20’創作活動の再始動

「創作活動の再始動」なんて大袈裟なタイトルをつけましたが、大晦日まで連日陶彫制作に明け暮れていて、元旦だけ陶彫制作を休んで今日からまた始めたので、再始動と言っても休んでいる感じはしません。仕事の閉庁日が続いている間は継続的に創作活動に勤しんでいて、毎日のように陶土に触れています。それでも新年になり、そのけじめとして2020年の制作は今日から始めるという宣言をしたいと思います。その宣言が故に「再始動」なのです。ともあれ今年も7月に個展を開催するため、現在は個展で発表する新作を一所懸命作っています。しかし私にとって個展がゴールではなく創作活動の途中経過に過ぎません。未だゴールは私には見えません。どこに向っていくのかも考えが至らず、造形思索のキャリアを積むだけという意識が強いのかなと思っています。生涯を賭けて作り続けた後にどんな景色が見えるのか、それを見てみたい願望のようなものも実はあります。詩人の故黒田三郎の詩に「苦業」という作品があります。暗く険しい螺旋階段を只管上っていくうちに、きっと水平線が見えるはずだという内容で、ずっと私の心に残っているコトバです。今日は朝9時から夕方4時までの7時間を作業に費やしました。恒例の箱根駅伝をラジオ中継で聞きながら、成形やら彫り込み加飾をやっていました。私にとって創作活動の日常は、水平線を見るために螺旋階段を坦々と上っていくことだし、駅伝じゃないけれども私も長距離ランナーみたいなものだと認識しました。焦らず休まずブレることもなく継続していくことが自分のやり方で、今年もその流儀でやっていこうと思います。二足の草鞋生活を続けていく上でのシステマティックな日常は、無駄がない分メンタル的には救われているような気がしています。ウィークディは公務員管理職、週末は彫刻家という二兎を追う身では、余計なことを考える余地がないのです。他分野の波を被ることがないと言ってもいいと思います。家内は私の今の生活を創作充電期間と言っていました。ギャラリーで発表していたとしても、それ以上でもなく以下でもない生活。それを家内は充電と言っていますが、自分も螺旋階段を上がっている身をイメージしているので充電を自覚しているのかもしれません。2020年はこのモチベーションを維持していけそうです。

2020年 年始にあたって…

2020年になりました。新春のお慶びを申し上げます。今年もよろしくお願いいたします。2020年は今まで報道されているように東京オリンピック・パラリンピックが開催される年です。昨年のラグビー・ワールドカップも熱狂させていただきましたが、オリ・パラでもきっと幾つもの筋書きのないドラマが見られるでしょう。心より楽しみにして開催の夏を待ちたいと思います。2020年は自分にとってどんな年になるのか、創作活動でも新たな希望が湧いてきます。私はまだ公務員管理職と彫刻家の二足の草鞋生活を続けていけそうで、日常生活に大きな変化はないものの、2021年3月が退職の年になるので心の準備だけはしておこうと思います。さて、我が家の元旦は、裏山の小さな稲荷の祠や実家にある古井戸に小さく刻んだ餅と油揚げを供物として捧げることから始まります。祠は自宅と母の実家の間にある雑木林の中に鎮座しています。何代か前の私の先祖が、廃棄してあった稲荷を拾ってきて祠を作ったことで、相原の家は栄えたのだと亡き祖母が言っていました。当時、我が家は半農半商だったようで、商いとして祖父は大工の棟梁をやっていました。父は造園業に転じ、羽振りがよい時期もありました。私の代になっても元旦くらいは先祖に従い、氏神となった小さな祠を大切にしていこうと思っています。昼頃は毎年恒例になっている東京赤坂の豊川稲荷に出かけました。母の息災延命と家内と私の芸道精進を祈願して護摩を焚いてもらいました。小さなお札も購入して祠に入れておく予定です。今日くらいは陶彫の作業を休もうと思っていたのでしたが、明日の成形準備のために座布団大のタタラを数枚用意しました。1時間程度の作業でしたが、工房の窯にもお供えをして無事に焼成が出来るよう炎の神様にもお願いをしてきました。特定の宗教を持たない私ですが、祈りの気持ちは常に持っています。現在やっている私の仕事が自然の理に叶っているのかどうかを、私は気にするタイプです。そこに理屈はありませんが、依怙地になって無理をしているとしっぺ返しがくると、幼い頃から固く信じている節があります。何よりも自分が居心地の良い場所で思い切り仕事をするのがベストと思っているのです。今年もHP&NOTE(ブログ)も合わせて、よろしくお願い致します。

2019年HP&NOTE総括

2019年の大晦日を迎えました。まず今年の総括を行う前に、今月を振り返ってみたいと思います。新作の陶彫制作ですが、床に這う根の部分は19点が出来上がり、今は屏風に接合する陶彫部品を作っている最中です。屏風に接合する部品は現在12点の成形や彫り込み加飾が終わっています。一日1点ずつ作っているRECORDは、下書きばかりが先行する悪癖が出てしまい、仕上げは来年に持ち越します。二足の草鞋生活のもうひとつの顔である公務員管理職として今年は職場が変わり、新しい仲間たちと一緒に仕事をしてきました。9ヶ月が過ぎて大分慣れてきましたが、多少勝手が違うこともあって今だに困ることもあります。来年度は続投の依頼がきましたが、定年になって仕事が創作活動だけになってしまうと一体どうなるのか、そろそろ考え始めなくてはならないと思っています。今月の鑑賞は美術館や画廊に行く暇がなく、映画鑑賞だけになってしまいました。「シュヴァルの理想宮」、「存在のない子供たち」(2本ともシネマジャック&ベティ)を見てきました。私には2本とも刺戟のある優れた映画だったと振り返っています。自宅に関する私事になりますが、築30年になる自宅の雨樋修理や屋根の補修、外壁塗装などをやることになり、大型台風の影響があったため、災害保険の適用を受けました。全額は出してもらえず貯蓄から持ち出しになりましたが、次は内部のリフォームをやっていこうと計画しています。私たち夫婦も断捨離をする時期を迎えたのかなぁと思っています。工房ではロフト拡張工事を行ない、増えてきた彫刻作品の保存を真剣に考えざるを得なくなりました。個展(ギャラリーせいほう)は今年14回目を終わらせたので、作品が増えていくのは仕方がないなぁと思っています。何しろ今年も病気も事故もなく創作活動に邁進出来たことが何よりも幸運だったと思っています。二足の草鞋生活で職場には迷惑をかけないようにしたいと私は思っていて、そのために職場環境を良くしておかないと創作活動もままならなくなります。日頃から職場の人との繋がりや組織を大事にしていきたいと思っています。最後にホームページについて触れておきます。このホームページは私の創作活動の面から情報発信をしているもので、画像は陶彫作品とRECORD作品に限られています。カメラマンと相談しながら画像の構成をしていますが、今後はさらに充実させたいと考えています。NOTE(ブログ)は日々の記録ですが、日記というより展覧会や映画の感想や、書籍から得た知識、作品の進行具合など思いつくまま書いています。拙い文章を読んでくださっている方々に感謝申し上げます。来年もよろしくお願いいたします。皆さまにとって来年が良い年でありますようにお祈りしています。

映画「存在のない子供たち」雑感

先日、常連になっている横浜市中区にあるミニシアターにレバノン映画「存在のない子供たち」を観に行きました。上映が始まると、中東の貧民窟の生活が映し出され、演出ともドキュメントとも言えない凄まじさの中に自分が放り込まれた感覚を持ちました。これは女流監督の独特な手法にあったらしく「弁護士に扮したラバキー(監督)以外は、ほとんどが映画初出演の素人をキャスティングしている。主人公の少年ゼインも、ゼインを助けたエチオピア移民のラヒルも、演じる役柄とよく似た境遇の人々が選ばれた。ラバキーは彼らに、感情を『ありのまま』に出して、自分自身を生きてもらい、彼らが体験する出来事を演出するという手法をとった。」と図録にありました。映画の冒頭で「両親を訴えたい。僕を産んだ罪で」と裁判長の質問に答えた少年ゼイン。彼は人を刺した罪で拘置所に送られていたのでした。そこから彼の壮絶な過去が語られます。両親と兄弟姉妹で暮らしていたゼインは学校へも行かず、路上で自家製のジュースを売っていたり、雑貨店を手伝ったりして一日中働かされていたのでした。妹のサハルだけが彼の心の支えでしたが、親が決めた結婚の犠牲となった妹と別れ、ゼインは家出をします。外ではさらに過激な生活が彼を待っていましたが、万引きやら違法な薬物製造も行い、移民の幼児を抱えたゼインは逞しく生きていました。面倒を見てくれたエチオピア移民のラヒルは不法就労で警察に拘束されて、ラヒルの幼い息子はゼインが仕方なく世話をしていたわけで、物乞いをしながら子供がさらに幼い子供を支える状況が語られていました。やがて妹が死んだことを知らされたゼインは、旧知の妹の夫に傷を負わせてしまいました。その罪のために拘置所にいたゼインは、社会問題を取上げるテレビ番組に電話をして、自分が置かれた現状を知らせます。そこに反響があり、冒頭の裁判所に映像が戻ります。タイトルの「存在のない」とはどういうことか、監督へのインタビューでそれが判明しました。「研究を重ねていく中で、出生届を行う資金が両親に無いため、生まれても正式な証明書類が発行されない赤ん坊が何人もいることが分かった。そういった子供たちは、法的にも社会的にも、『不可視』な存在となってしまう。正式書類が無いが故に、死んでしまう子供たちも沢山いる。その理由の多くは、育児放棄、栄養失調、もしくは単純に病院での治療が受けられないから、というもの。」子供たちは生まれてこなければよかったと言っていて、国の経済政策によって人権までも侵害される現状を、この映画は全編を使って強く主張していると感じました。それを描き出した監督の力量に拍手を送ります。

閉庁日における制作目標

昨日から始まった職場の閉庁日(休庁期間)ですが、改めて制作目標を掲げておきたいと思います。週末である今日も朝から夕方まで陶彫制作に明け暮れました。閉庁日9日間のうち、元旦と従兄弟会を除く7日間で何をどのくらい作るのか、具体的な陶彫部品の個数を挙げていこうと考えました。屏風に接合する陶彫部品は現在のイメージでは22点と思っていて、現時点で10点が成形と彫り込み加飾が終わっています。そのうち焼成まで終わっているのが5点あります。残り12点を閉庁日7日間で作れるのかどうか、こればかりは無理な感じがしますが、それでも制作目標に掲げておこうと思っています。屏風に接合する陶彫部品は床置きよりは小さめですが、手間は変わらず、寧ろ小さい分だけ時間がかかるように感じています。閉庁日7日間は屏風に接合する陶彫制作一辺倒です。寒い日が続き、陶彫部品の乾燥が進まないため、窯入れが出来ず、それは陶彫制作をやっていくには好都合です。今日は昨日準備したタタラを使って2点の成形を行いました。いつものように混合陶土が無くなったので、明日は土練りから始めなければなりません。毎日のように陶土に触れていると手が荒れてきます。ハンドクリームを手放すことが出来ません。陶彫制作に集中していると時間が経つのが早く、あっという間に一日が終わっていきます。日々決めている作業時間の7時間は、気持ちの持続にはちょうどいいのですが、なかなか進まず心は焦るばかりです。かといって時間を延ばすことは精神的に難しいと思っています。今朝の寝起きに屏風の全体イメージがふと頭を過ぎりました。公務員の仕事から次第に解放されていくと、彫刻に心身ともに近づいていき、イメージの更新が頻繁に起こります。私の中にまるで2人の人間が棲んでいて、私を突き動かしているようです。彫刻家の私はあまり冷静ではなく、自分の作品以外は目に入りません。因みに公務員管理職の私はさまざまなことが目について、あまり細かいことに拘っていると職員から疎まれる存在になってしまうのではないかと危惧しています。そのため極めて鷹揚に振舞うように努めているのです。別人格の2人のうち、今はすっかり彫刻家の私になっていて、我が強く専制君主のような精神状態です。他人に危害は加えませんが、彫刻家の私は鼻持ちならない人物に成り下がっているのです。

閉庁日(休庁期間)の始まり

今日から職場は閉庁日(休庁期間)に入ります。私の職場は1月5日まで閉庁するので、休庁期間は合計9日間になり、例年この時期、私は来年夏に発表する陶彫による集合彫刻の制作に没頭しています。これがなければ新作は完成できないと思っています。9日間のうち元旦は作業を休みます。実家にある古井戸や稲荷等に小さく刻んだ餅を捧げて、その後に東京赤坂の豊川稲荷に詣で、護摩を焚いてもらうのが我が家の恒例になっているのです。これは先祖代々続いているもので、母が存命のうちはしっかりやっていこうと思っています。1月3日はこれも恒例になった従妹会があり、東京の洒落たレストランに出かけていきます。この2日間を除いた日程が創作活動に充てられる時間です。何をどの程度まで作れるのか、欲張りたい気持ちも湧いてきますが、限りある時間をどう使うのか、しっかり考えて着実に制作工程を進めていくのが良いと思っています。閉庁日の制作に関わる材料の調達は全て出来ています。正月三が日は材料店も休むので、材料は十分備えておく必要があります。一応目安として朝9時から夕方4時までの7時間を制作時間としますが、美術館や映画鑑賞を取り入れる場合は、イレギュラーな時間帯を設定することもあります。日々の制作目標を決めて、その日のノルマを課していこうと思っています。創作活動は公務員とは違った気疲れもあります。精神面では解放されて快い感覚になりますが、自分を追い込んでいくため、創作に対する動機や思索を自問自答する場面が結構あります。自分との葛藤が齎す入魂の具合次第で、作品の質を高めていけるかどうか、またここを頑張れるかどうかが作品に反映していくと私は考えています。それが創作活動の醍醐味であり、最も辛いことでもあります。初日である今日は朝8時半に工房に行きました。既に成形の終わっている陶彫部品にそれぞれ彫り込み加飾を4点施しました。明日は新たな陶彫部品を成形するため、座布団大のタタラを数枚準備しました。そこまで終わって午後3時半になり、工房を後にしました。いつもより30分早めたのは、今晩は家内を誘って横浜の中区にあるミニシアターに映画を観に行こうと決めていたのでした。上映していたのはレバノン映画の「存在のない子供たち」で、苛烈なまでの中東の貧困と移民の問題を扱ったものでした。主人公ゼインを演じた少年が優れていて、彼の一挙一動に思わず惹き込まれてしまいました。詳しい感想は後日に回しますが、国家としての社会体制をも考えさせるヒューマンドラマであったと感じました。閉庁日初日は充実した一日を過ごしました。明日も頑張ります。

自宅の外装完了&次なるリフォーム計画

今年は工房のロフト拡張工事をやったり、自宅の雨樋修理や屋根の補修、外壁塗装などをやる年回りなのかもしれず、必要に迫られてそれぞれ業者にお願いしてきました。先日、外装等の自宅外周の作業が完了し、点検を済ませたところです。大型台風の影響があったため、災害保険の適用を受けましたが、全額は払ってもらえず、半分以上は貯蓄から持ち出しになりました。築30年ともなれば仕方がないのかなぁと思っていますが、次は内部のリフォームをやっていこうと計画しています。2020年度末に私が再任用満了で現職を退くため、あと残された1年少々で断捨離も合わせてやってしまおうと考えています。30年前の新築時には分からなかったことが、生活をしていくうちに判明し、それをリフォームで補おうと考えているのです。判明したことは30年前に建てた住宅の収納の少なさが原因で、モノが溢れてしまっていることです。収納を増やすことと、さらに断捨離を併行して行なうことによって少しでも快適に暮らせるようにしたいと願っています。今日は内装を担当する女性設計士が自宅にやってきました。収納が出来ずに床に積みあがった衣類や雑貨を横目に、部屋の寸法を測り、収納スペースの確保を一緒に考えました。リフォームで大きく変わるところはダイニングに続く和室を洋室に作り直し、ダイニングと一体化するところです。和室の半分は収納庫になります。キッチンも変えます。食器棚を増やすことで、栃木県益子や茨城県笠間に住む友人陶芸家の貴重な作品が収納できます。2階にある取り付け書棚の追加もお願いしました。私が集めた取りとめのない書籍も溢れていて、床に積み上げている書籍をきっちり整理したいと思っているのです。リフォームは職人が室内に入ってくるため、作業は家内が自宅にいられる時間に限られます。3月以降に始まるリフォームですが、家内の邦楽器演奏に重ならないようにしたいと考えています。とても楽しみですが、暫くは不便を余儀なくされる工事ではないかと察しています。

師匠の温かい助言

先日、ドイツの菓子シュトレンを長野県に住む彫刻家池田宗弘先生に郵送しました。そのお礼を兼ねた電話があったそうで、私が仕事で不在だったため家内が電話を受けました。私とも長電話になる池田先生ですが、私のことを気遣っていただいていることが家内に分かったようで、先生から言づけられた長い伝言を家内から聞きました。それは創作活動に関することで、私の作品を見ている鑑賞者から頑張っているという評価があったとしても、その言葉に左右されて、さらに頑張り通して心身ともに燃え尽きないようにという助言でした。創作活動はもっと自由なものなので、人からの評価で生真面目な私が苦しめられていないか、そこが心配だと先生は言うのです。マイナス評価ではないところが今回の助言の主訴で、作品の質がどうであれ温かい助言をいただいたものと私は理解しました。今までの14回の個展を見ていて、昔から馴染のある池田先生とギャラリーせいほうの田中さんが私について話し合っているようです。漏れ伝わった話では、アイツはこのままで大丈夫かということになっているようで、先輩たちの関心事に有難い気持ちにもなりました。私にとって父が亡くなって以来、池田先生が父親代わりになっている錯覚を持っていて、それは池田先生にとっても同様で、私を息子のように思ってくれていることが、今回の助言に表れていると感じました。でも私はこう見えても結構クールで人に左右されません。自分で考えを決めている結果として、毎回個展をやらせていただいております。外圧ではなく、内面から迸るものがあるから創作をやめられないのです。でもいつかはイメージが枯渇する時があるのかなぁと不安にもなりますが、イメージの限界はどこにあるのか分からない今は、只管将来を信じて進んでいくかしないと思っています。あと10年先、20年先の自作はどうなっているのか、考えたところで仕方がないので、とりあえず今は来年夏に発表する新作に没頭するだけです。

ほうとう鍋を味わうクリスマス

今日はイエス・キリスト降誕の日であるクリスマスです。キリスト教信者でない者にとっては、西洋の宗教を絡めた洒落たイベントがあるくらいの印象で、ロマンチックなイルミネーションに彩られた街に気分が高揚しています。本来の意味から離れて楽しんでしまう傾向が日本人にはあって、どなたかが「雑種文化」と称していました。確かに日本には世界各地の食が集まっていて、さながら首都圏は雑種文化都市とも言えそうです。私の職場では私が全職員に料理を振る舞う「大鍋コミュニケーション」をやりました。作ったのは山梨県のほうとう鍋で、昨晩は近隣のスーパーマーケットに材料の買い出しに出かけました。最近はほうとうの麺を売っている店もあって、かぼちゃが入った温まる汁物を提供させていただきました。私は転勤する時に、大きな寸胴鍋を持っていきます。全職員が仲良くなるために同じ鍋を囲むというのが、私の経営スタイルのひとつです。もう何年も前から「大鍋コミュニケーション」をやっているので既に定番になっています。作る時に手伝ってくれる職員がいないと時間内に調理するのは難しいのですが、どこの職場でも快く手伝ってくれる人がいて助かっています。キリスト教文化の中でもパンやワインを皆で分けて神に感謝を述べつつ食事する場面があります。宗教とは無関係でも皆がひとつのものを分けて食事する機会は、人と人との関わりの中で大切なものだろうと思っています。私自身の創作的料理の楽しみも「大鍋コミュニケーション」にはあって、職員にとっては私の趣味の押し付けかもしれないと思っているところです。

令和初の年賀状の宛名印刷

昨年のNOTE(ブログ)を見ると、この時期に年賀状の宛名印刷をしていたことが分かりました。今年もNOTE(ブログ)に宛名印刷した日を記録しておこうと思います。年賀状は今月のRECORDから絵柄をとりました。テーマとしている円環にネズミがちょこんと座っているデザインを採用しました。葉書の周囲の模様は郵便局発行のパターン集で決めて、厚手の葉書に260枚の印刷をお願いしました。今年は可愛らしいものに仕上がったと自負しています。今晩宛名印刷をしたので、元旦には年賀状が届かず、例年の如く正月三が日の間にはお手元に年賀状が届くのではないかと思っています。年賀状は年々投函する人が減っているというニュースを聞きました。ネットで済ませる人が増えているのかもしれません。ところが私は年賀状支持派です。面倒なことは重々承知で、師走の多忙な時期に大変なことだと思っていますが、年賀状はご無沙汰している人に挨拶を交わす絶好の機会と捉えています。年賀状であればどんなに会わない人でも、どうしているのか問うことは怪しいことではありません。私の場合は7月に個展の案内状発送、8月に個展に来ていただいた方々にお礼状発送があって、この年賀状との3点セットになっていて、比較的にマメに葉書を出しているのではないかと思っているのですが、いかがでしょうか。そういう意味で夏の個展には本当に久しぶりな方がお見えになってくれて感激することもあります。人と人とが繋がるアイテムとして年賀状の価値は十分あると考えています。

「火と水による演能」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の4「火と水による演能」についてのまとめを行います。この章は「茶の湯」についての考察です。「茶の湯」について私は書籍による概略しか知りません。家内は裏千家に通じていた叔母によって、幾度か茶会に呼ばれたことがあるのですが、私にはそんな機会がなく、知識に頼って「茶の湯」のイメージを持っているだけです。千利休によって独特な文化形成をした「茶の湯」は、そもそもどんな起源があったのか、改めて本書から紐解いてみようと思います。「修験道は山にこもり、即身成仏して生まれ清まることを念ずる山獄宗教である。酒は蔵にこもり醸成して新たに人びとを恍惚に誘う霊水となり、神と人をつなぎ神事と芸能をわたす橋となる。そしてその本質は火と水である。茶も酒に似て、古く日本に伝えられて以来、聖と俗、貴人と町衆をつなぐ役目を果たしてきた。異国から伝えられた貴族間の喫茶の風習や禅院での施茶や茶礼にかわり、中途にはバサラ大名たちの闘茶の無礼講を展開したが、ついには賓主の交わりという精神性と喫茶団らんの娯楽性をあわせもつ草庵の茶を案出した。~略~遊芸として成立した草庵の茶の湯=わび茶は、こうして市中にうつされた山居にこもって主客が相対して、古来の神祀りの儀礼をなぞりながら茶を点て、茶を喫する芸能である。」茶の湯も神霊や祖霊を祀ったところに起因している芸能であることを知りました。次に太陽と月の関係から茶の湯を述べた文章に目が留まりました。「月は太陽の伴侶であるが、太陽が昼や夏を支配するのに対して月は夜の女王であった。月の叡智は、思弁的・抽象的精神という父権的性格を有していないが、そこには柔らかで眩しくない光があって、運命と共に生きる現実性がある。幻想ではなく、現実を愛し、死をこえて新たな転生と生命誕生へと導く力をもっている。~略~そして火と水によって演じられる太陽と月との聖なる結婚を待ち、再生の奇蹟の完成を祝うことに古代祭祀の時間が、また空間があったとすれば、それは茶の湯の時空を最もよく解説してくれるように思われるのである。」最後に茶の湯の芸術性に触れた文章でこの章をまとめます。「いわば日常茶飯の道具をとりあわせて茶を飲むことにすぎない茶の湯が高度な芸術性を獲得しうるためには、かえって茶室が最も簡素な庶民の住宅をかたどることがふさわしかったように、道具もそれ自身が自律性をもった芸術品であるよりは、あくまで素朴な品々をとりあわせること、そしてそれらを何かに見たてることが必要であった。」

週末 作業没頭の9時間

今日も昨日に続いて朝から工房にいました。今日は基礎デッサンを学ぶ若いスタッフも来ていました。相変わらず寒い一日で、ストーブで暖を取りながら作業に勤しんでいました。制作サイクルの中で昨日出来なかった工程を、今日は網羅していこうと意気込んでいて、成形2点、彫り込み加飾の仕上げ、乾燥した陶彫部品のヤスリがけと化粧掛け6点をやっていました。作業時間は通算9時間になりました。途中若いスタッフを車で送り、それから2時間あまり作業に没頭したことで疲労はピークに達しました。新作の佳境はまだこれからですが、今週末はその前段階のような按配になりました。今月末にある休庁期間で何をやるべきか見通しは立っていて、そこまで制作工程を進めておくのが今週末だったわけです。来週から休庁期間が始まります。休庁期間中は制作を優先するため窯を焚きません。そのため今週はどうしても2回の焼成が必要で、大小取り混ぜて陶彫部品を3点ずつ窯に入れるために計6点の仕上げを強行したのでした。おかげで手はガサガサになり、ハンドクリームが欠かせない季節になったなぁと思います。昨日は彫刻についての思索をぼんやり思い巡らす時間がありましたが、今日は作業一辺倒で、何かを考える余裕はありませんでした。夜になって制作にキリがついた時、工房の周囲は真っ暗になっていました。うぅ、腰や肩が痛いなぁと思いつつ、自宅に戻りました。明日からもう一つの仕事が待っています。なかなか手強い日常ですが、生きている価値は十分に感じています。

週末 寒さの中での陶彫制作

週末になって朝から工房に出かけました。ストーブを点けましたが、工房は相変わらず寒くて手が悴むようでした。とりわけ陶彫制作は水を使うために冬は厳しいなぁと思います。陶土を土錬機で混ぜ合わせ、明日の成形のために座布団大のタタラを数枚用意しました。次に成形が終わっている陶彫部品に彫り込み加飾を2点施しました。さらに時間が許せば、乾燥した陶彫部品にヤスリをかけて化粧掛けを行なうつもりでしたが、朝9時から始めた作業も午後4時になり、集中力が切れてきたところで作業を終了しました。化粧掛けは明日に回します。制作サイクルを回しながら、いろいろなことが頭を過ぎります。昼ごろ暫し休憩している時に、ふと浮かんだことがありました。私が作っている彫刻は実材を使っているため、実体を伴う空間があり、言うなれば即物的です。絵画や映像のように幻想を提示することが出来ません。そこに曖昧なものはなく、実体が存在するか否かという状況があるだけです。石は石であり、木は木であるという「モノ派」的な表現は、実体があるからこそ成り立ちます。私の作品も土を焼いたものとして考えれば、あるいは素材を全面に出す「モノ派」的な捉えもあるかなぁと思っています。ただし、私は「モノ派」ではなく、実体が纏う空気によって実体ではない何かを表現したいと考えているのです。実体ではない何か、これは従来の具象彫刻と何も変わるものではなく、塑造した原型をブロンズに置き換えて保存可能にした彫刻は、全て実体ではない何かを表現しています。それら彫刻に対し、人は石や木やブロンズという素材は見ず、それが人物だったり動物だったりして、つまりその形象に感情を投影してしまうのです。現代になって何も語らせない実材を実材として扱ったところに「モノ派」の新鮮な驚きがあったはずです。そこで私は「形象派」から「モノ派」へ移行する曖昧な境界に、自作を置いているのではないかと思ったのです。さて、暫しの休憩の合間に、曖昧な境界というフレーズが出てきて、私は当惑してしまいました。これをぐずぐず考えていると、制作時間がなくなってしまうので、すぐに作業に戻りましたが、改めてこんな取りとめのないことも別の機会に考えてみたいなぁと思いました。今日は寒さが内向的に働いてこんな考えが出てきたのだと思います。

「芸術空間としての曲輪」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の3「芸術空間としての曲輪」についてのまとめを行います。この章は能や歌舞伎の発生から、それら芸能が齎した意義までを述べていて、能や歌舞伎に対してあまり造詣の深くない自分には、改めて学ぶところが大きかったと思っています。山中に入り、そこで祖霊や神霊と交わることで修験道を極めた山伏が、日本独自の芸能の興りを促したと考えて間違えなさそうで、私は興味を抱きつつ、こんな文章に気を留めました。「山が祭祀空間であり、演劇空間でありうるためには、そこが同時に生活空間でなければならない。先にふれたことだが、これらの山ふところに入り修行する山伏は、山中の生活にくわしく、間道をよく知っていて情報集めや伝達に敏であったと同時に、武器製造にも長じていて、中世動乱期に武士階級と結んで軍事生活を援けたことは周知のことである。~略~こうした歩きの集団、つまり鉱山業に従う技術者集団や漁撈民と砂金採集者、諸国を遊行する宗教者たち、そして地方の武士階級、これらの結びつきこそが、能や歌舞伎を大成した原動力であった。例えば能は、山伏の祭儀を軸に、さまざまな音曲をたずさえ白拍子をも含めて地方の武士階級によりつく猿楽師たちの出あいであった。~略~歌舞伎は、出雲大社の巫女であった阿国が、社殿修復のための勧進に遊行したのがその始まりとされている。」古い時代に祖霊や神霊との結びつきが能や歌舞伎の土台にあったことが分かりました。江戸時代になり定住の生活を送るようになった庶民社会は、公的街道が整備され、また階級組織による社会が確立されてきて、歩きの生活者がもっていた武術や芸能も家元等の統制をされるようになったようです。「神の通い路としての道に代わって、地上の権力が道を支配するとき、やがて曲輪を孤立させ、その閉鎖的な性格が顕著になっていく。そして隔離された曲輪は、遊里に代表されるように、裏街道や私的な通路によってひそかにつながれて、そこからかつての道に代わる『通』の観念が生まれ幅をきかせるようになった。」さて、近代になって日本の芸能はどうなっていくのか、こんな文章もありました。「近代が招いた神の喪失は、西欧においてリアリズム演劇が主流となり、また一方ではバロックやロココを経て世紀末の装飾芸術へとつながっていくが、日本の芸能も鎖国政策が一層の拍車をかけて、遊興の里に頽廃の美を競う。そしてそこに通う人びとは全体より部分に興味をつのらせ、死と再生の祈りにつながった演能とは無関係な、より現世の感覚に対する刺戟を求めていく。」

創作を最優先に考える理由

12月になってウィークディの仕事が立て込んでいます。師走とはよく言ったもので、昼間の仕事をやっていると精神的な疲労が重なり、慌ただしい毎日を過ごしていると実感しています。帰宅後にやっているRECORDやNOTE(ブログ)が滞ることもあります。夕食後に居間で寛いでいると、このまま眠ってしまいたくなる誘惑に駆られ、飼い猫トラ吉の幸せそうな寝姿をみていると羨ましくもなります。それでも創作活動をやらねばならないと自分に言い聞かせて、いざRECORD用紙を取り出してみるのですが、鉛筆を持ちながらうつらうつらしています。昼間の仕事は自分の事情とは関係なく否応なしにやってきて、組織的に取り組む事案が数多くあるため、優先順位としては当然の如く一番なのです。それも一難去ってまた一難の繰り返しです。それを良しとして私は今も再任用管理職をやっているわけで、そこに言い訳はしませんが、私の中だけでも創作活動を最優先にしておかなければ、社会的にニーズのない創作活動をやらなくなってしまう恐れがあるのも事実です。そうなれば昼間の仕事を退いた時に、きっと後悔するだろうと私には分かっているのですが…。20代の若い頃からやりたいと願っていた創作活動は、現在は工房も完備し、発表の場として東京銀座の画廊が個展を企画していただいている環境があります。それを日常の慌ただしさのせいにして簡単に手放すわけにはいかないのです。創作を最優先に考える理由は、とても明確で、それが私を突き動かしている要因なのです。充分自分は分かっていながら、毎晩睡魔に勝てない甘さがあって、少しずつ積みあがっていくRECORDの下書きを見ながら、何とかしたいと焦っているこの頃なのです。今日はグチを呟いてしまいました。

師匠の絵による「人生の選択」

昨日、長野県の山里に住む師匠の池田宗弘先生から一冊の絵本が送られてきました。「人生の選択 デーケン少年のナチへの抵抗」というタイトルがつけられた絵本で、これは明らかに子供向けではなく、大人を対象とする絵本でした。ナチスドイツが台頭した時代を生きた神父アルフォンス・デーケンの実話を基に、本書は堀妙子・文、池田宗弘・画で作られ、藤原書店から発行されたものでした。デーケン氏は1932年ドイツ生まれで、上智大学で死生学を教えていた経歴を持っています。「わたしのライフワークは人びとに、生きるとは何か、死とは何かを伝えることでした。死を考える出発点になったのは、4歳の妹パウラの死でした。さらに、戦争の時、焼夷弾で亡くなった友人一家の不条理な死、同時期に、わたし自身も連合軍の飛行機から機銃掃射で狙われ、間一髪で命拾いをした経験もあります。常に死は、身近にありました。わたしは、肉体の死より恐ろしいと思った体験があります。それはナチのエリート養成学校に行くことを断った時です。この学校に入ることは精神的な死を意味していました。真理は、熱狂する民衆の中にはありません。もし、入学していたら、わたしの命はなかったでしょう。戦後、ナチのエリートたちは皆、殺されましたから。その後、わたしは自分が司祭への道を歩みたいと決心した時、日本26聖人殉教者、ルドビコ茨木の影響を受けました。本格的に司祭の道を志した時に、聖フランシスコ・ザビエルの書簡を読み、宣教師になって日本に派遣されるようにと願いました。わたしはザビエルと同じイエズス会に入会しました。」これは絵本の最後に書かれていたデーケン氏の言葉です。絵本は天使ガブリエルが、神から啓示を受け、猫に変身して少年デーケンのもとに使わされるところから始まります。池田先生にしてみれば、彫刻のモチーフのひとつである猫とキリスト教が本書の主題であり、最も得意とする分野だったはずで、楽しんで描いていた様子が伝わってきました。丹念に丁寧に描かれた絵画の背景ひとつ一つに思いが込められていました。

ヨーロッパを懐かしむシュトレン

この時期になると、神奈川県川崎にある菓子店「マリアツェル」に出かけます。20代の頃、オーストリアのウィーンに暮らしていた自分は、日本人パティシエと仲良くなり、よく遊んでいました。彼は菓子修行でホテルに勤務、私は美術学校の学生だったため、よく私に食事を振舞ってくれました。当時私は収入があった彼を羨ましく思っていました。12月になるとウィーンの店ではシュトレンを売っていました。シュトレンはドイツ語で「坑道」という意味です。文字通りトンネル状をした菓子パンを指しますが、自分がウィーンから帰ってきた30数年前は、日本でのシュトレンの知名度はありませんでした。ドイツ語圏の国々ではクリスマスの時期になるとシュトレンを売り出すベーカリーが増えて、この季節の保存食として楽しんでいます。シュトレンはドイツのドレスデン発祥と言われていますが、1329年ナウムブルグの司祭へのクリスマスの贈り物が最古の記録としてあるようです。イエスのお包みにカタチを似せていることで、キリスト教絡みの行事にも使われています。ヨーロッパ以来の知り合いであるパティシエが経営する「マリアツェル」で、シュトレンをまとめて購入するのが、我が家の恒例行事になっていて、今年も多量に頂いてきました。彼が作るドイツ系菓子やシュトレンはヨーロッパに出回るものと比べても遜色はありません。寧ろ日本人に合った趣向を凝らせているので、シュトレンの美味しさは抜群です。ドライフルーツ等の材料を海外から仕入れていて、これで収益があるのかどうか疑わしいのですが、あまり商売に肩入れしない彼は、材料に比べて安価で菓子を売っているのです。それでも「マリアツェル」を始めた頃は、多忙を極めていて、本場ヨーロッパ仕込みの菓子は飛ぶように売れたようです。今年大量に仕入れてきたシュトレンは、長野県に住む彫刻家の師匠や山形県に住む画家の先輩、親戚の学者や声楽家に送っています。ヨーロッパに関わりがある人であれば懐かしさでいっぱいになるはずです。

映画「シュヴァルの理想宮」雑感

先日、横浜市中区にあるミニシアターに「シュヴァルの理想宮」を観に行きました。私自身は深い感銘を受けて、主人公が後半生を費やした宮殿作りのことが頭から離れずにいます。人は何を生きがいにしていくのか、この映画は武骨で不器用な主人公が生涯をかけて幸福を掴んだ話として私は理解しています。図録に「ひたすら頑固に信念を貫く夫と周囲の人々との間に生じる軋轢の中で、それでも彼を見放さず生涯にわたってそばで見守り支えた妻」という一文がありました。主人公のみならず、その妻の夫への接し方にも私は感銘を受けました。また主演インタビューの中に「彼は無欲で、誰かを魅了するためでもなく、そして一瞬たりとも疑いを持つこともなく、長い間宮殿の建設に身を捧げたんです。」というコトバもありました。これは映画として見れば、愛娘のために、そして妻に支えられ、郵便配達員をしながら、たった一人で巨大な宮殿を作り上げた男の家族愛の物語になるわけですが、昨日もNOTE(ブログ)に書いた通り、シュヴァルの創作活動への情熱はどこからくるのか、私の頭を離れない理由はそこにあります。作り上げた結果より、苦しみながら作っていく制作過程において、彼は幸福だったのではないかと私は思うところですが、いかがでしょうか。最後に現在フランスの観光スポットになっている「シュヴァルの理想宮」についてのインフォメーションを掲載しておきます。「シュヴァルの理想宮は、郵便配達員のジョセフ=フェルディナン・シュヴァル(1836-1924)がたった一人で石を拾い集め、すべて手作業で築き上げた、フランス南東部ドローム県のオートリーヴ村に現存する理想宮。1879年から1912年の33年間、9万3000時間を費やし完成した。スケールは東西26m、北14m、南12m、高さ8~10m。古今東西の様々な建築様式やモチーフが混在し、雑誌や絵葉書を情報源に空想癖の強いシュヴァルが思い描いた夢想が表現されている。」理想宮は芸術家ピカソやシュルレアリスムの旗手ブルトンらが高い評価をしたようで、2017年の調査では年間17万5000人が訪れているそうです。P・コンスタンという専属の修復家もいて、彼はまるでシュヴァルのような人物だと図録にありました。一度は訪れてみたい造形建造物かなぁと思っています。

週末 創作活動の動機を問う

今日は朝から工房に篭り、制作三昧の一日を過ごしました。昨日作っておいたタタラを使って、屏風に接合する陶彫部品2点を成形しました。昼ごろに近隣のスポーツ施設に行って水泳をしてきましたが、それ以外はずっと陶土と格闘していました。自分にとっては幸福な時間と言えます。集中力が高まっている間は何も考えませんが、暫し休憩をした時には昨晩観た映画「シュヴァルの理想宮」を思い出していました。不器用で頑固一徹な郵便配達員が生まれてきた娘のために、たった一人で宮殿を立てる実話でしたが、愛娘の喜ぶ顔が見たいという動機で、とんでもないことを始めたのでした。やがて娘を失い、最後まで理解を示してくれた妻をも失いますが、彼はそれでも宮殿作りを止めようとしませんでした。33年間、彼の後半生は宮殿作りに費やした人生だったのです。彼にとって宮殿作りとは何だったのか、彼の死後、理想宮はフランスの文化財に指定されましたが、そんな名誉が欲しくて彼が作り続けていたとは思えず、映画では童心のように只管作っていた印象が残りました。制作動機が娘に捧げるためであれば、とっくに制作を放棄していたはずです。それでは何故、どんな理由で人は創作活動を続けていくのでしょうか。自己満足のため?それも考えられるでしょう。自己表現が作品としてカタチを成す以上、必ず見てくれる人がいるという想定があり、自分のことを人が理解し、共感してくれることを期待するものと私は思っています。私の場合は一番身近な批評家は家内です。工房に出入りしているスタッフたちも協力者であり、私を常に観察している人たちです。一年1回個展を企画していただいているギャラリーせいほうの田中さんや個展を訪れてくれる人たちにも私は支えられています。それが動機なのかと問えば、本当にそうなのか、自分には分かりません。分かっていることは制作している時間に幸福を感じることです。地獄の苦しみを味わおうが、有頂天になろうが、陶土と格闘している自分は何かを得たいと足掻いています。その途中経過が不安定で不満足であっても、それが愛おしく感じられるのが創作活動の実感です。どんな理由で人は創作活動を続けていくのか、動機となるものは分かりませんが、魂の在り処が分からないのと同じで、不可思議な魔物に惹かれていくとしか答えようがないと思っています。

週末 陶彫加飾&映画鑑賞

やっと週末になりました。今週末は2日間とも丸々陶彫制作に充てられます。今日は朝から若いスタッフが基礎デッサンを描きに工房に来ていました。彼女はまだ高校生ですが、毎週工房にやってきて美大受験用のデッサンをやっています。コツコツと取り組む姿勢がいいなぁと思っていて、私も頑張らなければと背中を押されるような思いに駆られます。受験生と共に私も地道な努力こそ大事と思える時間を過ごしました。私の今日の作業は、屏風に接合する陶彫部品の彫り込み加飾を2点やることでした。それが終われば、乾燥している別の陶彫部品にヤスリをかけ、さらに化粧掛けを施す予定でしたが、彫り込み加飾に結構時間がかかってしまい、今日は夕方までやっていても彫り込み加飾だけで精一杯な状態でした。明日の新たな成形のためにタタラを数枚準備して今日の作業を終わりました。夕方スタッフを車で送った後、久しぶりに横浜の下町にあるミニシアターに出かけました。家内が邦楽器の演奏があるために、今晩は私一人で出かけました。観た映画は「シュヴァルの理想宮」というフランス映画でした。19世紀末に郵便配達員が愛娘のために33年間を費やして、たった一人で宮殿を築き上げた物語ですが、実在の題材を取り扱っているため、歴史的建造物に指定されている実物の理想宮を撮影に使っていました。建築や土木などを学んだことがない郵便配達員が、配達をしている途中で拾った石を貯めこんで、たった一人で打ち込んだ巨大で奇妙な宮殿。シュヴァルは昼間は郵便配達の仕事に従事していて、夜になるとモルタルをこね、石を組み合わせる作業に没頭するのです。まさに私と同じ二足の草鞋生活。しかも宮殿作りは創作行為です。この映画を知った時から、私は自分と同じ境遇かもしれないと勝手に想像して、何としてもこれを観たかったので、今日はその願いが叶いました。おかげで映像の世界に食い入るように心が吸い取られていくのを感じました。詳しい感想は後日に回します。今日は午前中は自ら陶土と対話した実際の創作活動、午後は映画の中で創作活動をした気分になれた満足感で、本当に充実していました。実際の創作活動は明日も継続です。

「日本美術に流れるアニミズム」について

先日から「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)を読んでいます。本書の1「日本美術に流れるアニミズム」についてのまとめを行います。本章では、縄文時代の土器から江戸時代の絵師伊藤若冲と葛飾北斎に至るまでのアニミズムの際立つ特徴的な作品を取り上げ、日本美術の独自性を浮き彫りにしていました。あらゆるものに神仏が宿ると祖父母に教えられてきた私は、我が家での身近な風習を思い出し、実家の裏山に鎮座する稲荷の祠を蔑ろにすると罰が当たると信じていたのでした。地元の神社の周囲にある巨木にも何かが棲息していると子供心に思っていたことが、アニミズムへの憧憬とも感じられて、本書に書かれた内容に共感を覚えました。「古い巨きな樹に、人々は神が宿ると信じ、神木として崇めてきた。仏教が入って来てからそうした聖なる樹に仏が化現するようになる。神と仏との融合である。山中で修行する修験僧は、樹木に仏の姿が化現するのをまのあたりにすることができた。かれらはその姿を生きたままの樹木に彫り付けた。いわゆる立木仏である。」また、実家で使い古した食器にも不思議な謂れがありました。「『つくも神』は人間や他のものの霊が器物にとりついたのではなく、古くなった器物がそのまま精霊に化したものである。それは日本人のアニミスティックな心性の端的なあかしにほかならない。15、6世紀の絵巻にいきいきと描かれたこれら器物の妖怪のイメージは、中世人のアニミスティックな心を映し出す鏡といえるのである。」解説はさらに伊藤若冲や葛飾北斎に及んで、私はこんな文章に注目しました。「日本の美術に見る動物たちが、可愛らしく擬人化されているのは、日本人が自分たちとかれら動物たちとの間にはっきりした境界を設けないことに関係する。日本美術におけるアニミズムは、自然に対するおそれだけでなく、このような自然への親しみをこめたユーモラスな遊びの表現と結びついている点に大きな特色があるといえよう。~略~日本のアニミズムは、道教や俗信仰を通じて中国のアニミズムの影響を絶えず受けながら、縄文以来一万年をうわまわる年月を生き延びてきた根強い文化伝統として現在にもまだ生きている。」そういうことならば現代美術にも脈々と流れるアニミズムがあるはずで、コトバで説明できない空気感かもしれず、私たちの生育歴から齎されるモノとも考えられます。最近のゆるきゃらにしても、おたく系のアニメ動画にしても、私は日本人としての独自性が発揮された表現と言えるのではないかと思っています。そこにちょっぴり不気味な要素が漂うと、まさにモノノケとの境界を設けない私たちの専売特許で、そこが外国人にウケるところかもしれないと思ったりしています。

「あそぶ神仏」を読み始める

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)を鞄に携帯して通勤途中に読んでいる最中ですが、私は昔から複数の書籍をあちらこちらと読み散らかしてしまう読書癖があります。興味の対象が目移りしてしまい、結果として書棚に書籍をため込んでいく傾向があるのです。今も自宅の書棚に未読の書籍がいっぱいあります。昨今では、デジタル書籍やネット映像が主流を占めて、そもそも読書から離れていく世代が目立っていると思われます。それでも私は若い頃から紙媒体による書籍が大好きで、頁を括っていく手触りに安らぎを感じてしまうのです。書籍の装丁も好きな要素の一つですが、書籍は知識や表現された世界を鞄に携帯できることが素晴らしいと思っています。私がつい購入してしまう書籍は、専門書から軽妙洒脱なエッセイまでさまざまです。専門分野では芸術はもとより哲学系のものが多いなぁと感じます。よく読んでいるのは、ちょっぴり専門知識の入った評論やエッセイで、それにより自分の興味関心の在処が分かります。私には私なりの傾向があって、また年代によって興味の対象が変わってきています。今日から読み始めた「あそぶ神仏」(辻惟雄著 ちくま学芸文庫)は、江戸時代の宗教美術に視点をおいた書籍で、著者の辻惟雄氏は「奇想の系譜」で知られた我が国屈指の美術史家です。当然私も「奇想の系譜」を読んで、日本美術に対する面白さを開眼させていただいた一人です。若い頃は見向きもしなかった日本美術でしたが、この年齢になって足元に展開する摩訶不思議な美術が、私は大好きになったのでした。「あそぶ神仏」の冒頭に日本独特のアニミズムについての論考がありました。「アニミズムとは、動物、植物、あるいは石や水のような無機物にも、人間にあるのと同じ霊が存在するという思想である。~略~日本人のものの考え方、感じ方、あらわし方のなかに、アニミスティックな特徴が、さまざまなかたちで根強く続いていること、それが日本美術の表現をいきいきと活気づかせる上で無視できない役割を果たしていることを、私の専攻する日本美術史の視点から検証しようとするものである。」この文章によって本書「あそぶ神仏」の面白みが伝わります。読書中の「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」と論考がクロスする箇所があろうかと思います。そうであるならば多角的な論考を併せて考察でき、私の薄っぺらな知識に多少なりとも奥行きを与えてもらえるのではないかと思っております。

第1・第2ステーション焼成完了

今晩の窯出しで新作の床置きになる第1ステーション4点、第2ステーション10点、合計14点の焼成が終わりました。ステーションの陶彫部品に関しては罅割れが少なく、まずまずの出来上がりだったなぁと思っています。第1・第2ステーションはそれぞれ設計通りの造形のため、組み合わせに新鮮な驚きはありません。それでも手間暇かけて作った分、それなりの迫力は感じます。自作の世界観を集合彫刻によって提示したいという意図は、今までも鑑賞者に伝わっていると自負していますが、組み合わせの妙が効果を上げて、寧ろ意図しない面白みが出ることを期待している私は、第1・第2ステーションの存在よりは、ステーション同士や屏風を繋ぐ根の陶彫部品に賭けていくしかないかなぁと思っているところです。昨年も根の陶彫部品を多めに作っておいて組み合わせによる面白みを狙いました。結局余分に作った陶彫部品は使わなかったのですが、それでも良いと考えています。現在は屏風に接合する陶彫部品を作っていますが、ステーション同士を繋ぐ陶彫部品も作らなければならず、意図しない意外性は今後の制作にかかっていると自覚しています。それは予め頭にある設計ではなく、その場凌ぎで思いついた感覚さえも取り入れていく余裕が齎すものではないかと思います。思いつきはさまざまな時や場面で訪れるもので、イメージの遊戯性とも言えるものです。そればかりでは作品は成立しないので、骨格を持ったイメージがまず存在して、その上で退屈なイメージを弄って壊していくような感覚です。構築と破壊の絶妙なバランスが頭の中でぐるぐる巡って、ギリギリに決着するのが最終作品になるのです。こんな発想が出来るようになった自分に多少の進歩を感じますが、それだけに着実性が失われていく危険も同時に感じます。ピカソのように破壊が常に隣り合わせなのは羨ましい限りですが、まだ自分はどうやらイメージの堂々巡りに陥ってしまっているようです。構築よりも破壊は数百倍も困難を極めます。自作の組み合わせによる新鮮な驚きは、鑑賞者ではなく、まず作者である自分が感じたいものなのです。

「三保の羽車」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の2「三保の羽車」についてのまとめを行います。静岡県にある三保の松原を有する海岸線は昔からの景勝地で、2013年に富士山世界文化遺産に登録されています。私は幼い頃に両親に連れられて、三保の松原を見に行った記憶があります。羽衣伝説で天女が羽衣を脱ぎ掛けた松は、柵に囲まれていて羽車磯田祠が立っていました。子どもの頃抱いていた漠然としたロマンが、本書によって伝説から伝承に至る文章で説明されていて興味が湧きました。「出雲の神は縁結びの神である。両性具有の蛇神は男と女、あの世とこの世を結ぶ神である。そして古来の呪術的信仰を、いち早く密教的観音信仰に結びつけた神であった。それは補陀落即ち印度の南の海に浮かぶ聖山の信仰を通してである。熊野からその地をさして船出する補陀落渡海は余りにも有名だが、五来重は、『修験道入門』(角川書店)で日本人のもつこの海上他界の観念にふれて、古来死霊や祖霊の集まる山上を霊場としてそこに修験道が発生したが、それに対して海の彼方にも祖霊が集まる世界(常世)があって、そこから人間界の救済に訪れる精霊を祀る海の修験道があったと書いている。その神霊や祖霊が海上を照らしながら寄りくる御崎の一つが美保の浦である。~略~いまこの美保の関を清水の三保に移して考えるならば、三保の浜辺でこの竜燈を焚くのは大山修験に代わる秋葉修験たちである。」こうしたことに興味が湧くのは、これが私たち日本人の土着から発生したものだからでしょうか。「近年三保の海辺で薪能が催されて、その地に因む『羽衣』が演じられる由だが、日本の芸能の多くは、伝統的に『松ばやし』の芸能であった。松に宿る精霊を松の木と共に迎え、その蘇生をはやし立てることが芸能の本義であった。今日の薪能は光の演出に重点をおいている。しかし本来薪は焼木で、松明は焼木の明かりであって、薪能は焼火の能である。松に宿る精霊の明かり(=出現)の芸能であろう。」最後にこんな一文がありました。「松ばやしの中に生まれた芸能にうたわれる『羽衣』は御崎の小島の松原に休らう弁財天にまつわる物語であったが、時と所に従って物語の筋も内容も変容を重ねていくように、神も仏も精霊もまたさまざまに変容をとげて、漁夫と契りを結ぶ比丘陀はいつしか竜宮に住む乙姫となり、またほのかな紅を白い裸体ににじませ、音曲の女神として江の島に祀られる。」ここから浦島太郎伝説を読み取ることが出来ました。

「『花の時』を巡る」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第2章の1「『花の時』を巡る」についてのまとめを行います。第2章から舞台は日本に移ります。しかも古代から受け継がれる祭りをテーマにしています。副題には「熊野に見るホトの祭り」とあって神話も含めた太古の遺物が登場してきます。初めの文章に「元来、椿は山茶花をさしていたらしい。それは春の始まりをことふれて歩く比丘尼の採物であった。大和や豊後に残る海石榴市の名は、彼女らが椿の枝をたずさえて魂ふりをしたことに由来すると折口信夫は推論する。」とありました。題名にある花の時と由縁のある霊場を訪ねるうち、こんな文章が目に留まりました。「『《日本書紀》にイザナミノミコトが火神を産んだとき、産道が焼けて死んだとある。また一書に、火神を産むとき、熱のためになやんで吐いたが、その吐いたものが金山彦となったとある。こうしてみると、このイザナミの出産の様子は、たたら炉から溶けた金属をとりだすときの光景と似ている。たたら炉の炎の色を見る穴をホド穴という。また鍛冶屋でも炭をくべてカネを焼くところをホド(火処)という。火神を産むときにイザナミがホト(女陰)を焼いて死んだと《古事記》の伝えるのは、これらと関連があるにちがいない』と谷川健一は『青銅の神の足跡』(集英社)で書いている。ホトは陰所であり、火処である。そこはクナドでカマドである。関西では火の神を荒神としいて祀り、そこをおクドさんと呼ぶ。家事では食物を煮たきする所であり、鍛冶では刀剣をきたえつくり出す所である。熊野は中央政権からはなれた陰所であり、難所で距てられた来名戸であったが、そこには山の陰所に住んで砂どりし、また、たたらを踏む鍛冶師の集団があったのだろう。スサノオがオロチを退治したが、オロチは鍛冶師の隠語であるというから、それを退治するのはその集団を支配することであった。」比丘尼に関した文章にも注目しました。「熊野比丘尼はミサキの神をいただいて歩く熊野信仰の尖兵であった。~略~彼女らは小さな神の祠を拝しながら、王子の死に自分たちの飢えに死なせた子供らのことを思い浮かべたり、死後の地獄の世界を思い合わせたであろうし、巨巌を仰いでは世の子らを慈しむ慈母観音を想像していたかも知れない。そして今日の不運や不安が明日の幸せにとって代わられることを祈り歌いながら、またそれを土地の人びとに説いて聞かせたにちがいない。その時花の窟は仏の姿となり、また旅立つ物の無事を祈る道祖の神となり、あるいは山に住むものにとっては来名戸の神として火処の守神となって、世を継いで祀られてきたのであろう。」

週末 屏風接合陶彫の困難

今日は朝から夕方まで工房に篭りました。若いスタッフもやってきて基礎的なデッサンに勤しんでいました。工房内は寒くなってきてストーブを出しましたが、家庭用のストーブは周辺を温めるだけで、工房全体は暖かくなりません。若いスタッフはストーブの近くで作業していて、私はそこからかなり離れた場所で、陶彫制作をしています。そろそろ手が悴む季節になったなぁと思います。現在取り組んでいる陶彫部品は、屏風に接合する比較的小さめのものですが、なかなか成形が難しいところがあって、神経を使います。何回かやり直すと陶土に僅かな皹が入り、土の新鮮さが失われます。陶土は最初の一回で成形を決めなければならないと痛感するところですが、上手くいかない箇所はどうしてもやり直しをしてしまうのです。最終的に叩き板で調子を見ながら表面を叩き、金属ヘラで摩って皺を補いますが、焼成中に割れが生じるのはこんなところが原因かもしれません。成形で誤魔化すことが出来ない箇所は、罅割れを覚悟して、イメージ通りのカタチを優先していきます。陶芸とは異なり、かなり無理なカタチを造形しているために、陶彫は技法に慣れることがありません。何度やっても陶土を上手くコントロールできない自分に嫌気がさしています。午前中は成形に神経を尖らせていたので、昼頃に近隣のスポーツ施設に行ってクールダウンのために水泳をしてきました。午後は成形を継続していたら、いくら休憩を取っても困難さは変わることがないなぁと実感しました。今日は夕方4時には作業を終えました。若いスタッフを車で送りながら、週末はいつも疲れているなぁと溜息をつきました。世の中の雑念を一切忘れられる創作活動は、幸せであると同時に何か別世界の苦しさに襲われて、自分の無力を思い知るのです。己の人間性を推し量るとすれば、ウィークディの仕事は役職上、私は職員の仕事を監督しているために、ともすれば自分の力を過信してしまうような誤解を生みます。そこへいくと創作活動は自分の力の及ばないところがいっぱいあって、自分がちっぽけな存在であることを自覚させられるのです。そんなバランスで私は生きているのかもしれません。

週末 用事の合間の陶彫制作

職場絡みの用事が週末に予定されることが多く、終日陶彫制作を行うことが出来ないことがあります。今日は昼から午後3時くらいまで職場の用事で横浜駅周辺に出かけたので、制作工程のノルマをどう達成しようか考えていました。早朝から工房に籠って、午前中は3時間くらい制作していました。用事が済んだ後、再び工房に行って制作を続行しました。今日は少ない時間の中で何をするべきか、予め決めておいて集中して作業をする気構えでいました。こんなことが日常茶飯にあるので、工房ではのんびり作業することがありません。その結果工房では、ウィークディの勤務より慌ただしい時間を過ごしています。不思議と時間が設定されている方が集中力が増すことがあって、時間がたくさんあればいいというものではないなぁと思いました。私の陶彫制作は工程において、まずタタラを立ち上げるため、タタラがやや硬くなったところで作業をします。成形や彫り込み加飾が終わると、陶土を乾燥させるために相当な時間を使います。最後は窯に入れて焼成を行います。こんなふうに陶彫は作業を休んで暫し待つ時間があるため、職場の用事を組み込むことが出来て、さらに上手に調整を行えば何とかノルマを果たすことも可能なのです。そもそも私が二足の草鞋生活を送ることが出来るのは、陶彫という特異な素材があればこそと思っています。午前と午後に分けた実際の作業はかなり充実しましたが、今日が土曜日であるため、ウィークディの仕事の疲れが残っていて、夜にノルマを達成した後、疲労で身体が動かなくなりました。若い頃は怠け者だったはずの自分が、歳を重ねるごとに勤勉になり、再任用管理職でいる今が一番多忙を極めているなんて、若い頃は誰が想像できたでしょうか。陶彫制作は明日も継続です。休日をゆっくり過ごす発想が近頃の自分にはなくなっています。

「円塔の見える風景」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の5「円塔の見える風景」についてまとめを行います。第1章では著者がケルトについて旅する行程が続いていますが、ここへきて漸くアイルランドに残存する教会や円塔の遺跡が登場しました。私はイギリスを初めとするブリテン諸島に行ったことがなく、欧州の大陸とはやや異なる文化圏に興味を感じています。以前「ブレンダンとケルズの秘密」というアニメ映画を観たことがあります。中世のアイルランドが舞台でしたが、「ケルズの書」を描くために主人公が幻想的な冒険をする物語でした。本書にも「ケルズの書」が登場する箇所があって、私は注目しました。「修道士たちはこのように各地に遍歴を重ねて修道院を建て、また自らの信仰の表現としてすぐれた宗教芸術を生みだしていった。七世紀には福音書写本『ダロウの書』につづいて『リンディスファーン福音書』が作られ、そしてまた八世紀にはアイオナの修道院で手掛けられた後ケルズ修道院で完成されたという豪華な彩飾福音書写本『ケルズの書』が残されたのである。それらが後世、例えばW・ブレイクの芸術やケルト復興を唱えたW・モリスらのラファエル前派に新鮮な魅力としてうけつがれていくが、今日でもその印象はひとしおである。」流麗で不思議な形象をもつ書籍の実物を見たいと願うのは私だけではないと思います。「いうまでもなくヨーロッパはケルトの故郷であり、大まかにとらえれば西欧の文化はローマとケルトの衝突・追跡・破壊・帰郷の歴史を中核として組み立てられているといえるであろうし、アイルランドの修道院や教会の廃墟はそうした歴史を物語る叙事詩である。そして聖地の一角にする屹立する円塔は、それを弾誦する吟遊詩人に見える。この島の風景が訪れる者に一種の哀愁を誘うとすれば、荒涼とした山野や生活の貧しさからくるのではなくて、むしろ深い傷痕をとどめながらも、ケルトの誇りを語りつぐ円塔の姿が映す孤高の精神に触発されるからかも知れない。」

干支によるRECORD

今月のRECORDに年賀状のデザインに使う図柄をアレンジして描くことにしました。テーマとした「円環の風景」の円環の一部にネズミが遊んでいる情景を入れてみました。来年の干支はネズミです。ネズミの描写はあまり得意ではないのですが、今月の1日から今日までの5日間、ネズミの姿態を頑張って描いてみました。以前の蛇年に、これは得意だった蛇の図柄を楽しく描いていたら、家内に拒否反応を起こされて、泣く泣く干支とは関係のないRECORDの図柄を採用したことを思い出します。干支は元々中国伝来の年・月・日・時間や方位、角度、事柄の順序を表すもので、日本では十支でなく、十二支で成り立っています。十二支と動物が結びつけられたのはいつ頃なのか不明ですが、中国の秦代の墓から出土した竹簡には動物が配当されていたそうなので、結構古いのかもしれません。日本の年賀状に登場する動物は、日本独特なものであって、アジアの漢字文化圏の国々ではそれぞれ動物が微妙に異なっています。龍のような架空の動物が入っているのが面白いなぁと私は感じますが、その由来も調べてみると楽しいかもしれません。いまどきアナログな年賀状は衰退の一歩を辿っているのでしょうか。私は頭の片隅で面倒と思いながら、年賀状を出し続けている一人です。年賀状は御無沙汰している人に挨拶が出来る有効なアイテムだと思っています。1年1回くらいはあの人からこんな年賀状が届いたという感慨があってもいいのではないかと思っています。ただし、年内早めに年賀状を出す気分にはなれず、例年元旦には届きませんので、そこはご容赦ください。

12月RECORDは「円環の風景」

「~の風景」と題名をつけるのは今月が最後ですが、はたして風景という付加した題名にどのくらいの意味があったのか、自分で考えておきながら疑問が残ります。今までも風景を想定したRECORDを作ってきたので、今年が特別なことではないなぁと感じていたのです。ともかく風景シリーズとしては最後になるもので、「円環の風景」という題名で今年を締め括ることにしました。円環と言うモチーフは、私の作品の中では頻繁に出てくるカタチです。しかも正確な円形ではなくて、どこか歪んだ表現にしています。正確な円形は完成されていて、隙を与えてくれないし、そこに造形を施すことを拒んでいるように私には感じられるのです。円環は中心にぽっかり空いた空間があるだけで、輪廻転生を思わせるカタチを連想するためイメージを広げられます。未来永劫生まれ変わりを繋いでいくイメージは、自分には幸福を齎すものとしての認識があり、おそらくこれが私の作品の中に頻繁に出てくる要因ではないかと思っているところです。私はイメージ上で、終息したり終焉を迎えるのが好きではありません。留まるところを知らず、永遠に繋がっていくカタチを創造していきたいのです。リアルな人生では加齢による身体の劣化や精神の衰えがありますが、イメージではそこから自由になり、若返りの脱皮が出来たらいいなぁと願っていて、不老不死願望を円環に結びつけようとしているのかもしれません。RECORDは一日1点ずつ制作していくノルマがあります。時に下書きだけが先行して、残された仕上げに喘ぐことが少なからずありました。そうしないように普段から一日1点の完成を心掛けていきたいと思っています。

「地に伏す心のうた」について

「呪術としてのデザインー芸術民俗学の旅」(中嶋斉著 彩流社)の第1章の4「地に伏す心のうた」についてのまとめを行います。この章の舞台はロシアです。私はまだロシアに足を踏み入れたことがありません。もう40年も前にルーマニア国境からウクライナの風景を眺めたことがありました。有刺鉄線の向こうは旧ソビエト連邦で、真冬であったために雪に閉ざされた極寒の地という印象でした。ここではロシアのイコンについて書かれた箇所に注目しました。「聖者や聖人あるいは宗教的秘蹟が、全体をおおう金色の板の上に、黒を基調として朱・緑・黄などを配色し、明確な太い輪郭で描かれているが、これらの幾何学的な造形表現と、それらにともなう大胆な色彩感覚が、魂の内部ー描いた人と見る者の内部ーに神秘的な輝きを与えるのである。それは人物なり事物が、平板な二次元の中に要約することによってかえって一種の奥行きをもち始め、対象をこえてイメージの世界に見るものを誘いこむからであろうか。~略~イコンの中のイエスの表情は、悲しみの故か他の聖者らと同様下前方に視線をなげかけていて、たとえ正面あるいは天上を見上げるときも、いかにも不安げである。昇天したキリストはその後でさえむしろ地に埋もれたやさしい母の胎内に帰っていくことを望んでいるのではないか、ロシアの人びとがきびしい自然の中の生活をたえぬいて、やがて死をむかえるときに、天上でなくどこか地の底に花の冠をつけてやさしく微笑んで迎えてくれるものの存在を期待する、そんな心情がこれらのイコンの中に読みとれるのだが、そうした気持ちは、聖堂におかれていた棺の中に収まった老婆のための飾りつけにもゆきとどいていたように思う。」イコンは東欧の教会にも多くあって、描かれたイエスの表情とともに芸術性に富む絵画として私は見てきました。絵画と我流に解釈していたとしても、イコンは信仰の対象であり、人々はそこに深い慈愛を感じていたのではないでしょうか。「政治は人間の生活の苦しみを軽減する。しかし魂の救済者ではありえない、私は体制としての宗教の犯した罪までを容認しようと思わないが、私たちは平和な暮らしの中で人間をこえたものの力を知ることを忘れている。そしてまた遠ざけてきている。しかし信仰や宗教を失った世界では芸術もただ快い娯楽に堕していくように思われる。」