心の満足・身体の疲労

労働していれば休日が楽しみです。身体をゆっくり休め、ボーと過ごす一日があってもよいと思います。でも自分のことを振り返ると、ゆっくり休んでいる日がありません。決して先を急いでいるわけではなく何かに急き立てられていることもありません。休日は制作をしているため、これが心に満足を与えているのだと思います。作品がイメージ通りできるのかというストレスはありますが、これは嫌なものではありません。身体は疲れていることがあって、拠る年波なのか疲労が取れない時があります。でも人は心の有りようで健康が左右するものだと痛感しています。多少嫌なことがあると身体は重く、逆に制作に出かける時は晴れやかです。制作あっての人生かなと思うこの頃です。

11月は秋も深まり

11月は秋も深まり、制作には絶好の季節となります。空気が乾燥して寒くなると、鑿を振るったり木を組み合わせたりする力仕事には汗が滴ることが少なく作業効率が上がります。美術の秋というのは観賞に限らず、制作者にとっても最適な季節なのです。さて、新作の多くの柱で構成する作品「構築〜包囲〜」も最終のカタチが見えてきました。あと6本の柱を彫れば、彫刻の工程は終わります。板材に加工を施すのは来月にするとして、今月中に柱を彫り終えることが目標です。

漆喰と砂

立体造形の表面処理で、陶彫は窯から出したままの状態で使う場合が多いのですが、木の場合はいろいろ考えます。HPのギャラリーのアップしている「構築〜距離〜」という作品は、門やピラミッドを木で彫って作り、その上から漆喰を塗って仕上げました。やや黄色っぽい土壁がイメージにあり、漆喰が合うと判断しました。同じギャラリーにアップしている他の作品は陶彫と板材を組み合わせていますが、板材はすべて砂を硬化剤で固定してから油絵の具を染み込ませています。陶彫の土質と合うように油絵の具で色彩の調整をしています。私の作品には絵画的要素もあると思います。ただし絵画ではなく、あくまでも立体造形の効果として色彩を用いているので、そこに描くという行為はありません。

立体の表面処理について

彫刻を始めた頃、構造がしっかり出来ていれば表面なんてどうでもよいと考えていました。表面の色や質感にこだわるようになったのは陶彫を始めてからです。陶芸は使う陶土や化粧土、釉薬によって立体でありながら表面の美しさを楽しむものです。窯だしする時には、窯変して表面に思いがけない色が出て驚いたこともあります。立体構造に加え、この表面の効果的な色合いが作品に深みや雰囲気を出すことを知り、表面処理をかなり重要に考えるようになりました。これは木を使っても同じです。木そのものの美しさを生かすか、表面処理をするかで悩みます。最初のイメージを辿りながら、絵画とは違った意味で色彩と向き合うことが仕上げの第一歩となります。

テーブル彫刻について

陶彫によるテーブル彫刻を以前作ったことがあります。テーブルを大地と考え、テーブルの上面をプラス、下面をマイナスとして両方に立体が伸びていくようにしました。むしろ地下に埋もれている部分を表現したくてテーブルにしたのが発想の原点です。テーブルの部分は厚板を使って砂マチエールをつけました。支柱は古い枕木を使いました。横浜の市民ギャラリーでインスタレーションとして発表しましたが、少し手を加えて来年の銀座の個展では、少しまとまった形にして発表したいと考えています。このテーブル彫刻は素材が木に変わっても追い続けている立体の形態です。今年制作している作品もある意味ではテーブル彫刻と言えます。ただし柱がかなりたくさんあって、これには正直梃子摺っているところです。

制作の小さな分離形

現在制作中の30本の柱が林立して囲むカタチは「構築〜包囲〜」とタイトルをつけることにしました。まだ手をつけていない柱が6本あり、早速彫らなければならず、時間との戦いになりつつあります。そんな忙しい時に、小さな柱3本で構成するミニテーブルを作って見たくなり、2日ほどで完成しました。このテーブルは雛型とは違います。別個の作品です。「構築シリーズ」のコドモのような存在です。このテーブルに個展の図録を置こうと考えています。サイズの異なる作品を思いつきで作り出すと、今までの自分が抱いていたこの作品全体のイメージを自身ではぐらかすみたいで、ちょっとワクワクします。大きな作品は制作に長時間かかるので、たまにはこうした遊びを入れたくなるのです。

ダリの幻想と風土

上野の森美術館でダリのまとまった絵画作品が観られることを知って出かけてきました。マスコミの宣伝もあって大変な混雑振りでした。人の頭越しに観る作品でしたが、それでもダリの並々ならぬ才気を感じる作品に驚きました。幻想世界をリアルに感じさせる卓越した描写。ダリ独特なフォルムにスペインの風土からくる乾燥した空気や強い日差しを感じてしまいます。とくに砂漠を背景に展開するシュールレアリスム絵画は大好きなシリーズです。戯画がかった演出をしていたダリですが、スペインとアメリカの2つの美術館からきた作品を見ていると、絵を描くことだけが全てだったのではないかと思えるほどです。

オーストリアの大学について

横浜市の教員向けの研究会でオーストリアの教育システムについて講演をしたことがありました。オーストリアは日本と違い、一斉に9年間の義務教育があるわけではなく、早い時期に職業技能を身につける学校に進む方法や中高一貫教育の学校(ギムナジウム)へ進み大学を目指す方法など進路はさまざまです。つまり大学に入るにはギムナジウムを出なければならず、また受験資格(アビトウアー)を取得しなければなりません。ドイツではアビトウアーと言っていた資格はオーストリアではマトウーラーと言っていましたが同じもののようです。大学は年間2期制で冬学期(ゼメスター)と夏学期がありました。受験は冬学期前に行われます。卒業までに8ゼメスター必要で、順当にいけば4年間かかります。自分はドイツ語力不足で10ゼメスターも通ってしまいました。

ウィーン美術アカデミー名作展

ウィーン美術アカデミーは母校です。とはいえ、やはり外国人である自分は学生同士の繋がりも希薄だったため、日本の学校のように胸を張って母校と言えないところがあります。でも1980年代に在籍していました。学校と下宿の行き帰りが生活の基本だったので、アカデミーにはよく顔を出していました。校舎の中に美術館があって、扉ひとつ隔てて別の世界が広がる環境が不思議でした。学生証を提示すると無料で入れるのでよく美術館にも行きました。ボッシュの油彩を知ったのはこの時でした。謎の多い奇妙な絵画で、たちまち魅力にとりつかれてしまいました。今回新宿の美術館に来ていた作品は、きっと当時観ているに違いないと思うのですが、まるで覚えていない作品ばかりでした。日本で見るアカデミーの所蔵作品は特別な気分でじっくり観ることが出来ました。ウィーンにいる時はかなり疎略な見方しかしていないので記憶に残っていないのだと思います。

ウィーンの長い冬

このところ朝晩めっきり冷え込んできました。こんな季節になるとヨーロッパに暮らしはじめて嫌気がさした長く暗い冬のことを思い出します。夕方4時になると辺りは暗くなり、釣瓶落としの如く夜の帳がおりて、翌朝は9時にならないと明るくなりません。とは言っても昼間はいつもどんよりした寒々しい日が続きます。フロイトをはじめとする心理学者や哲学者が育つ土壌はこんな長い冬にあるのかもしれません。冬は部屋に篭もることが多く、ウィーンの下宿では、一番安いラジカセを電器屋で買って日本から持参した音楽を繰り返し聴いていました。ドイツ語のニュースも街行く人々の会話もわからず、昼間は学校と下宿の行き帰りだけでした。秋から新学期が始まっていたので、すぐ冬がやってきて孤独を感じることもありました。ドイツ語を学んでいたミュンヘン近郊のムルナウは光輝く夏でしたので、ウィーンの生活が始まった初冬はつらいものがありました。

ハウス デア クンストとレンバッハ美術館

アルテピナコテークを観たその日にハウス デア クンスト(芸術の家)も観ています。ここには「青騎士」を初めとするドイツ表現主義の重要な芸術家たちの作品が展示されていました。これは何かの企画展だったのかもしれません。とにかく表現主義は渡欧前に大変興味を持った流派のひとつでした。大学で彫刻を専攻しながら、せっせと木版画を作っていたのはドイツ表現主義の影響でした。キルヒナーやノルデが試みた木版画の線の強さが気に入っていました。次に行ったレンバッハ美術館ではクレーの初期の銅版画に心が揺さぶられました。子どものような線を描いたクレーですが、初期はおどろおどろしい緻密な幻想画を銅版に刻んでいたのを知りました。ヨーロッパ体験の第一歩がデューラーから始まり、フランス印象派ではなくドイツ表現主義だったことがやはりその後の自分の制作に何か影響を及ぼしていると考えています。

アルテ・ピナコテーク

アルテ・ピナコテークはヨーロッパに渡って初めて観た大規模な美術館でした。パリのルーブル美術館でもなく、イタリア各地の美術館でもなく、このミュンヘンの美術館が自分の脳裏に最初にすり込まれた西洋絵画になりました。デューラーから紐解く西洋美術史というわけです。幸いと言っていいものかわかりませんが、有名な「モナリザ」ではなく、デューラーの「4人の使徒」から入った絵画は先入観がない状態で目に飛び込んできました。これには本当に驚きました。描写の迫力に圧倒されました。ルーカス・クラナッハも硬質な感じが一目で気に入ってしまいました。フランスやイタリアといった美術史では避けて通れない国々より、ドイツ美術が自分の心に鎮座してしまったことが、その後の自分の美術趣向にも造形思考にも影響していると今も思っています。

ブッターミルヒとブラウエケーゼ

ドイツに渡って、まずスーパーマーケットで買ったのが牛乳とチーズでした。牛乳は「ブッターミルヒ」、つまりバターミルクが名前からして美味しいはずだと疑うことなく買いましたが、一口飲んで思わず吹き出しました。牛乳が酸っぱいのです。これは腐ってると勘違いして捨ててしまいました。次に「ブラウエケーゼ」というチーズ。包まれた紙を開いたら中身は青カビだらけ。これも腐ってると勘違いしました。まだ日本にブルーチーズがわずかしか輸入されていなかった時代です。初めて味わうドイツのドイツらしい食品に唖然とした経験があります。それから普通の牛乳やチーズを買うようになり、これらの美味しさに本当に舌鼓を打ちました。外国の体感はこんなところから始まるのではないかと思います。

ノイシュバンシュタイン城

1980年に初めてドイツに渡り、語学を学ぶため通っていたゲーテ・インステイテュートで、フュッセンにあるノイシュバンシュタイン城を初めとするバイエルン王が作った城や劇場を見て回る遠足がありました。多国籍生徒がバスで出かけることはドイツの短い夏を満喫するのに楽しく素敵な企画でした。ノイシュバンシュタイン城はポスターでよく見かける城なので外見はポピュラーでもあり、その美しさは充分わかっていました。ただし内部は華麗というよりしつこいくらいの装飾があって驚きました。バロックやロココといった西洋の装飾に触れた第一歩でした。ちょっと辟易すると日本にいる知り合いに書き送ったら、長い間商社マンとしてドイツにいたその知り合いは、日本から出かけたばかりで断定的な考え方をしてはいけないと諭してきました。それからはじっくり時間をかけて自分の中で西洋が染み込んでくるのを待つようにしました。

ムルナウの短い夏

ドイツのバイエルン州のある小さな町で、かつて画家カンデインスキーがひと時暮らしたことがあります。そのムルナウには外国人のための全寮制のドイツ語学校がありました。ゲーテ・インステイテュートという学校でドイツに何箇所があり、ドイツ語を学ぶことでは有名な機関です。自分も日本で申し込み、このムルナウにやってきました。1980年のことです。秋の美術学校入試に間に合うようにきたので、8月の渡欧になりました。南ドイツの美しい風景と町並みが印象的で感嘆しました。草原に点在する絵本のような街。トンガリ頭の教会が街の中心にありました。ドイツ語は思ったほど上達しませんでしたが、ホームステイをしながらの語学研修は夢のようでした。学校が終わった後の散歩道やいつも寄るレストラン、近くの湖と森が特に印象に残っています。

作庭家 重森三玲

松下電工汐留ミュージアムで「重森三玲の庭」と題する個展が開かれています。作庭のプランや模型、写真などによる展覧会で、画家や彫刻家ではなく、さらに工芸家や建築家でもない人を扱ったユニークな内容でした。亡父が造園業をやっていたことがあって、自分はかなり前から重森三玲という人に興味がありました。京都の東福寺でそのモダンな庭を見ていたのですが、実際に意識するようになったのはイサム・ノグチが作ったパリにあるユネスコ庭園に協力をした人だとわかった時からです。特に石が垂直に立てられた築山や白砂に横たわる長い石に不思議なハーモニーを感じます。場の彫刻を考える自分にとって避けて通れない存在だと思っています。これを契機に重森三玲をもっと研究しようと考えています。

鉈彫りに思う

「一木にこめられた祈り 仏像展」の中に鉈彫りで出来た仏像が何点かありました。制作途中と言うより、丹念な制作を終えてから敢えて鑿で跡を残したようです。鑿跡が同じ方向に整っていました。どうして鑿跡をそろえなければならないのか、どんな効果があるのか、あまりに様式化していて彫刻として見ると理解に苦しむところです。荒彫りの段階では鑿跡はそろわず、むしろ形に添って出来ています。ちょうどデッサンに陰影をつける時のハッチングのような具合です。今、自分の木彫ではこの荒彫りのタッチをある程度残した状態で仕上げたいと考えています。仏像展の鉈彫りは自分としてはあまり興味を持てませんでした。荒彫りの状態であっても表現としてはストレートに伝わると考えています。立体がごつごつ浮かび上がる表現が自分の作品には適していると思っています。仏像展では円空の鉈彫りに説得力を感じました。

一木にこめられた祈り 仏像展

上野の国立博物館で開催している「一木にこめられた祈り 仏像」の展覧会を過日観に行きました。なかなか見応えのある内容で、心にどっしりと木彫による仏像の姿が刻まれてしまいました。最初の部屋は小さめの十一面観音菩薩が数多く展示され、その作りこんだ造形に魅了されました。次の部屋では大きめの像が多く、中でも中央にあった菩薩半跏像はバランスがよく、観ていて心地よさを感じました。鉈彫りの部屋では宝誌和尚の顔の表面が割れて中から十一面観音が現れる立像が楽しく、近未来的な発想に驚きました。円空や木喰も代表作が展示され充実した展覧会でした。古くは中国から渡った仏師が彫ったものであるにせよ絵画や彫刻といった西洋を源とする展覧会の中で、こうした日本古来の立体造形作品が高レベルな内容で観られるのは本当に素晴らしいことです。

ザワークラウトの瓶詰め

ザワークラウトはキャベツの酢漬けです。ヨーロッパで美味しいと思った料理のひとつです。ザワークラウトを小さく刻んだ肉と混ぜて煮込んだものが特に好きでした。よくスーパーマーケットで瓶詰めされたザワークラウトを買いました。日本ではなかなか売っていないので、今でもたまにザワークラウトが恋しくなります。大きめのソーセージの付け合せとしては絶妙です。酢は米酢ではなくてワインビネガーですが、最近ワインビネガーは日本でも手に入りやすくなったので、ザワークラウトを作ろうと思えば作れると思います。ただ、日本では新鮮な野菜がいつでも食べられるので、わざわざ保存用のザワークラウトを作ることないかとも思っています。

ゲルムクヌーデル

ウィーンの学生食堂で、中華あんまんを売っているのか?と誤解したのが、この「ゲルムクヌーデル」でした。訳すと「イーストの入ったダンゴ」。確かに中華あんまんに近いものでした。中味の餡は芥子の実が原料と思われるやや酸っぱめのもので、さらに白い蒸かしたまんじゅうの上から蜜がかかっていました。皿にのって出てきてナイフとフォークが添えられていました。不思議な食感でした。懐かしいと言っていいものやら。でも東洋を感じさせてくれると自分が勝手に思った菓子なので何回も味わいました。

ウインナーシュニッツエル

日本で言うトンカツに近い料理ですが、牛肉をたたいて平たくして、パン粉をつけてラードで揚げるところがトンカツとはまるで違います。カロリーは日本のトンカツ定食とは比べものにならないくらい高いと思います。しかも平たくしているので草鞋のように大きな面積をもっていました。千切りしたキャベツもなく、皿に「シュニッツエル」だけがドンとのって出てきた時は、そのストレートさに驚いてしまいました。サラダは小さな別皿に酢漬けの野菜が少々といったところで栄養バランスを欠いた料理でしたが、自分には何とも言えない満足感がありました。当時ウィーンのマリアヒルファー通りにあったデパート(名前は忘れました)の裏通りにあった「シュミット」というレストランの「シュニッツエル」は大きくて評判でした。何度も行って胃袋を満たしました。

レバーケーゼ ミット センメル

ウィーンの青果市場(ナッシュマルクト)に売っている食べ物でペースト状にしたレバー肉を焼いて小さなパンに挟んだ「レバーケーゼ ミット センメル」が美味しくて、買い物に行ったついでによく食べました。レバーと言えどレバー臭さがなくて、厚切りの軽いハムのような感じでした。しかも安くて量もたっぷりというのが気に入っていた理由でした。「センメル」と言うのは拳大のパンで外側が固くて香ばしく、上に縦横の切れ目が入っていました。ドイツでは同じパンを「ブロッツヒェン」と言っていました。ほんの2、3口で食べられてしまうし、塩分がきいていて、そのままでも美味しかったので、なかなか重宝なパンでした。

陶を素材とする立体作品

フンデルトワッサーや池田満寿夫の陶芸を見ていると、これはもう用途を持つ陶磁器とは異なり、むしろ陶を単なる素材として扱った立体作品と言えます。これは彫刻分野の仕事です。そこに工芸的な要素はありません。日本で初めてこうした作品が生まれたのは、イサムノグチの滞日中に作った即興的な陶芸や八木一夫らの「走泥社」が提唱したオブジェ焼からでしょうか。岡本太郎が自論の中で縄文土器の美的要素を謳ったものも影響しているのでしょうか。藤田昭子の野焼きした古代住居のようなオブジェも注目に値すると思います。自分もこの流れの末席にいて、用途を無視した造形を作り続けているのだと思っています。

池田満寿夫の「般若心教」

昨日、フンデルトワッサーが作った陶芸のことをブログに書いた後、ふと思い出したのが池田満寿夫の陶彫「般若心教」です。去年、三重県にあるパラミタミュージアムに行き、池田満寿夫の陶彫コレクションを見てきました。奔放な土の動きと偶然できた窯変が圧倒的なパワーをもって迫ってくるような作品群でした。刻まれた文字も作品の一部になって、文字の乱れもヘラで叩いただけの面も、ヒビ割れもすべてが自由闊達で、これでいいのだと言わんばかりの存在感でした。陶芸家の作るそれと違って、どうして表現領域の広いアーテイストが作る作品は、欠陥だらけであっても、とてつもなく面白いんだろうと感じています。

フンデルトワッサーの壺

陶芸がやりたくてもその手段が見つからなかった滞欧時代、ウィーンの目抜き通りであるケルントナー通りに洒落た工芸品を扱う店があって、そのウインドウにフンデルトワッサーが作った壺と深皿が飾ってありました。何度もそれを見て歩き、立方体にカラフルな意匠を施した壺と渦巻き模様の深皿になんともいえない自由で斬新な発想を感じました。立方体の壺は上面に小さな穴があって、そこに太めの枯れ枝がさしてありました。壁に掛かる深皿との絶妙な取り合わせに思わず楽しくなってしまいました。画家の作る立体の面白さ、自由さに初めて感銘したひと時でした。

フンデルトワッサーに会った日

フンデルトワッサーが亡くなってどのくらい経つのでしょうか。自分がウィーン国立美術アカデミーに在籍していた頃、アカデミーにはフンデルトワッサー教室があって、よくそこを見に行きました。観葉植物が所狭しと置かれて、さらに様々な浄化装置があって、その間を学生たちがイーゼルを立てて絵を描いていました。フンデルトワッサーはなかなか姿を見せなかったのですが、助手から今日フンデルトワッサーが来てると情報をもらったので、さっそく日本で作ってきた木版画を抱えて会いに行きました。フンデルトワッサーは私の版画をじっくり見て、「これはいいね。でも君の絵には色彩がない。なぜ色彩を使わないのか。」と聞いてきました。モノクロはだめだと言わんばかりの反応でした。平易なドイツ語で手振りを交えて話しかける様子は、私が外国人という配慮ではなく、まるで子供のような話しぶりだなと感じ取れました。

彫刻家カール・プランテル

オーストリアのオーバーエスタライヒ州に住む彫刻家中島修さんと一緒にカール・プランテルの自宅を訪ねたのは、もう20数年前になるでしょうか。農家を改造して中世の木の家具をモダンに配置した部屋に通されて、お茶を頂きました。プランテルの彫刻はブランクーシに通じる抽象的な石彫作品で、角をなめらかに磨いた立方体や、単純なカタチに穴をつけた精神的な作品に至るまで、明快さと包み込む空間の美しさが特徴です。立方体をナイフで切り取ったようなシャープな中島さんの作品と対比すると、同じ石を扱う作家でありながら、まるで異なる個性を持った者同士がそれぞれ空間のあり方に別の解釈を提示しているようで面白さを感じました。有機質と無機質、両方の良さを感じつつ、お互いの作品が呼応しあう様子はとても刺激的でした。

ビリーの追悼作品

ビリー・ザウワー夫人を訪ねた折、ビリーの残した版を刷り上げたお礼にビリーと当時交流のあった画家たちの作品を頂きました。ほとんどすべてがビリーの追悼のために作られた版画でした。蔵書票のような目的で作られた小さな版画もありました。ビリーの自作版画集も頂きました。旧ユーゴスラビアのドブロブニクを描いた風景画で、石壁に陽の光があたっている様子をモノクロで表現したとても美しい版画集です。自分が滞欧していた時にはドブロブニクを訪ねることなく帰国してしまって残念な思いをしています。機会があれば行って見たい街のひとつです。その時はビリーの版画集を携えて行きたいと思います。

版画家ビリー・ザウワー

先月のブログではクリムト、シーレ、ココシュカといったウィーンでは有名な画家のことを書きましたが、今月は個人的に関わりのあった芸術家について書こうと思います。ビリー・ザウワーは20世紀初頭に短い生涯を送った版画家です。シーレ等がいたため歴史の中に埋もれてしまった人です。自分がウィーンで暮らしていた時、人を介してザウワー夫人とお会いしました。20年以上も前の話で、しかもその時彼女は80歳を超えていましたから、今はご存命ではないと思います。一人暮らしをされていた夫人からビリーの版が新たに見つかったので、ぜひ刷り上げて欲しいと頼まれたのでした。当時、美術学校に通っていた私は版画科に行って、凸版印刷機を使って古い版を刷り上げました。ウィーンの路面電車を描いたものでした。詩情豊かなモノクロの画面から当時の生活が伝わり、夫人は版画を見るなり涙を浮かべていました。

ボトルバの墓参り

ウィーン中央墓地は観光スポットのひとつです。音楽の都であり続けるウィーンならではの場所だからです。ベートーベン、シュトラウス、シューベルト等々錚々たる音楽家が眠っています。モーツアルトは共同墓地に葬られてしまったので記念碑が立っています。そんな中にボトルバの墓地もありました。ボトルバの作品がそのまま墓石になっていました。自分の墓石もこんなふうに出来たらいいなと思っていましたが、自分はどうやら今夏新しく出来た菩提寺の墓地に葬られるのでしょう。

ボトルバの教会を見る

ウィーンの彫刻家ボトルバの建てた教会は、大きなオブジェが大地にあるといった存在感で、とても教会とは思えませんでした。コンクリート打ちっぱなし、板材を様々な角度で構成した建造物で、なにか近未来的な生物のようでした。中に入ると宗教色は薄く感じ、むしろ思索的な空間が広がりました。これだけ斬新でありながら、決してカタチは挑発的ではなく、自然なリズム、ボトルバ流ともいうべき律動を感じました。この教会が建った時の周囲の住民はずいぶん驚いたに違いないと思いました。今はどうなんだろう、日曜には老若男女がここに礼拝に来るのだろうか、いろいろな思いを馳せながら、教会を後にしました。