を経験し、規制がなくなって自由に表現できる喜びを体現しているスタシス・エイドリゲヴィチウス。私のRECORD制作とはスケールが違いますが、私も昼間の公務員としての仕事から解放される喜びを表現しているところでは変わらないのではないかと自負しています。本展で明日への意欲と継続していく根気と勇気をもらうことが出来て、私にとって最高の幸せを齎せてくれたと思っています。しかも800点の作品が展示されていたことは特筆に値します。

週末 大学祭(芸祭)訪問②

昨日に続いて、別の大学祭(芸祭)に工房スタッフ3人を連れて行ってきました。今日出かけたのは武蔵野美術大学で、ここにも私の関係者が在籍しています。その子は空間演出デザインを専攻していて、ファッション関係の仕事に就こうかと話していましたが、昨日の子と同じく就職活動に消極的でした。武蔵美は何より私の母校で、ここにやってきた理由が2つあります。ひとつは武蔵野美大美術館で開催している「スタシス・エイドリゲヴィチウス展」が見たかったことと、自分の創作活動が始まった原点を確認したかったことでした。ポーランドを代表する画家スタシス・エイドリゲヴィチウスは現在70歳で、現役で活躍しています。彼の完成度の高い作品に数多く接して、私の大好きな東欧の土俗性に触れる機会を得ることが出来ました。この展覧会については別稿を起こします。武蔵美の芸祭は日曜日ということもあってか、来客の多さで圧倒されましたが、私は彫刻が展示されている2号館に佇んでいました。自分の40数年に及ぶ彫刻制作がここからスタートした思いに暫し駆られ、当時人体塑造をやっていた私は、池田宗弘先生から厳しい指導を受けていたことを思い出していました。どんなに厳しくされても、彫刻の魔力に憑かれた私は公務員との二足の草鞋生活を送ることになり、現在に至っています。彫刻を初めとする創作活動のスタートに立っている学生たちは、今後どんな人生を送っていくのでしょうか。きちんと就職活動を行っているのでしょうか。展示されている絵画や彫刻、デザインの作品を見ていると、創作に思いを強く持っている作品が目立ちました。表現が途中経過を示している作品群を見ていると、ここで終わったら残念だなぁと思うのは私だけではないはずです。そんなことを考えながら広場で、武蔵美恒例の彫刻学科学生による裸神輿を眺めていました。男子は褌一丁で将来のあるべき姿を叫ぶ姿勢は変わらないものの、最近は女子が増えてきて、晒を巻いた元気な女子たちの掛け声にも威勢の良さを感じました。

週末 大学祭(芸祭)訪問①

相原工房に出入りしている若いスタッフの一人に、女子美術大学でヴィジュアルデザインを専攻している学生がいます。また、工房には美大を目指して基礎デッサンをやっている子もいます。昨日のNOTE(ブログ)に初心を忘れないようにしたいという主旨の文章をアップしましたが、まさに彼女たちは美術の専門家としてのスタートラインに立ったところで、初心そのものだと感じます。今日は美大生の案内で女子美術大学の大学祭(芸祭)に行ってきました。アートやデザインの世界は希望者が多くても、なかなか社会的に厳しい面があって、大学の4年間を学生はどのように過ごしているのか、私自身の体験もあって、とても気になるところなのです。女子美は女子だけしか在籍していない優しさや緩さがあって、落ち着いた雰囲気を醸し出しているので、美大生を持つ保護者にしてみれば安心できる環境かなぁと思います。女子美祭は、中央の広場でコスプレ・ショーがあり、ある一面では現代日本の世相を反映していているようです。展示では、日本画や染織に見ごたえのある作品が多かったと思っています。困ったことに工房に出入りしている若いスタッフも例外ではありませんが、就職活動に消極的で、社会に出ていくイメージが湧かないと言っています。他の美大に通っている子も同じことを言っているので、美大生全体にそうした風潮があるのかもしれませんが、自分の好きなことを4年間、しかも素晴らしい設備や環境に囲まれてやってきたので、世知辛い社会に出ていきたくないと思うのは、よく分かります。楽しい現状に対して複雑な心境になっている彼女を見ていると、私自身も大学を卒業する頃になって、今でいう精神疾患を患っていたのではないかと振り返ってしまうところですが、心をしっかり持って社会に旅立つことを願うばかりです。

初心を忘れないために…

創作活動にしろ、公務員の仕事にしろ、それを始めた頃の自分はどうだったのか、初心を忘れないようにしたいと日頃から私は考えるようにしています。とりわけ創作活動において慣れは禁物です。造形美術の場合は技法の習得は必要ですが、そこに留意しなければならないこともあって、腕前が巧みになればなるほど、心がそこにあらずの腑抜けた作品になってしまう恐れがあるのです。技法の習得は作品の内容に関わるものであり、勿論超絶技巧は鑑賞者を惹きつける要素にもなり得るのですが、芸術で一番重要と思われるのは、技巧ではなく精神性であることは美術史が認める事実です。精神性はこうしたい、ああしたいと願う自分の主張や思索があって、その具現化に骨を折る過程で培われるもので、小手先で器用に達成できるものではありません。そうした自分への追い込みがあるからこそ、取り組みとしての創作活動は厳しいのだろうと私は理解しています。自分の創作活動はいつ始まったのか、どんな動機で始めたのか、その時は何を目指していたのか、あれこれ思いを巡らせて、現在やっている陶彫制作やRECORD制作の立ち位置を改めて見つめなおし、この先どのようにしていくべきかを暫し立ち止まって考えることを、私は例年この時期にやっています。幸い工房には美術の専門家を目指す若いスタッフたちがいます。美大受験生、美大生、そして学校を卒業したばかりのアーティスト、既に美術団体に所属するアーティストが工房に集っています。彼らを見ていると、私も初心を忘れないようにしたいと思うのです。そうした人たちが周囲にいることも私にとって幸せなことで、彼らの頑張る姿に影響を受けていることもあると思っています。若い頃の自分は美大の彫刻工房から創作の一歩を踏み出しました。その建物はもうありませんが、その時の気分は今も覚えています。工房で基礎デッサンをやっている若いスタッフを連れて、私が美大の催しに出かける理由として、初心を忘れないようにしたいという思いがあるためと言っても過言ではありません。

「モディリアーニ」第6章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第6章「窮乏生活の中で」をまとめます。まず冒頭の文章を引用いたします。「モディリアーニがそれまでに会った女たちの中で、ベアトリスほど彼が生活をともにした女性はいなかった。そして、彼女と過ごした年月の間に、彼の作品は劇的な変化を遂げたのである。1915年にはすでに、現在のどの美術書にも掲載されているような肖像画に着手し、彼の画商であったポール・ギヨームや、画家モイーズ・キスリング、太った子供、新郎、新婦らの肖像画を手掛けていた。彫刻家として過ごした年月の間に、モディリアーニは人間の姿を三次元的な固体として捉える術を身につけ、彼の肖像画はすでに、柱のような長い首と楕円形あるいは細長く引き伸ばされた形の顔、顔の表面に切りこまれたような鋭角的な鼻を備えるものとなっていた。」ところで二人の関係はどうだったのか、こんな一文もありました。「モディリアーニの擁護者となることを決意したベアトリスの自我と、彼女の僭越さに腹を立てたモディリアーニの自我がぶつかりあったのである。しかし、ベアトリスはたとえ彼を恋人として見なすことができなくなっても、彼の芸術を称揚することはやめようとしなかったであろう。」さらにベアトリスが綴った美しい文章が残されています。「愛は…性的な関係とは無関係である。愛は、個人が高揚の極みに達した状態であり、すばらしく、まれな、そして人を奮い立たせるような力強い夢がもたらす偉大で、まれな産物である。」これはモディリアーニのことが念頭にあったようですが、当人は窮乏生活の中にいました。「画廊にとってモディリアーニは扱いにくい作家だった。モディリアーニの作品を買いたい客が現れた場合、画廊の方で値段を提示したとしても、客がモディリアーニの住所を聞いて直接彼に会いにいけば、それよりもっと安い値で売ってしまうのだ。ましてや、抜け目のない客ならば、酒や食事をおごって、その礼としてモディリアーニからただで作品をもらうこともしばしばだった。~略~彼は貧乏のどん底にありながらも、プライドだけは高かった。画材を買うためや酒を飲むために金を借りることはあっても、独特の尊厳さを失うことはなかった。」

映画「イーダ」雑感

常連にしている横浜のミニシアターで、1週間の限定上映になっていたポーランド・デンマーク合作による映画「イーダ」を観て来ました。2013年に制作された本作は、モノクロでスタンダードなサイズで作られているため、クラシカルな映像美がありました。登場人物たちの極端に少ない台詞や抑制された人と人との距離感もあって、私は終始独特で不思議な雰囲気に導かれてしまいました。内容は1962年のポーランドの修道院から始まります。戦災孤児として修道院で育った少女は、修道誓願を立てる前に、院長から叔母が生存していることを聞かされ、叔母に会いに修道院を出て行くのです。叔母は酒と煙草、時に情事に耽っている自堕落な女でしたが、嘗ては人に怖れられていた検察官だったようです。叔母は少女に、本名がイーダであること、加えてユダヤ人であることを告げ、少女の両親が亡くなった経緯を探りに行くことに付き合うのでした。無垢で信仰心の厚い少女と、シニカルで無心論者の中年女。この奇妙な2人組が、叔母の運転する車で農道を走っていく映像は妙に象徴化された画面構成があり、私は美しさを感じました。イーダが無言で問いかける自分のアイデンティティ、自分とは何者か。嘗て両親が暮らした村を訪れた際に、二人は冷たい仕打ちを受けますが、調べていくうちに、村にいた住人の一人がイーダの両親と叔母の一人息子を殺して森に埋めたことが明るみに出てしまいます。戦中戦後のユダヤ人に対する残虐な行為、全体に立ち込める陰鬱な空気と閉塞感、自暴自棄になった叔母は飛び降り自殺し、イーダは一人残されます。イーダは叔母の真似をして酒を飲み、煙草をくわえてみたりして、外気を吸い込み、新たに解放と言う受難さえ怖れぬ覚悟を決めます。そこで知り合ったバンドマンとの一夜限りの情事、無表情だったイーダの表情に微妙な変化がありましたが、結局、修道院に戻っていくイーダの姿を捉えて映画は終わります。映画「イーダ」は、多くを語らずとも雄弁に表現されたものがあって、私には説明のつかない不安定な印象が残りました。

「即位礼正殿の儀」で創作活動の機会を得る

今日は「即位礼正殿の儀」で、官公庁は休日になりました。「即位礼正殿の儀」とは、天皇陛下の御即位を内外に広く披露するための儀式です。言わば外国で称される「戴冠式」のようなものだろうと思います。天皇制が出来た古代から現在も天皇が継承されている我が国の特別な環境を、私は支持しています。私の中には紀元前の神武天皇から始まったであろう長きにわたる歴史を蔑ろにしてはいけないという考えがあります。また、日本国象徴としての天皇の現在のお姿も理解しています。今日は祝事の休日扱いのため、私には週末以外に創作活動が出来る喜びもありました。今日は朝から工房に籠りました。屏風の下書きを続きを行っていましたが、昼頃になって横浜市中区にある常連のミニシアターに映画を観に出かけました。上映されていた映画は、敢えてモノクロにしてクラシックな映像美を求めたポーランドの「イーダ」でした。修道院で育った孤児が叔母を訪ねていく物語で、彼女の出生に纏わることが明かされていく過程で、自分とは何者なのか、彼女のアイデンティティに関わることが映画全般の主題になっていました。詳しい感想は後日に改めます。映画館から帰ってきて、再び工房に篭りました。工房に若いアーティストが顔を出しました。彼女はテキスタイルの作品を作り続けていて、新作に取り組んでいました。今月末までに新作を完成させなければならないようで、彼女は集中して作業をしていました。私も背中を押されるように屏風の下書きの続きを行ないました。これは創作と言うより、創作を行なうための準備で、厚板に無数の矩形を描くために縦横の線を鉛筆で引いていたのでした。この矩形のいくつかを彫っていくことになりますが、まだ先の制作工程になります。夕方は母が入院している病院に、家内と見舞いに出かけました。今日が休日になったおかげで、制作やら鑑賞やら母の見舞いやらが滞りなく進みました。明日からまたウィークディの仕事に励みたいと思います。

「呪術としてのデザイン」を読み始める

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を読み始めました。本書は自宅の書棚に仕舞いこんでいたもので、未読の一冊です。これは職場の私の部屋に置いておいて、折に触れて読もうと思っています。前まで読んでいた現象学者の論文とは違い、本書は比較的平易ではないかと思っているので、楽しく読み進められるかなぁと期待しています。素朴な土俗信仰や高度に洗練された宗教であっても、人間が畏怖を感じる存在を具現化したものは世界各地にあります。私も願わくばそうした不可思議なデザインを訪ねて世界中を巡りたいと思っているので、本書は私の願望を満たしてくれる格好な書籍であろうと考えています。目次を見ると、ケルト民族の意匠に関するものが多いのも興味・関心を引くところでもあります。序文に次のような一節がありました。「芸術の本質もまた超越的な存在の媒介による他者との位置関係の新しい設定であり確認である。日常の目に見えなかったものを感覚の領界にうつし、非現実を現実化するとき、詩が生まれ、建築が始まる。芸術と宗教、そして科学に通底するものは呪術のデザインである。」私が創作活動として陶彫制作をするとき、日常では見ることができないイメージ世界を捉え、その存在を効果的にする素材を選択し、具現化するために技法を習得するのは、何かに突き動かされているのかもしれないと常々感じていて、でも、その正体を掴むことは到底出来ません。創作の動機や意欲はどこからやってくるのでしょうか。自分では説明のつかないものを本書とともに考えていきたいと思っています。こんな一文もありました。「芸術は、自己表現であるよりはむしろ神との対話である。暗闇のしじまに、不可思議なフォルムの醸成をまたなければならない。呪術はその位相空間を可能にする工夫であり、意匠である。」

週末 地域行事&屏風下書き開始

今日は午前中は職場の地域行事に参加してきました。自分の役職上これは参加せざるを得ないもので、仕事の一環として考えています。今月はこうした用事が立て込んでいるので、なかなか陶彫制作が進みませんが、それでも昨日は第2ステーションの成形と彫り込み加飾が完了したので、今日は午後になって、いよいよ屏風の下書きに取り掛かりました。屏風は6枚の厚板で構成する予定ですが、まず手始めに基本となる1点目の下図を描いてみました。イメージとしては20代の頃に旅したトルコを思い出し、過去の作品で頻繁に参考にした地中海沿岸に広がる古代都市ではなく、トルコ内陸のカッパドキア地方の奇岩を参考にしました。奇岩には無数の穴が開いていて、この洞窟に人の住んだ形跡が見られました。イスラム教徒が台頭する中で、キリスト教徒が隠れ家にした歴史があって、美しいフレスコ画も洞窟に残されていました。ちょうど蜂の巣のような秩序だった洞窟住居は、自然と人工の織り成す絶妙な美観が何年経っても私の印象に残っています。その美観を思い出し、まず屏風に表したいのは風化した壁であり、人々の暮らした痕跡であり、まさに廃墟となった住宅を作りたいと考えているのです。そこに這っていく不可解なオブジェを陶彫で作り、大きな捉えをすれば死生観までも表現できたら本望かなぁとも思っています。最初に秩序だった穴の開いた壁を作るために、厚板に横長の同じ長方形が並ぶ基本的なパターンを描きました。厚板の縦横の長さに対して、どのくらいの長方形を配置すべきか、長方形と長方形の仕切りをどのくらいにすべきか、己の感覚を下敷きにしながら寸法を計算をして、まず1点目の厚板に定規で縦横の線を引きました。これと同じものを6点作ります。廃墟を作るためには、廃墟になる前の整然とした住居を作る必要があるのです。きっちりとした構成物がなければ、破壊することも出来ません。とりあえず基本となるパターンは書き上げました。先が長いなぁと思いつつ、屏風の第一歩は踏み出しました。今後は陶彫制作と屏風の木彫制作を同時に進めていく所存です。

週末 第2ステーション成形・加飾完了

週末になりました。朝から工房に篭りました。今日は若いスタッフが来ていて基礎デッサンをやっていました。スタッフがいると張り合いがあって作業が進みます。彼女は肌理の細かい感覚を持っていて、技術が向上すれば緻密な世界が描けそうな気がしています。来週は美術系大学の学園祭(芸祭)に行こうかと話をしていました。私は先日から取り組んでいる新作の第2ステーションの成形と彫り込み加飾が何とか完了しました。陶彫は最後に焼成という制作工程が控えているため、窯入れしなければ、完成には至りません。今日完了した陶彫部品は、いずれも乾燥するのを待って窯に入れる予定です。第2ステーションは10個の陶彫部品で成り立つもので、10個を並べると楕円形になります。第1ステーションも4個で円形になるように配置するので、床に円を成す一塊の集合彫刻が2ヶ所できるのです。2ヶ所のステーションは蒲鉾型の陶彫部品で結ばれる計画です。蒲鉾型の陶彫部品は網の目のように伸びていき、屏風にも立ち上げって壁に貼りついていくイメージです。とりあえず床に置かれる2ヶ所のステーションの成形と彫り込み加飾が終わり、これが上手く焼成できれば、床置きの見せ場は何とかなりそうです。今月中には第2ステーションの成形と彫り込み加飾を終わらせる目標を立てましたが、これは達成しました。第1ステーションと第2ステーションの連結は、今年ギャラリーせいほうで発表した「発掘~双景~」を応用したもので、新作はさらに屏風に陶彫部品が伸びていき、屏風に蔦が這うように絡んでいく世界を創り出そうとしています。いずれ新作に関するイメージの源泉をNOTE(ブログ)に書いていきますが、私は雑駁なイメージが作る過程で具体化していき、時に立ち止まって思索しながら、茫洋としたものがはっきり見て取れるものになっていくのが常なのです。今回完了した第2ステーションも蓮の葉が寄せ集まったイメージでしたが、カタチが出来てきて漸く次なる展開が可能になったと思っています。完成図のエスキースをしないのが私の流儀で、下図があるとそれに左右されてしまい、それ以上の世界が期待できなくなる怖れがあります。降って湧いたイメージはそのまま心に仕舞っておいて、イメージの上書きを具体化とともにしていくのです。明日は職場のある地域の行事があって、丸一日を創作活動に当てられないのが残念ですが、そろそろ屏風の下書きをやってみたいと思っています。

「見えないものを見る カンディンスキー論」読後感

「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を漸く読み終えました。本書は職場の私の部屋に置いたまま、時には数か月も放ってありました。前の職場から現在の職場へ移動した書籍の一つでもあります。NOTE(ブログ)によると、初めに手に取ったのが2017年11月29日だったので、ほぼ2年がかりで読破したことになります。著者のミシェル・アンリは「精神分析の系譜」等を著した現象学者で、読み進めていくうちに哲学書全般に見られる周到に用意された語彙の理解が必要になってくるのを感じていました。途中で挫折するかもしれないと思ったことは数知れず、それでもその危機感を救ったのは、本書が私の大好きなカンディンスキーの絵画理論に基づいていることが大きかったと振り返っています。内容を一言で言えば、訳者があとがきで書いている通り「写実主義の絵画を初めとしてあらゆる絵画は抽象絵画に包摂されるという点」にあります。カンディンスキーが生きた時代は、新しい芸術が理論と共に生まれた時代と理解していますが、今読んでいる画家モディリアーニの生涯を考えてみると、不思議な感覚に陥ってしまいます。カンディンスキーは1866年生まれ、モディリアーニは1884年生まれで、カンディンスキーの方が18年も前に生まれているのです。もちろん、ピカソのキュビズムやフジタたちのエコール・ド・パリもあって、欧州芸術界は百花繚乱の雰囲気がありましたが、それにしてもカンディンスキーの「芸術における精神的なもの」を初めとした絵画理論の数々は、この時代にすれば飛び切り新しいと言わざるを得ません。造形美術が哲学を纏うようになった最初の人がこのカンディンスキーではないかと思うのですが、いかがでしょうか。因みにモンドリアンは1872年生まれ。同時代と言えばその通りで、エコール・ド・パリの時代に次の時代を予感させる抽象絵画が始まっていたのでした。

「芸術と宇宙」について

「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の最終章「芸術と宇宙」のまとめを行います。本書は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を著者の視点で読み取り、そこに深い学殖に裏づけられた論考があって、全章を通して平易とは言い切れないものがありました。「十八世紀以降、宗教的感情が消滅したあと、具象絵画が提供したものといったら、脆弱ないわば二流の作品ぐらいしかないこと、絵画の領域における創造的な力の一般的な退潮は、生の衰弱の、生が有していたおのれの不屈性への確信が失われたことの正確かつ直接的な帰結であること、おそらくこうしたことこそが、ここ三世紀の美的動向を決定しているのであり、それゆえに内部の力を失ったその動向は、諸物を頼みとして、もはや信頼の中に、生それ自体への信頼の中に見出せない支えを諸物のもとで探し求めることになったのである。」これがこの論考を始める契機となったものだろうと思います。そこにカンディンスキーのこんな発想を引用しています。日常環境に属する平凡な諸物にしても、内部の音響をもっていると。さらに「芸術家によって使用されるフォルムは、現実的なフォルムであるとか抽象的なものであるとか、といった問題は、全然意味のないことである。その理由は、いずれのフォルムも内面的には等しいからである。」論考を抽象に導く中で、こんな疑問も提示しています。「絵画における抽象の理論は、客観的具象化にさからって、したがって自然にさからって定義されたのではないだろうか?」それに対する解答は次の通りです。「客観的世界を構成する意味の観念的基準から、色と線的なフォルムをひき離すことによって、指示的でない絵画性の中でこれらをとらえることによって、カンディンスキーの抽象は自然を遠ざけるどころか、自然の内的な本質を回復させているのだ。この本来の主観的で動的で印象的で情念的な自然、〈生〉という本質をもつこの本当の自然、それは宇宙である。」カンディンスキーが携わった冊子「青騎士」の中では、彼のこんな主張も見られます。「世界は響きを発する。世界は精神的に作用する諸存在の宇宙。かくして、生命なき物質も実は生命ある精神にほかならぬ。」

「絵画はすべて抽象的である」について

「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の「絵画はすべて抽象的である」という章のまとめを行います。本書は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を基盤にフランスの現象学者が著したもので、芸術の中の絵画についての考察が大変面白いと思っていますが、なかなか難しい箇所も多く、論考にも哲学的な側面が見受けられます。カンディンスキー自身も抽象絵画の裏づけとなる哲学を構築し、フォルムや色彩を論じてきました。現代は芸術行為そのものを哲学として扱う場面も多く見受けられ、その発端がカンディンスキーだったのではないかと私は思っています。表題にある一文は本書全体の中核を成すもので、これを主張するために論考を積み重ねてきたように感じています。「芸術の最初のテーマ、その真の関心とは、生である。元来、あらゆる芸術は神聖であって、それがもっぱら気にかけているのは超自然的なものなのである。それはまさしく、芸術が気にかけているのは生であるー目に見えるものではなく目に見えないものであるーことを意味する。なぜ生は神聖なのか。なぜなら、われわれが設定したわけでも望んだわけでもないものとして、われわれがその出どころではないのにわれわれをつきぬけて行くものとして、内部に生を体験するからである。生によって支えられているからこそ、われわれは存在し、どんなことでもやろうとするのだ。生自体に対する、われわれの内部にある生の受動性とは、われわれの情念的な主観性ー不変の芸術の、絵画の目に見えない抽象的な内容ーなのである。」そのあとに具体的なキリスト教の宗教画を取り上げて、誰も見たことのない宗教的場面や行為を具現化する際に、主観的組み合わせから生まれる情念への合致という言い回しを使って、絵画にある抽象性を導き出しています。最後に抽象絵画の原則に従った鑑賞について触れている箇所がありました。「見るとは、抽象の原則によれば、眺められている色の情念を感受することを、その情念が実在となっていること、〈生〉となっていることを意味する。」

映画「トム オブ フィンランド」雑感

自分の若い頃は、ゲイカルチャーをまるで受け入れることが出来ず、現在ほどジェンダーに対する意識があったわけではないので、美術界のこうした動きに反応することはありませんでした。同性愛者がアートや芸能界で活躍していても、特段関心を寄せることはなかったと振り返っています。ヨーロッパで暮らしていた時にゲイの知り合いはいました。日常生活の美に対する彼の執着に、漸く私の心が動きました。芸術は性差や人種を超えて成り立つことに感覚的理解を得たのは、あれから随分経ってからです。映画「トム オブ フィンランド」は、ゲイカルチャーのアイコンになっている逞しい男性像を描いた最初の画家として、その苦悩や社会的差別を扱った内容になっていました。図録から紹介文を拾うと、「同性愛が厳しく罰せられた第二次世界大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネン(別称トム オブ フィンランド)は、昼間は広告会社で働き、夜は鍵のかかった自室で己の欲望をドローイングとして表現していた。スケッチブックの中で奔放に性を謳歌しているのは、レザーの上下に身を包み、ワイルドな髭をたくわえた筋骨隆々の男たち。」というのがありました。ゲイカルチャーに登場するレザージャケットにピタリとしたパンツでナチス党員のような帽子を被った男性像は、アメリカンカルチャーとばかり私は思っていましたが、フィンランドの画家が先駆者だったとは知りませんでした。フィンランドと言えばムーミン等の可愛いキャラクターしか知らなかった私には衝撃的な文化の一面を垣間見た感じがしました。図録の解説を拾います。「現代でもたまに見られることだが、男性同性愛者を描いた当時の表象は、えてして『女性的』であったり『中性的』なものに偏っていた。トムの描く男たちは、それら当時のステレオタイプな描写に対してのカウンターとなった。そしてその男たちは、作品の中でいつも楽しそうにセックスをしている。これに関してトムは、『現実では辛い思いをしているゲイたちのためにも、自分の作品の中では常に彼らを幸せであるように描く』といった意の言葉を残している。」(田亀源五郎著)

三連休 母の入院&10点目の陶彫成形

三連休の最終日になりました。今日は祝日で、嘗ての東京オリンピックに因んで「体育の日」と称されています。この名称は今年が最後と言われています。朝9時から工房に篭って、今日は丸一日を創作活動に充てる予定でした。今日で陶彫制作の第2ステーションを構成する10点の陶彫部品を完成させるつもりでいましたが、家内から電話があり、新しく移った介護施設で母が転倒し、施設職員が付き添って病院に行っているという話を聞きました。とりあえず作業を中断して、家内と救急病院に向いました。母は移動用ベッドに横たわっていましたが、至って元気で安心しました。左側大腿骨の骨折で手術が必要とあって、暫く入院を余儀なくされてしまいました。母は元々内臓等が丈夫なので、たとえ90代でも手術をして復活させると医師が言ってくれたことで、妙にホッとしました。その後家内を邦楽器の練習場に送り届けました。私も工房に戻って来ました。母の高齢を考えると何があってもおかしくない状況ですが、母は私よりもポジティブ・シンキングの人なので、何度も復活を果たしています。母のメンタルの強さを学びたいくらいですが、今回はどうでしょうか。陶彫制作は昼ごろから再び作り始め、10点目の成形を行いました。午前中から作業をしていれば昨日作った9点目の陶彫成形と合わせて、彫り込み加飾まで終わらせられると思っていたのでしたが、母のことがあって、今日は成形までで終了となりました。それでも三連休は用事を済ませながら、結構頑張っていたのではないかと思っています。以前にも書いていますが、今月はさまざまな用事が立て込んで、週末の創作活動に支障が出ると考えていて、それを取り返すつもりで工房に通っていました。第2ステーションの完成とはなりませんでしたが、次の週末には何とかなるでしょう。次の週末も職場関係の用事がありますが、そろそろ屏風の下書きを進めなければなりません。新作の全体構造を描きながら、イメージの具現化を図っていきたいと思います。

三連休 職員の結婚式に参列して…

朝になると大型台風が過ぎ去って、見事な青空になっていました。今日は前の職場で一緒に仕事をしていた若手職員の結婚式がありました。新郎は専門職の初任として4年間その職場に勤めていました。私は管理職として人材育成を計画し、彼はそれに応えてくれました。職場を支える重要なポジションを得て、彼は日々活躍していました。新婦は新郎より2年遅れて事務職員として、その職場にやってきました。2人は同じ職場で出会い、結婚に至ったのでしたが、私はたまたまその職場を統括していたために、愛のキューピッドと称されて、来賓挨拶をお願いされていました。結婚式で前の職場の人たちと大勢会うことが出来て、私は嬉しい時間を過ごしました。結婚式場はみなとみらいにあるホテルが選ばれていましたが、大型台風による交通規制を考慮して、私は自家用車を利用させていただきました。結婚式に呼ばれたのは久しぶりでした。未来を誓う結婚式はいいものだなぁと思いながら、新郎新婦とご両家のこれからのご多幸をお祈りしていました。陶彫制作に触れると、結婚式に出かける前の1時間を工房に篭りました。朝7時から8時の間、成形を3分の1ほどやって、陶土をビニールで覆っていました。結婚式が終わって帰宅すると、再び工房に出かけました。朝やっておいた陶彫成形の続きを2時間やりました。第2ステーションの9点目の陶彫部品の成形を何とか終わらせ、明日のためにタタラを数枚準備しました。制作工程でいくと、明日で第2ステーション10点の陶彫部品が全て完成する予定ですが、果たしてどうなるのでしょうか。午後4時から6時まで作業をしていると工房の周囲は暗くなり、懐中電灯なしでは植木畑の中の農道が歩き難いので、早々に自宅に引き上げて来ました。夜は家内と横浜の中心にあるミニシアターのレイトショーに行ってきました。夜9時から11時までを映画館で過ごしていました。観た映画はある画家の生涯を扱った映画「トム オブ フィンランド」でしたが、画家が表現した世界はゲイ・カルチャーで、戦争中から現代に至るまで、その世界観が認知されない時代を経て、漸くジェンダーが理解された現代になって、作品を堂々と発表できる経緯を描いていました。詳しい感想は後日改めます。今日は若手職員の結婚式、陶彫制作、映画鑑賞と3つのことをやってきました。予め計画をしていたことでしたが、充実した反面、かなり疲れた一日でした。

三連休 台風接近の中で自宅修繕相談

三連休が始まりました。台風19号が関東に近づいていて、時より雨風が強く工房の外壁に当たっていました。そんな中で午前中は工房に建築業者が来ていました。工房はさまざまな打ち合わせに使える場所で、自宅のように改まった雰囲気がないのが良いと思っています。私が戸建ての家を建てたのが30年以上も前のことで、土地は亡父の植木畑から僅かばかり分与をしていただいたものです。正式には父に生前贈与をしてもらって、調整区域から宅地に変えて、現在の自宅を建てたのでした。最近になって屋根の庇に付いた雨樋が緩んで、台風15号の時についに壊れてしまいました。その他に雨漏りもあり、屋根の修繕も必要なことが分かって、この際自宅全体を全てやってもらうことにしたのでした。築30年と言えば、ここで修繕を入れるのが妥当なのかもしれません。修繕工事を入れるのは、私がまだ現役で働いているうちが良いと判断しました。定期収入があった方が安心と思えたからです。ここで自宅を直しておけばもう30年は大丈夫と業者に言われました。大型台風が今晩上陸するため、我が家の雨樋や雨漏りが心配になっていますが、何とか今晩持ち応えられれば、来月から足場を組んで修繕工事が始められることになっています。午後は陶彫制作に充てました。工房は内壁がないため、台風の雨風の音が激しいのですが、雨漏りすることもなく、落ち着いて制作に勤しみました。陶彫部品8点目の彫り込み加飾が終わりました。第2ステーションは残り2点になり、早速タタラを数枚用意しました。陶彫制作をしていると外で騒音を立てている台風のことが気にならなくなります。午前中の修繕工事の打ち合わせも忘れてしまい、目の前の陶土のことしか頭に入りません。それがいいことかどうか分かりませんが、日頃の仕事に対するストレス解消になることだけは確かです。明日はタタラを準備しているので、どこか時間を作って成形をやりたいと思っています。明日は前の職場に勤めていた時に一緒に仕事をした若手職員の結婚式があって、私は挨拶をすることになっています。台風が過ぎ去っていることを祈るばかりですが、陶彫制作のことも頭から離れません。明日も制作時間を捻出して頑張ろうと思っています。

陶彫制作時間の確保

明日から三連休になりますが、今月はさまざまな用事があって、通常の週末に行っている陶彫制作が思うように出来ません。明日は午前中に来客があるため、午後から制作が可能かなぁと思っていますが、大型の台風が近づいていて、自宅の雨樋が壊れかけていて心配です。明後日は前の職場に勤めていた人の結婚式があり、私は管理職として挨拶を依頼されています。おそらく暴風警報が出ても結婚式は行うだろうと思って準備はしています。電車が止まることを考えて、当日は自家用車で式場に向かうことにしました。この日も制作時間をどこかに作ろうと思っています。月曜日の体育の日はずっと陶彫制作に充てられるかなぁと考えていますが、果たして三連休を通してどのくらいの時間を確保できるのか、隙間を埋めるように制作すれば何とかなると思いながら、どこまで陶彫制作を進められるのか、いろいろな思いが巡ってしまいます。陶彫制作では第2ステーションの陶彫部品の残りの2点を作ることと、屏風の全体構成を考えることが今月の制作目標です。この三連休では陶彫部品2点の成形と彫り込み加飾の完成を目指したいと思っています。加えて連休中に映画鑑賞が出来るといいなぁと思っていますが、台風のせいでこれは何とも言えません。電車を使う美術館よりも車で行かれる映画館が、鉄道運休等を考慮するといいかもしれないと思っているところです。三連休はさまざまな計画がある人も多いと察しますが、自然現象ばかりは日本に住む以上仕方がないと思っています。

「芸術の本質」について

職場の私の部屋にずっと置きっ放しの書籍があります。折に触れて読んでいますが、通勤で携帯している書籍とは違い、読書時間がなかなか確保できない上に、やや難解な内容なので、その気にならないと頁を捲ることがありません。その書籍とは、「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)で、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を根拠にフランスの現象学者が著したものです。今回は久しぶりに頁を捲り、「芸術の本質」についてまとめることにしました。「芸術は自然の模倣ではないし、同様に生の模倣でもない。」という一文が最初に目に留まりました。どういうことか、「生が芸術と絵画の唯一の内容を形成することができ、また形成すべきであるのはーその内容が抽象的で目に見えないかぎりにおいてであるがー生がそれ自体では決して対象にならないからである。いったい生はどのようにして芸術の中に存在しているのか。~略~われわれが絵の上に見たり見たと思ったりしているものとしてでは決してなく、そういうイメージが生じるときにわれわれが自分のうちに感じとるものとして、色とフォルムのもつ音色や基調色としてであり、絵とは両者を構成したもの[コンポジション]なのである。~略~つまり生はその固有の本質にしたがって芸術の中に存在しているのである。生の本質とは何なのか。自己を感受することだけでなく、その直接的帰結としての自己の拡張である。」という解釈がありました。また「芸術とは生の移り変わりであり、その移り変わりが生ずる際の形態である。」とも述べられています。芸術表現の動機となる情念についても記述がありました。「情念こそがあらゆる力を確立し、絵画がこの情念を『表現する』。つまり、この情念はあらゆる色とフォルムのうちに存在しており、これら両者の配置を通じて、それは絶頂へとおしあげられるのである。たしかにそのときにこそ、芸術は生の本質の実現として現れてくる。」最後に文化についての論考を載せておきます。「文化とは、生が自己の不変の本質を、つまりおのれ自身のもとにたゆみなく到達することによって自ら拡張し生を構成する各能力を究極までおし進めるという本質を現実化する際の過程なのである。芸術が受け入れるのは感性の諸能力である。時をつらぬいてわれわれに合図を送ってくる偉大な作品には、随所に感性の諸能力がその激しさと強さの極限までおし進められていることが見てとれる。」今回はここまでにしておきます。

介護施設の後片付け

このところ朝晩はすっかり涼しくなって、そのせいか身体がぐったりしています。この疲れは気候のせいかなぁと家内に言ったら、一昨日と昨日の夜に行なった介護施設の後片付けのせいだと言い返されました。母は5年間住んだ自立型施設を今月3日の木曜日に引越し、介護型施設に移ったのでした。着替え等は1週間分持参しましたが、まだ自立型施設の方に荷物はそのまま置いてありました。私は仕事帰りに家内と待ち合わせ、荷物の整理に自立型施設に行きました。これは言わば母の断捨離で、介護型施設に持って行くものと捨てるものに分けて、とりあえず荷物は自宅に運びました。7日の月曜日だけでは全て終わらず、翌日8日の火曜日も仕事帰りに自立型施設に立ち寄りました。たった1部屋だけでも片付けは大変でした。一昨日と昨日はテキパキやっていたので疲労は感じませんでしたが、今日になって疲れが出たのかもしれません。私はさらに夜の時間帯はRECORD制作とNOTE(ブログ)のアップがあって、なかなか厳しい状況でしたが、不思議なことにRECORD制作は気に入った世界が出来て作業は集中しました。仕上げのペンを持つ手が疲れていたので、介護施設の後片付けが多少影響しているように思いました。断捨離は近いうちに自宅でもやろうと家内と話し合っていて、今回は母のプチ断捨離を経験して、一筋縄にはいかない作業に辟易しています。これは段取りを決めて坦々と進めていこうと思っています。少しずつ作業を進めていくのは私の得意とするところです。ウィークディの公務、週末の陶彫制作、夜のRECORD制作とNOTE(ブログ)の他に自宅の断捨離を入れるのは、ちょっと辛いかなぁと思いますが、疲労で倒れない程度にゆっくりやっていこうと思います。

10月RECORDは「分離の風景」

一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っているRECORD。先日、1年間分の撮影が終わりました。それまで山積みされていた下書きだけのRECORDを焦って完成させ、撮影日に間に合わせました。毎晩何時間もRECORDに取り組み、絵の具が飛び散る食卓で睡魔に襲われながら頑張ってきました。現在は今日までの分をきちんと仕上げていて順調な滑り出しです。RECORDは日々制作しているので、その日によってイメージを変えてもいいのですが、時間がないにも関わらず発想から完成までを一日で成し遂げるので、5日間でひとつのイメージを展開していく方法を採っています。初日にイメージを決めると5日間は同じイメージを展開していくのです。新たなイメージが湧いた時は先送りして、まず連作を続けることに専念します。言うなればその日のうちにまとまらない図柄にもなってしまい、寧ろ考え方としては連続されたものを日々作っている状況です。その上、その月によって大きなテーマを決めていて手枷足枷を強いていますが、寧ろ限定されたものがあった方が楽に作れるのです。今月は「分離の風景」に決めました。区別されたり、仕分けされていくものを以前からイメージしていて、これをどこの月でやろうか思案していました。差別のような人権に絡む微妙な内容は今回止めておきました。職場では度々考えさせられる人権上の問題もありますが、RECORDはもっと単純な内容に絞りました。浅い内容の効率的な展開が果たしていいものかどうか、悩むところではありますが、日々の制作時間帯を考えると、疲れた頭に単純作業は癒し効果もあるのかなぁと思えるのです。

「モディリアーニ」第5章のまとめ

「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第5章「大戦下のパリでの出会い」をまとめます。冒頭の文章に「モンパルナスの芸術界の人間で、モディリアーニのことを知らなかったり、彼と酒を飲んだり、彼にスケッチされたことのないものは誰一人としていなかった。」とありました。それほどモディリアーニの行動は評判になっていたようですが、こんな一文もありました。「彼はその頃でさえ自分がパリでは門外漢であることを意識していた。彼は友人や恋人たちに対しては、常にユダヤ人であることを明らかにしていたが、そうすることで、あらかじめ拒絶されるのを制しようとしたのであろう。批評家たちは、彼が純粋に新しい才能を求めて躍起になっている芸術家の一人であることに気づいていた。『彼は自作を発表することについて決して悩んだりしなかったし、周囲の作家のやり方を盗むようなことも決してしなかった。彼は自分一人で、自分自身のために生きていたのだ』」さらにこの章では重要な人物との出会いが語られています。その人は批評家で詩人だったベアトリス・ヘイスティングスでした。「『パリに行けばいい。モディリアーニという美男で天才の画家がそこにいるよ』35歳のベアトリスは豊かな胸に小さい頭、華奢な体つきといったモダン女性の容貌を備えていたが、実際彼女はモダンな女性であった。」ピカソはベアトリスのことを女性詩人、モディリアーニのことを酔っ払いと評していましたが、ベアトリスのこんな語りがモディリアーニとの出会いを表しています。「複雑な性格の持ち主。豚に真珠。1914年に安レストラン(ロザリーのこと)で出会う。私は彼の向かい側に座っていた。ハッシシを吸い、ブランデーを飲んでいた。彼にはまったく興味を覚えなかったし、一体誰なのかもわからなかった。酷く、残忍で強欲な人間にしか見えなかった。カフェ・ロトンドでふたたび会う。鬚を剃っていて、魅力的だった。可愛らしい仕種で帽子を取ったかと思うと、恥ずかしそうな目つきをして自分の作品を見にきてくれといった」その後の2人は蜜月状態が暫し続きます。「この頃のベアトリスはモディリアーニのすばらしい伴侶であった。彼女は趣味がよく、機知に富み、文学に精通しているだけでなく哲学にも興味を持っていた。それらはすべてモディリアーニの好みに合致していた。彼女は『ニュー・エイジ』の編集主幹として、新進の詩人や作家たちを奨励し、彼らを積極的に取り上げた。彼女がモディリアーニをよくも悪くも刺激し、彼の制作活動の触媒のような役割を果たしていたことは確かなようだ。」それから2人の関係がギクシャクしてきますが、モディリアーニの代表作はこの時期に制作されているのでした。

週末 留学について話し合った日

以前、相原工房で染色を基盤にしたアート作品を制作していた子が、久しぶりに顔を出しました。彼女は暫く中国に留学していて、そこの大学で染めのワークショップをやったり、自らの作品を作って発表していたのでした。海外で暮らして得たものを土産に彼女は帰国しましたが、今後どのように作品が展開していくのか、私は楽しみになりました。留学は他国の思考や技法だけでなく、伝承されているものや文化を学んでくるもので、ネットが発達し世界の情報が瞬時に手に入ったとしても、実際に肌で感じて得るものがあると私は思っています。私自身のことで言えば、今ほど情報がなかった時代でしたが、ヨーロッパに5年間暮らしていて、そこで自分の成育歴を振り返り、外国人との比較の中で自分が何をしたいのか、どんな表現手段が自分に相応しいのか、根源から自問自答する機会がありました。具体的にはそれまで日本で作っていた人体塑造が西洋に依存していたことで、その見直しを自分に迫り、日本人として生きてきた過程で、何が自分にとって必然なのか、彫刻そのものの実践を疑ってみることもしていました。彫刻の概念は西洋からきたものでしたが、私たち日本人は明治時代以来、学制が教育法令によって定められると西洋版の美術教育が入ってきた経緯を持っています。子どもの頃から疑うこともなく、西洋風の描画道具や絵の具を使って作品を作り、それらを教室に飾っていた環境に慣れ親しんできたため、西洋美術は極めて身近なのでした。ただし、留学によってその本流に触れると感覚的についていくことが出来ない拒否反応もありました。私の現在の立体造形のスタイルはそこから出発したと言っても過言ではありません。留学について話し合いながら、彼女にとって中国はどんな影響を内面に及ぼしたのか、自分自身に問いかける機会はあったのか、それは今後制作されるであろう彼女の作品が物語るのではないかと察しています。帰国した彼女は心機一転して工房で何かを始めました。私は8点目の陶彫成形をやって、彫り込み加飾を途中まで行なったところで夕方4時になりました。彼女を車で送りながら、私自身も20代の頃の不甲斐ない留学生活を思い出していました。

週末 800kgの陶土が届いた日

やっと週末になりました。数日前に栃木県益子町にある明智鉱業に陶土注文のFAXを送っていました。私が使用する陶土は2種類で、それぞれ割合を決めて土錬機にかけて、最後は手で菊練りをして使います。明智鉱業で扱っている陶土は20kgが1包になっていて、日本各地の陶土が販売されています。以前は益子町に出かけて、私は直接購入していましたが、ここ数年は横浜まで運送していただくことにしています。陶土を混合する実験を繰り返していた時代は、さまざまな種類の陶土を使ってみて、焼成によるテストピースを作っていました。「発掘」シリーズの陶土が決まってくると、購入する陶土の種類も限定されたものになりました。私の作品は釉掛けもしないし、陶土のバリエーションを見せることもしません。イメージに合った陶土があればそれでいいのです。いつも私は20kgの陶土を20包、それを2種類注文しているので、合計40包で総重量800kgの陶土が毎年必要になっていて、それらが今日工房に届きました。この陶土を大切にして、これからの1年余りの間に使っていくのです。今日は昨年購入した残っている陶土を土錬機にかけて土練りを行ないました。菊練りをした際、掌で叩いて座布団大のタタラを数枚作りました。明日の陶彫成形のための準備です。今日は夏が再来したような暑さで、汗が頬を伝って流れました。第2ステーションの陶彫部品は7点完成して乾燥を待っています。明日8点目になる部品を作ります。制作工程が少しずつ着実に動いています。週末がきちんと創作活動に充てられる時は、朝から夕方まで最低7時間は工房に篭ろうと思っています。今日は朝7時から工房にやってきたので9時間くらいやっていましたが、途中若いスタッフが顔を出しました。夕方4時に彼女を車で送って工房を後にしました。

「旅の絵師は悪魔と出会った」雑感

昨日、東京六本木にある国立新美術館で開催している「自由美術展」に出かけ、師匠の彫刻作品を鑑賞してきました。池田宗弘先生から私は学生時代に彫塑の指導を受け、その時に東京都美術館の大規模な企画展に出品されていた池田先生の作品を見て、彫刻を始めたばかりの私はその作品がずっと印象に残っていました。あちらこちらから痩せた猫が魚の骨を目指して忍び寄る大きな作品は、今も長野県東筑摩郡麻績村にある先生の工房兼住居「エルミタ」に置かれています。「エルミタ」にお邪魔する度に、私は当時の思い出が甦り、長く彫刻の道を歩んでいる自分のことを振り返る機会にもなっているのです。今回出品されていた「旅の絵師は悪魔と出会った」は、先生がデビューの頃から続けられていた真鍮直付けによる人物像を含む風景彫刻で、私にとっては馴染みのある技法を駆使した作品でした。悪魔が登場する契機になったのは、あるキリスト教会の神父の心に棲む邪悪を、先生が悪魔に見立てたのが始まりでした。連作を続けて見させていただいて、悪魔が徐々に可愛らしくなっているのに気づきました。親しげに近づく者に注意をするように先生に促されているようにも思えました。先生の彫刻は細長くて、一見するとジャコメッティのようですが、内容はかなり違います。ジャコメッティは対象を正確に捉えようとした結果、あんなに針金のように細くなっていったわけですが、先生は構造の面白さを示すために量感を削り取っていったように思えます。それは人物だけではなく、周囲の情景さえも構造そのもののような風景になっています。であるからこそ、照明に当てられた彫刻の陰影が美しく映えていると私は感じています。また素材だけを提示しているのではなく、そこに物語性を盛りこんでいます。労働者の憩いや公園に集う人々、猫の生態やら宗教性の強いテーマもあります。社会風刺や日常を切り取って、あたかもスケッチでもするように彫刻するのが池田宗弘ワールドなのです。陶の素材感を全面に出し、抽象化を図る私の世界とは異なりますが、私の作り出す世界も先生に認めていただいていることに感謝しています。先生にはいつまでも作品を作り続けていただけるよう願うばかりです。

母の施設引越し&美術館へ…

今日は職場で年休をいただきました。ちょうど外会議もなく、書類を早急に作ることもない日は、一日休んでも大きな影響がないと判断しました。突発的な危機管理が求められる場合は、副管理職から連絡が入ることになっています。今日は母が入所している介護施設を引越しする日で、家内とその手伝いをしてきました。母がいる施設は自立型の施設で、自分で何事も出来る人が対象になっています。そんな施設に5年間世話になっていた母でしたが、このところ2回転倒して通院をしていました。まだ見た目では自立型施設でも大丈夫と思っていますが、大事をとって介護型の施設に引越しすることにしたのでした。その介護型の施設は横浜という土地にあっては、かなり珍しい環境にありました。施設の隣が乗馬学校になっていて、馬が嘶く様子が施設の窓から見えるのです。そんな自然豊富な環境が気に入って、この介護型の施設に母はやってきたのでした。私の車で前の施設から次の施設へ引越し荷物を2回運び、何とか母が当面生活できるようにしました。施設長から説明を受け、契約の運びとなりました。午前中から引越しをやっていて、全て終わったのが午後3時過ぎでした。それから駅前駐車場に車を留めて、家内と東京の美術館に行くことにしました。師匠の池田宗弘先生が彫刻作品を出している「自由美術展」に、六本木の国立新美術館が閉館する1時間前に飛び込みました。池田先生から毎年招待状をいただいていて、私たち2人で見に行ける機会が今日以外にないと決行したのでしたが、無理を承知で出かけて良かったと思いました。展覧会場から池田先生に電話をしました。長野県に一人で暮らしている師匠が、私は時折心配になるのですが、元気な声が返ってきて安心しました。先生は真鍮直付けという技法で宗教的なテーマを彫刻している人で、最近は悪魔シリーズとでも呼ぶべきか、人物と幻想的な悪魔が対峙する場面を作っています。この詳しい感想は後日改めたいと思いますが、作品を見る限り心身ともに健康なのかなぁと思ってしまいます。美術館が閉館になったので、電車で横浜に帰ってきました。車を駅前駐車場から出して自宅に戻りました。せっかく職場を休んだのに今日は多忙な一日になってしまいました。

HPに18’RECORD7月~9月をアップ

先日、ホームページに2018年のRECORD4月から6月分の3ヶ月をアップしたばかりですが、今回は7月から9月分をアップしました。RECORDは一日1点ずつポストカード大の平面作品を作っている総称を言っていて、自分にとっては日々創作しているRECORD(記録)なのです。既に12年目を迎えていますが、今回アップした後の1年間分を先日撮影したばかりなので、実は次の2018年の10月から2019年の9月までのRECORDが控えているのです。最初の頃はRECORDを気楽に考えていましたが、日を追ううちにグレードアップを志向するようになって、行きつ戻りつしながら試行錯誤を繰り返し、RECORDは今も発展途上にあると自覚しています。RECORD用紙は1mm厚のイラストボードをポストカード大にカットして使っています。表面は白ケント紙になったものを購入していますが、三段の棚にぎっしり詰めていたRECORD用紙も、月日が経つにつれ、残りが少なくなってきました。そろそろ補充を考えていて、購入した用紙を職場の電動カッターで切断して、再び三段の棚に詰め込んでいる最中です。また完成したRECORDは3ヶ月ごとにケースに入れて工房の棚で保管していますが、ケースも足りなくなってきています。過去のRECORDを見ると、当時の思いが甦ります。私の性格かもしれませんが、どんなに小さな作品でも気軽に作れたことなど一度もなく、陶彫作品と同じで毎回全力投球しているなぁと振り返っています。毎晩食卓で作っているRECORDを厳しいものにしているのは自分自身なのです。だから思い出が甦るのでしょう。今回アップした2018年の7月から9月分までのRECORDをご覧になっていただけるのなら、私のホームページの左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉にRECORDの表示が出てきますので、そこをクリックすれば今回アップした画像を見ることが出来ます。ご高覧いただけると幸いです。