ギャラリーに「点景」アップ

HPのギャラリーに「発掘・点景」をアップしました。作品制作のイメージとしてあったのは船でした。航空母艦のようなカタチを思い浮かべながらエスキースを固めました。箱舟の上に様々な建造物を作ることで人の感情の推移を描き、それらを箱舟という世界の中で展開していくように考えました。コトバは初めに意図したイメージから綴り始めました。要素が多すぎるとの指摘を横浜美術館の学芸員の方や師匠である池田先生から承りました。もっと整理出来るのかもしれないと省みつつ、それでも念入りに全体計画を練った作品のひとつです。

画家の墓地比べ

クリムトとシーレ。以前のブログに書いたウィーンの有名画家です。ウィーンではこの2人を知らない人はいないくらいです。クリムトは優雅な作風で知られ、ブルジョア的な雰囲気が漂っています。シーレは身の回りの人物や風景をテーマにした夭折の画家です。2人の墓地を訪ねたことがあります。意外にもクリムトの墓はただ小さな石が立ててあるだけのシンプルなものでした。サインの文字で名前が彫られていました。一方シーレはきちんとした墓石があって、ヨーロッパで見られる普通の墓地でした。クリムトより大きなものだったのが不思議な感じがしました。ただ、クリムトの墓石の方が小ぢんまりしているだけにインパクトがあって、いつまでも忘れられません。

グリーヒェンバイスル

たしか「グリーヒェンバイスル」という名の居酒屋(いや、高級レストランかな?)だったと思います。なんせ20年以上も前の記憶ですから、店の名はハッキリしていません。歴史に残るような芸術家、著名人のサインが部屋中の壁に落書きのように書かれた居酒屋でした。ウィーン旧市街の中心にあるシュテファンス寺院とウィーン運河の間の路地裏にありました。店の入り口に浮き彫りされた人形がありました。そこにも何度か人を案内して出かけました。「ハルプヘンデル」(半分の鶏という意味で、一羽を半分にしてオーブンで焼いた肉料理)をよく注文しました。鶏肉料理では「ウインナーバルト」というチエーン店が有名でしたが、「グリーヒェンバイスル」の鶏肉料理も美味しかったように記憶しています。

カフェ文化とファミレス文化

ウィーンのカフェのことをあれこれ思い出しながらブログを書いていたら、ふと今の自分はどうなんだろうと考えてしまいました。今は語る時間があれば、ひたすら制作をしています。作品のイメージをどう具現化するか、どう展開するかで頭はいっぱいです。たまに人と語るとすれば、日本ではファミリーレストランなのです。この違いこそ文化の違いなのかなと思います。頭でっかちになるカフェ。効率よく仕事を進められるファミレス。哲学や純文学が育まれそうなカフェ。雑誌やポップスを軽く受け流すファミレス。そうした環境の違いはどこに影響として表れるのか、ちょっとこれはファミレスではなくカフェで語って見たい文化論です。

カフェで文化を語る

大学で彫刻を学んでいた頃は、お洒落で手軽な「スタバ」や「ドトール」はなく、いわゆる喫茶店があって、友達と長い時間をそこで過ごしました。芸術論議は大好きで、制作もままならないうちに精神性ばかり語っている歪んだ学生でした。ウィーンに住んでもカフェが大好きで、芸術を語るほどドイツ語力はなかったので、街行く人を眺めたり、在外日本人で彫刻をやっている人と話したりしていました。同じクラスのウィーン女性と話した時は知っている限りのドイツ語を駆使しました。ウィーンのカフェは雰囲気に歴史と文化の香りがして、今思うと何と贅沢な時間だったろうと思います。それにしてもウィーン人はおしゃべりでカフェが大好きな人々で、いったい何時になったら仕事に取りかかるのだろうと思うことも再三ありました。

カタコンベの居酒屋

ウィーンの旧市街には、シュテファンス寺院の地下にあるような墓地があちこちにあり、埋葬された骨を片付けて、居酒屋を営んでいるところがありました。洞窟のような居酒屋は、もともとそこに何があったかを知らなければ、とても雰囲気のよい店でした。日本人観光客を案内して自分も何度か訪れ、赤ワインを味わったりしました。居酒屋でおつまみにする煮込んだ肉や酢漬けのキャベツ(ザワークラウト)は好物でした。

カタコンベ(地下墓地)

ウィーンの街の中心にシュテファンス寺院があります。目抜き通りであるケルントナーとグラーベンが交差する広場にあるゴシック様式の立派な寺院で、まさにウィーンのシンボルです。そのシュテファンス寺院の地下に墓地があって、一般公開していました。中世にペストが流行し、病死した人々を地下に葬ったらしく、多くのしゃれこうべが放置してありました。自分はとくに興味を持ったわけではないのですが、日本から来た人を案内して度々そのカタコンベに行きました。何回か見ているうち不気味さが消え、その空間が胎内であるような、また生まれ変わっていけるような錯覚を覚えていました。その時から地下に魅力を感じ、それが自分の造形に地下的な要素を考えさせた契機になっているのかもしれません。

カフェ・ハベルカ

どこの街にも芸術家や作家が集まったカフェがあります。ウィーンにはカフェ・ハベルカがありました。旧市街のグラーベン通りにあるペスト記念碑の近くの路地にあったように思います。ハウズナーやフックスといったウィーン幻想派の画家がよく集まっていたカフェで、いかにも文化的な雰囲気がありました。古い建物でしたが、個展のポストカードやらポスターが所狭しと貼られていました。自分もそこで「メランジュ」と言われるウインナーコーヒーを注文して悦に入っていました。ウィーンのカフェはどこも綴じ込みの新聞が置かれていました。あのくつろいだ空気は今も忘れられません。

オスカー・ココシュカ

クリムトやシーレに比べるとココシュカはしばらくの間理解できませんでした。油彩の厚塗りされた画面が最初はピンときませんでした。ココシュカにすごい才能を感じたのは「夢見る少年たち」のシリーズです。何気なく描かれた線、平塗りされた色彩の妙に追従を許さない世界観があったからです。本格的な油彩ではない作品ですが、つい魅せられてしまいます。当時「ウィーン工房」に参加していたココシュカは前述のような装飾的な仕事をやっていますが、やはり表現主義的な油絵で自己表現を確立した人だと思います。まとまった作品を見る機会は日本にいるとほとんどありません。厚塗りのタッチは図録ではなかなか伝わりにくいのです。ココシュカをしばらくの間理解できなかったのはこんなところに理由があります。

エゴン・シーレ

クリムトの弟子とも言えるエゴン・シーレは若干28歳で病死しています。シーレの絵を見たのは渡欧前でしたが、衝撃を受けたのを覚えています。デッサンの線はシーレとわかる独特なもので、人物のポーズにしろ画面構成にしろ斬新な感覚を持ちました。ウィーンの美術館でクリムトの隣の部屋にシーレの作品がたくさんあって、つい師弟を比較して見てしまいます。クリムトはブルジョアの人々を描き、シーレは貧困をテーマにしたと感じてしまうのは自分だけでしょうか。クリムトは完成されたタブローが多く、夭折のシーレは未完のデッサンが多く残されています。シーレは息せき切って走る短距離選手のように生涯を走りぬけ、時間をかけて完成させることより、描く行為そのものを作品化したと思います。

グスタフ・クリムト

世紀末ウィーンの美術界で活躍した画家です。作品はベルベデーレ宮殿内のギャラリーにありました。ウィーンではあまりにも有名な画家で、作品を絵葉書やポスターにして街のあちこちの土産物店で売っていました。刺繍によるネクタイにもなっていて、自分も2本持っています。なんといっても絵柄が美しくどんなデザインにもなりうるのです。具象的な人物の周囲を抽象的な模様を施してあるのは、現代にもウケル要素だと思います。瀟洒な感じがいいのです。ただし、美術的に考えれば完全に革新をもたらせた画家ではないと思います。周囲の模様はエキゾチックな装飾であって、抽象まで到達しているとは言えないでしょう。バウハウスで活動したクレーや渡米したモンドリアンに見られる抽象化とは少しニュアンスが違うと思います。でも具象的な人物と抽象的な模様の狭間を行き来して、幻想空間を作り上げたところはさすがと言えます。

浅草・花やしきとウィーン・プラター

最新型テーマパークのアトラクションは結構好きで、そろそろ人気が落ち着いたかなと思う頃に出かけています。でも衝撃のアトラクションとは違う意味で忘れられないのが、浅草花やしきのローラーコースターです。民家すれすれを走り抜ける面白さ、古色蒼然とした風格が楽しいのです。ウィーンにも「第三の男」に出てきたプラター遊園地の観覧車があります。ウィーンに行く前に「第三の男」を見て、オーソン・ウエルズが乗っていたあの観覧車に自分も乗って見たくて、ウィーンに到着してすぐプラターに行きました。古色蒼然とした風格はこちらも負けてはいませんでした。高さを楽しむというより古い鉄の造形物に囲まれている楽しさ、ウィーンの街の情緒を味わうには何と適したアトラクションでしょうか。秋のプラター遊園地では紅葉した樹木が大変美しいのです。

ウィーン分離派

自分が通っていたウィーン国立美術アカデミーの裏に不思議な建物がありました。建物の頭に金属の葉で出来た球体をのせた建物で、よくアカデミーの窓から眺めていました。その建物は「セセッション」という建物でした。自分がアカデミーにいた頃は「セセッション」館は閉鎖されていましたが、まもなく修復されて、内部ではクリムトの「ベートベン・フリーズ」という壁画を見ることができました。この「セセッション(分離派)」に興味を持って書籍も手に入れましたが、ドイツ語の原書を読む気が起こらず、書棚に眠っています。分離派とは、旧態依然とした19世紀美術界からの分離を意味し、モダニズムを提唱した運動だったようですが、完全な抽象までは到達しないまま短期間に終わったようです。でも画家や彫刻や工芸家が一同に集った展示内容は革新的なものだったのではないかと想像されます。

ウィーンの鍛冶屋

ウィーンの旧市街のうねうねと曲がった小路を行くと、建物の壁を塗り替えようとした時に現れた古い壁画をそのまま残していたり、昔の店舗を当時のまま残している所がありました。その中に鍛冶屋の仕事場がウインドウ越しに見られる路地があって、自分のお気に入りの場所でした。「アルテシュミーデ」と書かれた看板も素敵な演出でした。わざわざ遠回りして「アルテシュミーデ」を見て目的地に向かいました。アトリエもそのひとつですが、自分はこうした作業場の雰囲気が大好きです。何故か元気になるのです。

ウィーンの古い街角で

ウィーンに住み始めて、まず驚いたのが店が閉まるのが早いことと、夕暮れから夜にかけて街を散歩する人が多いことでした。目抜き通りであるケルントナー通りにはストリートミュージシャンが現れ、アコーデオンやバイオリンを聴かせてくれました。こんな時間帯まで商売をやっているのは野暮、店の美しくデイスプレイされたウインドウを眺め、流れてくる音楽を楽しもうとしている人たちの心の余裕に、慌しい日本から来た一介の留学生は暇を持て余していました。暇に任せてあちこちを歩き回ったりしました。ギャラリーの絵をじっくり観れたのもこんな時間があったからだと思います。文化が育つのはこういう環境があればこそと思いますが、当時は国民がこんなゆったりと構えていて、この国の経済事情はどうなっているのかなどと思いを巡らせたりしました。でも今でもそんな散歩が印象に残っているなんて素敵なことかもしれません。

ウィーンの古い映画館で

自分が住んでいた頃のウィーンには中心街をはずれたところに古い映画館があって安いチケットでマニアックな映画を観ることができました。イタリアの村の風情を描いた「木靴の樹」やギリシャの島に生きる人々を描いた「その男ゾルバ」は印象に残っています。実際にヨーロッパでそういう風習の残る東欧諸国を歩いたことも印象を鮮烈にしている要因でしょう。「ゾルバ」の一場面で住人が亡くなると、村人が挙ってやってきて家裁道具をすべて持って去ってしまうところはちょっとびっくりしましたが、実際のギリシャで牧童たちと山々を歩いた時は、そんな風習はないにしても、まるで映画に出てくるような場面によく出会いました。そんな映画が懐かしくて日本でDVDをレンタルして観てもしっくりこないのは、やっぱり環境のせいでしょうか。

ギリシャの遊牧の村

旧ユーゴスラビア旅行と前後してギリシャの内陸の村々を訪ねたことがあります。これも昔の記憶を頼りに綴りますが、地図で細かく確認していないので、今もあるのかどうか定かではありません。しかし日本のように村や町の併合がよくあるわけではないので、きっと今も当時のようにのんびりとした時間が流れていることでしょう。テサロニキまで鉄道で行き、あとはバスで山道を走りました。サマリナ村に入ったのは夏の終わりだったように記憶しています。海沿いにある村と同じように家々が白く塗られていました。そこからしばらく行ったところに移牧の村があり、夏の間は羊飼いが羊の群れを連れて山々を巡るという生活をしていました。山には羊飼いの小屋があり、そこで成分無調整の羊乳をいただきました。草原に落ちていた狼の白骨と羊の角をリュックに積めて村を後にしました。それら土産は今もアトリエに飾ってあります。

作品の保管について

個展やグループ展に来てくださる方から、「この作品は次はどこで見られるのか」という質問を受ける時があります。「しばらく倉庫に〜」と返答せざるをえません。自分の作品はほとんどが集合体なので作品がギャラリーに搬入されると、さっそく組み立てを始め、搬出時には分解する運命です。それから引越し荷物のように箱に小分けして倉庫に保管です。このHPが出来てからアップしてある作品はパソコン画面で見ることが可能になりましたが、実作品は自宅に置いていないし触れることもできません。作品を常時展示できる空間が欲しいと思いますが、かなりの空間を所有するものばかりなので難しいと思います。ブランクーシ、イサム・ノグチから池田宗弘先生に至るまで素晴らしいアトリエ兼ギャラリーを見てしまっているので、考えば考えるほど空しくなるばかりです。

9.11追悼

5年前、たまたま見ていたテレビから信じられない映像が送られてきました。ちょうどその頃、陶彫で都市をテーマにした作品を作っていたので、これはテロの被害を表現したものかとよく聞かれました。以前のブログに書いたように自分は社会的なテーマで作品を作ったことはありません。でも自分が現在生きている世相を無視することはできず、住み難いこの世の中が少しでも心地よいものにしたいと思いながら作品を作っていると言っても過言ではありません。ピカソの「ゲルニカ」や丸木位里・俊の「原爆の図」のように直接的な反戦を掲げることはありませんが、作品に語らせるものは豊かな空間に息吹く生命であったり、またそれに気づかせる装置であったりします。9.11というこの日に思うことは、改めて自分はどう世の中に関わっていくのか、作品を通して答えを見つけたいと思っています。

残暑を避けて美術館へ

今日の午前中は作業場で木彫をやっていたのですが、あまりの暑さに途中でやめて、午後は横浜美術館へ出かけました。日本画の多様性を示すグループ展をやっていて、肩肘張らずに観ることができる展示内容でした。サブカルチャーとして漫画文化があります。そうした日常的なサブカルチャーが美術作品として取り上げられることが多くなってきました。楽しく身近で刹那的で、それでも表現としてはインパクトがあるように思います。気楽に表現の垣根を越えていけるキャパの広い美術界であってほしいと自分も願っています。一方で従来の表現もやっている作家がいるというのがいいのです。

旧ユーゴの画家ジェネラリッチ

旧ユーゴのヘルビネ村でジェネラリッチさんという売れっ子画家にお会いして、自宅兼ギャラリーで作品を見せていただきながら、趣味の卓球のポーズをして記念写真を撮りました。もう20数年も前のことなので、ご存命かどうか今はわかりません。他の農民画家に比べると表現力があり、もう農業はやらず画家として自立しているように見受けられました。当時の数枚の写真とその時いただいた図録が今も手許にあります。自分が住んでいたウィーンには旧ユーゴの素朴派画家の作品を扱っているギャラリーがあって版画やポスターがかなり売れているようでした。ウィーンの歴史美術館には有名なブリューゲルの絵がたくさんあり、ある意味ではブリューゲルとの共通点も見られ、現代版ブリューゲルともいえるかもしれません。

旧ユーゴのヘルビネ村

昔訪れた村の記憶が甦るとブログに書いておきたくなります。先日までルーマニアのあれこれを書いていましたが、今日は旧ユーゴスラビアのヘルビネ村のことを書きます。この村に行くにはたしかザグレブまで鉄道で行き、それからバスで麦畑の中の道を行ったように記憶しています。場所はもう定かではありません。この村にはモダンなギャラリーがあって、文化的にも豊かな雰囲気が漂っていました。旧ユーゴの素朴派といわれる芸術家たちが住む村だったからです。農閑期になるとガラス絵を描いていた農民たちがドイツやフランスの画商の目に留まり、絵の注文が殺到したそうです。家々を訪ねて歩くうち、実際にガラス絵を書いていた女性に出会い、その仕事場を見せていただきました。食事をご馳走になり、とてもいい気持ちになったのを思い出します。

ルーマニアの小さな村から

ブログの表題はNHKブックスから出版された紀行文です。みやこうせいさんが書き下ろしたものにイラストを依頼され、数点の見開きイラストを描いた思い出の本です。ルーマニアに出かけていた当時はチャウシェスク政権の共産主義国家で、国境で厳しい荷物検査やらビザ申請が義務付けられていました。秘密警察が我々の行程を追ってくるということもありました。それでも出かけていくのは奥深き山々に点在する村々の生活が、まるで映画の一場面のような美しさをもっていたからです。中世のヨーロッパはきっとこんな生活があったに違いないと思っていました。木の家、木の教会、木の墓地、食器に至るまで木の装飾が施されていて、アートがまさに生活の中に生きていると感じていました。まだ西側諸国の利便さが入り込まないうちに、みやさんは写真を撮り、自分はスケッチにして記憶に留めておきたいと感じていた日々でした。

ルーマニアの墓地

亡父の墓石を立てた時に、若い日々に旅したルーマニアの村々にある墓地に想いを馳せました。ルーマニアの木造りの墓地は死者のエピソードを取り上げて、具象的な絵画作品、いや浮き彫りされた厚板に彩色された作品というべき墓標があり、その楽しさは思わず微笑んでしまいたくなるほどでした。ちょうどその頃旅した旧ユーゴスラビアの村で、農民が農閑期にガラスに描いたフォークアートと出会い、その素朴な雰囲気がルーマニアの墓標に似ていたのを思い出します。専門的な美術を勉強したわけではない人々が作る素朴な造形世界はどうして肩肘張らずに面白いのか、構成や色彩の取り合わせにはハッとするものも多く、琴線に触れることもありました。こんな墓地に葬られることは、あるいはとても贅沢なことなのかもしれません。

ルーマニアの木造りの教会

ブランクーシのことを考えていると、今制作中の木彫が「無限柱」に似てくるので少々困っています。確かに「無限柱」は美しい造形で、簡素化させた形態の極みだと思います。ルーマニアの門や家の装飾がブランクーシの発想の源と以前ブログに書きましたが、それで思い出すのがルーマニアのマラムレシュ県にあった小さな村々に点在する木造りの教会です。周囲の牧歌的な風景と溶け合い、絵本の世界のようでした。復活祭やクリスマスになると民族衣装を纏った村人であふれ、タイムスリップしたような錯覚に陥ったものです。自分の作品もトルコやギリシャに見られる荒涼とした遺跡を陶彫で表している頃から、今はルーマニアの木造りの教会をイメージするような木彫に変わってきています。それでも陶や木といった日本古来の素材にこだわるのは、現在の自分の環境に一番しっくりくる何かがあるのかもしれません。

黒部峡谷

昨日は黒部峡谷へ行ってきました。昔、両親に連れられて見た映画「黒部の太陽」ではダムやトンネル建設の壮絶さが印象に残り、機会があれば行ってみたいと思っていました。9月になってもまだ夏山の彩りがあって、トロッコ電車から見る黒部川の流れる水が爽やかな青緑色をしていました。黒四ダムはさらに先にあると知り、そそり立つ山々に建設された施設は殉難者を出すほど厳しいものだったということが認識できました。それにしても便利になった交通手段があり、そこから眺める景色の美しさは他に類を見ないほどでした。

風情と混乱の中で

おわら風の盆は胡弓・三味線・唄を伴奏に、若者が独特な衣装に身を包み、優美に舞うもので大変風情がありました。ところが年々増える観光客(自分もその一人ですが)で、昨日は10万人とも報道されていましたが、風情を味わう余裕がありませんでした。おまけに自分がいた西町会館前の福鶴酒造の2階には女優さんが2人(野際陽子、賀来千賀子かな?)いたため、下の歩道は混乱を極め、朝のラッシュのようでした。音楽が流れ、踊りが始まると気持ちは吸い寄せられるのですが、町の許容量を超える人の群れで、到底近くに行けず、ただ小さな町を右往左往しておりました。

おわら風の盆

昔から伝わる郷土芸能をずっと継承していくことは並々ならぬ努力が必要だろうと思います。横浜市内でも神楽や獅子舞を大切に保存している地域がありますが、我が町内では神社はあるものの古来伝承の芸能は久しく行われていない現状で、資料すら残っているのかどうかわかりません。富山県八尾のおわら風の盆は様々な歴史の変遷を経て、今に伝わる貴重な芸能遺産のひとつでしょう。マスコミに取り上げられて知った情報ですが、その情緒豊かな風情はたちまち自分を魅了し、実際に見てみたいと願っていました。勤めをしていると、なかなかこの時期に富山県まで足を運ぶのはきついものがありますが、この週末を利用して行くことに決めました。今晩がとても楽しみです。雨が降らないことを祈りつつ出かけてきます。

制作三昧の8月からステップ

今日から9月。また勤めが始まりました。今月から週末が制作の大切な時間になります。制作の勢いは無くなりますが、きちんと考えて冷静な判断が出来る季節になります。思考が深まるのもこの季節です。哲学や思弁的要素がないと作品にはならないし、物質にそれらを与えてこそ造形になるのだと思います。人が何かを意図して作り上げるものを、別の人にその意図を伝えてこそコミュニケーションが生まれるものです。意図するものが平易であろうが、難解であろうが作品に優劣がつくものではありませんが、むしろ意図の伝達が自分の感性とうまくかみ合っている作品が作品として成功していると考えています。今の作品はどうだろうかと自問自答する時間、それが今月多くとれると思っています。

ルーマニアの門

ウィーンで学生だった頃、紀行作家のみやこうせい氏と学生食堂で知り合い、それが縁で彼が取材していたルーマニアに度々同行しました。自分は彫刻を学んでいたので、ルーマニアといえばブランクーシに関連するものがあるかもしれないと考えていました。結果、彼の地は多大な収穫をもたらせてくれました。ブランクーシがまだパリに出ていなかった頃、大工としてルーマニアで働いていた過去があるのを自分は知っていました。ルーマニアの伝統的な家の作りを見て、家を支える柱がブランクーシの作品「無限柱」と酷似していたり、とりわけルーマニアの家にある門は独特な抽象文様が刻まれていて、ブランクーシの発想がまさにここからきていることを物語っていました。門は魔よけの役目をもった狼の歯型だったり、生命の樹木だったり、生活の中からルーマニア人が創り出した素晴らしい造形でした。それが頭の片隅にあったためか、帰国してからブランクーシに習い自分も自らの原風景を探しに社寺を度々訪れることになったように思います。

ブランクーシのアトリエ

たまに記憶の底から甦るところにパリのブランクーシのアトリエがあります。20数年前の当時はポンピドーセンターの近くにあって写真でしか知らなかったブランクーシの作品が所狭しと置かれていました。思っていたより小さく白っぽい空間であり、制作途中の作品や道具があって、ブランクーシを一人の人間として認識したのを覚えています。それだけなら単なる巨匠の一人として記憶の底にしまうところですが、人を介して偶然ルーマニアに出かけたのを契機に一気にブランクーシが身近な存在になったのでした。ブランクーシはルーマニア出身で、巨匠ロダンに師事したにも関わらず、独自の道を歩むことになった現代彫刻のパイオニアです。ブランクーシのカタチがルーマニアに起因していたことを彼の地で知って、ブランクーシのアトリエで見た作品が抽象にも関わらず、何か地に根ざしたものとして印象に残ったことを改めて感じた次第でした。