週末 7点目の陶彫成形

今日も蒸し暑い一日でしたが、九州に近づく台風10号の影響か、突如大雨が降ったり、また日差しが戻ったりして安定しない一日でした。家内の親戚がいる奄美大島では大変なことになっているようで、被害を最小限に食い止められることを願って止みません。横浜は台風から遠い位置にあるため、危機管理的にはそれほど緊急を要してはいませんが、万が一にも備える必要を感じます。日本は自然災害から逃れられない運命にあり、昨年関東を襲った大型台風によって、自宅の雨樋が壊れ、部屋のあちらこちらで雨漏りが発生したことを思い出しました。自宅のリフォーム工事を始めたのは、自然災害が起因になっていると言えます。現在、台風が近づく地域の心配を我が事のように感じられるのは、そんな理由によるものです。さて、今日の工房での作業は9時過ぎに始めました。美大受験生が2人来ていて、デッサンや平面構成をやっていました。彼女たちも毎週やってくるようになりました。ウィークディはそれぞれ高校に通っているので、週末は疲れているだろうに、作品を作るパワーを失わないのは立派なものです。私は昨日準備しておいたタタラを使って、7点目の陶彫成形に挑みました。今日作った陶彫部品は、新作の中では中くらいの大きさになるものですが、高さは60センチくらいあって、積み木のように陶彫による直方体を積んでいくうちの2段目に当たる部品です。積み木のように積んでいく陶彫部品はボルトナットで留めることはしませんが、下の陶彫部品の上部に凹んだ部分を作り、そこに嵌めていくようにしています。それこそ地震等自然災害で彫刻が転倒しないように配慮しているのです。彫り込み加飾は今日のところは出来ませんでした。涼しくなればウィークディの仕事帰りに工房に立ち寄って、彫り込み加飾をやっていきたいと思っています。秋風が早く吹いてほしいと願っています。

週末 9月最初の週末に…

週末になりました。9月最初の週末になっても工房内の気温は相変わらずで、蒸し暑い環境の中で制作を余儀なくされています。今日は暑さを避けて朝7時に工房に出かけ、制作を開始しました。朝7時から夕方3時までの8時間を作業に費やしました。その間、朝食と昼食にそれぞれ30分程度、自宅に戻ってきました。9月から凌ぎ易くなることを想定して、制作工程を組んでみましたが、なかなか思惑通りにはいかず、身体に負担を強いて、夜はぐったりしてしまいました。制作内容としては、先週作った陶彫成形の彫り込み加飾が終わっていないため、新しい土練りをする前にまず彫り込み加飾を行ないました。続いて土錬機を回して土練りを行い、明日の陶彫成形のために座布団大のタタラを数枚用意しました。土練りやタタラ作りはほとんど肉体労働で、汗が噴き出てきました。このところ毎回そんな作業なので、大分慣れてきていますが、若い頃に比べると地力が多少衰えている気がします。まだ作業場を他に借りて作業をやっていた頃は、汗でびっしょりになったシャツを何枚も替えつつ、余力を残してその日の作業を終えていましたが、最近は休憩を取ることが頻繁になり、ノルマの作業を終えるとぐったりして動けなくなります。休憩は扇風機の前を陣取って、暫し目を瞑ってじっとしています。昔もそうだったのか記憶にないのですが、疲労の具合が違うような気がしてなりません。夜になって多少体調が回復したので、自宅の食卓でRECORDの追い込み制作を行いました。深夜0時までRECORDをやっていました。今日は充分成果を上げた一日でした。明日は陶彫成形を頑張ります。

9月RECORDは「紫」

このところ蒸し暑い工房には長く留まれず、その代わり空調の効いた自宅の食卓をアトリエの代用にして、RECORDの制作に時間を割いています。下書きばかりが先行するRECORDですが、だいぶ解消してきました。RECORD制作が厳しかったのは、春に自宅のリフォーム施工を行なっていたため、暫く食卓が使えず、そうかといってリビングでは気持ちが落ち着かず、結局毎晩下書きだけをやっている生活が続いてしまったことが原因でした。今年は色彩をテーマにしていることがあって、その都度下書きから色彩のイメージを思い出しながら、RECORDの追い込み制作をやっていました。今月は「紫」でいこうと決めました。紫にもさまざまなバリエーションがあり、とりわけ私は日本の染めの美しさに惹かれています。本紫の染めは紫根染と言われていて、高貴な印象があります。事実、僧侶の紫袈裟は最高位を示すものです。紫の布上に文様が鮮やかに映えているイメージなどを取上げて、今月のRECORDにしたいと思っています。紫色は青色と赤色の中間色になり、菫(すみれ)色に近く、面白いのは醤油の別名になっているところです。醤油を「むらさき」と言うといかにも美味しそうな印象をもつのは私だけでしょうか。今月は高貴な色彩に相応しいデザインを考えていきたいと思います。

9月の制作目標

今月は4回の週末があり、そのうち1回は4連休になります。陶彫制作においては、土曜日に土練りをして座布団大のタタラを数枚用意し、日曜日に成形や彫り込み加飾を行うのが定番になっています。その制作工程のうち一番時間がかかるのが彫り込み加飾で、週末だけではやり終えないこともあります。涼しくなればウィークディの仕事帰りに工房に立ち寄って、たとえ1時間でも彫り込み加飾をやろうと思っています。ただし、現状の蒸し暑い工房ではなかなか意欲が湧きません。ともかく4回の週末で4点の陶彫部品が作れるはずで、そこは計画的にやっていこうと思っています。4連休では新作の土台を作ろうと思っていて、木材は既に購入してあります。厚板材による土台は円形になり、その中に陶彫部品を配置していきます。私は2009年に「構築~起源~」という木彫だけの作品を発表しています。それは土台に穴を刳り貫いて、そこから木彫した柱が何本も立ち上がる作品になりました。さまざまなカタチをもつ柱が群を成してニョキニョキ生えてくるイメージがありましたが、今回の新作では木彫の柱ではなく、直方体の陶彫部品が群を成すイメージがあって、架空都市を見下ろしているような印象になるだろうと思っています。4点の陶彫制作と土台の制作開始を今月の目標にします。もうひとつ考えているのはRECORDの下書き解消です。RECORDの年間撮影を例年9月末から10月初めに行っているので、それに間に合わせようと今月は頑張るつもりです。あれもこれも欲張っていますが、涼しくなることを想定して、制作目標を立てている次第です。

茅ヶ崎の「國領經郎展」

既に閉幕している展覧会の感想を取り上げるのは恐縮ですが、横浜生まれの國領經郎の画業を自分なりに振り返ってみたいので、詳しい感想を掲載させていただきました。広漠とした砂丘に人物の群像が描かれた絵画が、私の知る國領經郎の世界です。描かれた人物像に生々しさはなく、西洋の古典画法を彷彿とさせる象徴的で様式的な美の世界がそこにあります。國領經郎の世界を眺めていると、イタリアのルネサンス絵画を見ているような錯覚に陥るのは何故なのか、國領經郎はこの大きなスケールで何を求めていたのか、何を表現したかったのか、図録にあった解説からヒントを得ることにしました。「両親との思春期の死別、不穏な時局下の僻遠無縁の地への単身赴任、そして不条理な戦争と兵役という一連の体験によって色を濃くしていった孤独感は、國領の脳裡に消しがたく伏在しつづける。この体験からおよそ20年を経て、國領を砂丘・海浜の空間、砂の主題に逢着せしめることとなった。むしろ、そこにいたるまで、20年の歳月を要したというべきだろう。~略~心の奥に内在するイメージ(心象)が造形に先行するのであれば、そこに現実のモデルの肉体を持ち込むと逆に不自然になり絵にならないのだという。あらかじめ想定されているイメージにふさわしい人物の輪郭、『しなやかな線』といい『理想の線』とも述べる線で象られた人物は、イメージの主要な構成要素であると同時に、背景にある海岸線や砂丘のかたち、雲や草花などの他の要素に呼応し、またはそれらと相補して画面全体の造形に奉仕するものでなければならないだろう。~略~國領は、ボッティチェッリのヴィナスに、性と聖、この二項が絶妙に均衡した、メランコリーとコケティッシュな羞恥をまとう肉体を認めている。」(柏木智雄著)國領經郎の世界には、やはりボッティチェッリを代表とする西洋の古典が入っていて、描かれた人物像にはニーチェが「悲劇の誕生」で象徴したアポロン的理性があるように思えます。人物は時に情念を醸し出しますが、國領經郎の世界の乾いた感性は、我々が知る情念や情動とは別の雰囲気を纏っているように私には感じられました。

9月はいつ涼しくなるのか?

9月になりました。今日はやや涼しくて凌ぎやすい一日になりました。今日は「防災の日」でもあり、今を遡る97年前に関東大震災があり、それが起因となって「防災の日」が設定されたようです。職場でもコロナ渦の中で防災訓練を行いました。災害はいつやってくるのか分からないので、備えは十分にしておこうという意図で防災訓練を決行しました。先月までは暑い日が続き、新型コロナウイルス感染症だけでなく、熱中症にも気をつけて過ごしていました。今月はいつ涼しくなるのか、創作活動に弾みをつけたい私としては秋が待ち遠しいのです。今月は涼しくなると仮定して、今後の制作目標を考えたいと思います。今月は「敬老の日」と「秋分の日」が合わさった4連休が予定されています。週末を全部創作活動に使うとすると休日が10日あり、新作の土台である厚板材の切断が出来るのではないかと思っています。土台の完成は無理かもしれませんが、大まかな構想は描けると期待しています。陶彫部品もどのくらい作れるのか、見通しをもった計算をしておこうと思います。具体的な制作目標は改めて稿を起こします。RECORDは下書きの山積みが少なくなってきました。RECORD制作に勢いが出てきているので、この調子で頑張りたいと思います。鑑賞はどのくらい展覧会に行けるのでしょうか。映画館に行くのはまだちょっと抵抗があります。読書は先月から継続して、日系彫刻家の伝記とオーストリアの現象学者の書籍に挑んでいきます。

酷暑の8月を振り返る

8月の最終日になりました。今年は梅雨の長雨から一転して気温が上昇する酷暑となり、今月は35度を超える日が続きました。8月は例年夏季休暇を取得して旅行に出るのが私の定番でしたが、新型コロナウイルス感染症の影響で遠方への旅行は控えて、日帰りで首都圏だけを周遊することにしたので、なかなか気分転換が図れない8月だったなぁと振り返っています。週末は工房に行って新作に挑みましたが、空調のない工房に長く留まれず、予定の半分くらいしか制作が進みませんでした。その分自宅でRECORD制作に励み、下書きの山積みはだいぶ減少してきました。まず、新作陶彫の成果としては6点の成形が終わり、そのうち4点が彫り込み加飾を終えて乾燥を待っているところです。涼しくなれば陶彫制作に拍車をかけたいと思っています。RECORDは山積み解消とまではいかないにしても、自分なりに頑張ってきました。私は生真面目な性格上、どんな作品に対しても気楽に描けないタイプで、RECORDも1点1点に思いを寄せて、しっかり描き込んでしまうのです。日々の制作が重く感じるのは、私自身のせいです。鑑賞は「スーパークローン文化財展」(そごう美術館)、「きたれ、バウハウス」展(東京ステーションギャラリー)、「深堀隆介展」(そごう8階)、「國領經郎展」(茅ヶ崎美術館)、その他として「江戸東京たてもの園」内の「前川國男邸」、フランク・ロイド・ライト設計による「自由学園明日館」(池袋)に行ってきました。1ヶ月の鑑賞としては多いのではないかと思っています。読書では「石を聴く」と「形式論理学と超越論的論理学」を交互に読んでいて、彫刻家イサム・ノグチと現象学者エトムント・フッサールが、現在の私の関心を惹く2人の偉人になっています。これは継続して読んでいくつもりです。

週末 6点目の陶彫成形&礼状宛名印刷

8月最後の日曜日になり、朝から工房に篭りました。猛暑は変わらず汗が滴り落ちる一日でしたが、昨日陶彫成形の準備をしていたので、6点目の成形を行いました。6点目の成形は小さめで、大きな陶彫部品の三段目になる予定です。これはボルトナットで留めることなく、直方体の陶彫部品を積み木のように重ねていくので三段目が限界かなぁと思っています。午後になっても作業をしていましたが、今日は彫り込み加飾はせず、次回に回すことにしました。陶彫成形は面白い制作工程なので、つい夢中になってしまうのですが、工房内の室温のことを考えると無理をしない範囲で作業を打ち切るのが良いと判断しました。というのは今日も美大受験生が2人来ていて、それぞれデッサンや平面構成をやっていたので、彼女たちの健康にも気遣いしました。彼女たちは中国に繋がる高校生たちで、私がいないところでは中国語でやり取りをしています。私がいると何気なく日本語に切り替えます。外国語の切り替えが自然でスムーズに出来ることに私は驚いてしまうのですが、20代の頃に私が喋っていたドイツ語より遥に流暢に言葉を扱うので、10代の子たちの頭の柔軟性に感心してしまいます。2人とも日本でずっと生きていくようで、美大にも日本人として一般受験をする構えでいます。二国間に文化を持つこの子たちは、デザイン業界できっと活躍の場があるのではないかと私は思っています。夕方、2人を車でそれぞれの自宅近くまで送り届けてきました。夜になって、個展に来ていただいた方々にお礼状を送ることにしました。芳名帳を見ると住所が分からない人たちばかりで、結局私が案内状を送った人たちに限られてしまいました。このNOTE(ブログ)をご覧になられている方で、お礼状が届かなかった方には申し訳なく思います。改めてここで個展に来ていただいた方々に感謝を申し上げます。新型コロナウイルス感染拡大が続く中で、わざわざ東京銀座にいらっしゃっていただいて有難うございました。

週末 陶彫成形準備&茅ヶ崎散策

やっと週末になりました。8月最後の週末は相変わらず気温が高く、工房にずっと篭るのは辛いかなぁと思いました。そこで朝7時に工房に行き、明日の陶彫成形のためにタタラを数枚用意し、2時間程度で工房を後にしました。タタラは陶土を掌で叩いて座布団大の大きさまで伸ばすのです。それをビニールで覆って明日に備えるのですが、一日置くとちょうどいい硬さになります。2時間のタタラつくりはほとんど肉体労働で、忽ち汗が噴き出てきました。今日の作業はここまでにして、午前10時頃に家内と車で自宅を出ました。まず向かったのは東神奈川の邦楽器店で、家内の楽器を修理に出すのに付き合ったのでした。その後は東名高速から圏央道を走り、茅ヶ崎に向かいました。途中で昼食を済ませ、茅ヶ崎海岸の近くにある茅ヶ崎市美術館に到着しました。この美術館で開催中の「國領經郎展」は、砂浜や砂丘を描いた画家の代表作品を網羅している情報を知って、ぜひ見に行こうと決めていました。本来なら既に終わっている企画展でしたが、新型コロナウイルス感染症の影響で会期が延長されていたのが幸いでした。画家國領經郎の世界は私も知っていましたが、まとまった作品を見たことがなかったので、今回は改めてじっくり作品を拝見させていただきました。これは生誕100年記念となる回顧展で、國領經郎は既に他界されている作家ですが、横浜に生まれた人でもあり、横浜美術館に所蔵作品があって、私にも馴染みはありました。詳しい感想は後日にしたいと思っていますが、明日で展覧会が閉じてしまうので、感想を述べるのは展覧会閉幕後になることをお許し願えればと思います。美術館で鑑賞した後、車でササンビーチがある海岸を望みながらドライブを楽しみました。今夏、海を見るのは初めてでした。現在も遊泳は禁止されていますが、多くの人が海岸にいました。ほんのちょっぴり夏気分を味わって帰宅しました。

「命題論的分析論としての形式論理学」第16~17節について

昨日に引き続き「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があり、その中の第1章として「命題論的分析論としての形式論理学」が掲げられています。そのうちの第16~17節について、何とか読み砕いていますが、毎回のこととは言え、難解な文章とその意味合いに立ち往生してしまい、これをどうまとめてよいやら分からず、今回も気になった箇所の引用で済ませます。命題論に関する諸区別について、区別に該当する明証の違いを考察していて、一つの判断が各主観ごとに異なる仕方で与えられていても、同じ判断として明証的な所与であることが述べられていました。「混乱した思念が《判明になる》ことで初めて《実際に判断され》、そして先ほどはただたんに予想されていたにすぎないあの判断が実際に、しかもそれ自身が与えられているのだ、と言う。~略~意味の側面では、表示される諸形象すなわち諸判断自身が、表示する諸志向が継続して充実される《明証》の中で、したがってそれと同時に根源的な能動性の中で形成される本来の諸判断として成立することもあり、もしくは受動的な読書の場合のように、判断が空虚に表示されることもありうる。」次に判明性と明確性について述べられていました。「ここでは二種類の明証性が区別され、その一つは判断自身がまさに判断として与えられる場合の明証性であり、この場合の判断は判明な判断であり、実際に正確に判断して得られる判断だとされる。二番目は、判断者が自分自身の判断を《通して》希求する事項そのものが与えられる場合の明証性であり、このような判断者こそー論理学がつねに想定しているー認識の希求者である。」次の章では論理学そのものを論じている箇所があったので、引用いたします。「そもそも論理学全体がアプリオリ(先天的概念)な学問であるのと同様、単純な分析論も実際の諸判断を、すなわち或るとき、或る場所で実際に下された諸判断を問題にするのではなく、アプリオリな諸可能性を、すなわち該当するすべての現実を分かりやすい意味で包摂する諸可能性を問題にするのである。」

「命題論的分析論としての形式論理学」第14~15節について

「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)は本論に入る前に「序論」があり、さらにそれに続く「予備的な諸考察」もありました。本論として初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があり、第一篇はAとBに分かれ、Aは第一章から第三章、Bは第四章と第五章から成り立っています。ここでは第一章「命題論的分析論としての形式論理学」の第14~15節についてまとめを行います。ここでは形式論理学の次の段階としての整合性(無矛盾性の論理学)について書かれていました。形式論理学の中で判断をどう扱うか、何度か読み返しても私にはまとめることができず、注目した箇所の引用でご勘弁願います。「判断の整合性についての類的な諸真理として、例えば適応する形式の各前提判断の中に、特定の形式の諸判断が(《分析的に》)包摂されていることについての真理として保有していることは、洞察されうる。同様に、別の推論の諸形式は分析的な反対帰結、分析的な《矛盾》の本質的諸法則の価値を有してはいるが、しかしこれらは実は《推論》の諸形式ではなく、いわば《排除》の諸形式である。~略~すなわち伝統的な形式論理学は純粋な《無矛盾性の論理学》ではないということと、この純粋性を明示して、論理学の問題設定と理論において最も重要な内的な区分がなされるべきだ、ということである。」そこで第14節の最後に「的確に理解された単純な分析論の基本的諸概念に妥当性の基本的諸概念として(規範概念として)含まれるのは分析的な整合性と矛盾だけであり、それに反して既述のとおり、真理と誤謬はその諸様相も含めてここには登場しない。」とありました。第15節では、前節を受けて次のようにまとめています。「もともと区別されるべきこの両概念が、論理学ではわざわざ形式化される本質法則的な連関によって初めて、単なる分析論が形式的な真理の論理学に転換すること」としていました。今回はここまでにします。

イサム・ノグチ 巨大なプロジェクト

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第38章「ノグチと仕事をする」と第39章「浮遊する岩たち、祈りの翼」のまとめを行います。1960年代に入ると、ノグチに大きな仕事が入ってきます。「この(バイネッケ)図書館にノグチは白大理石のサンクンガーデン(半地下庭園)を提案した。植物のかわりに三体の大理石の形態ー輪、ピラミッド、頂点のひとつを支点にしてバランスをとる立方体ーを配置する。庭は世界から切り離されて知性に訴えかけるように感じられ、したがって図書館という立地にはぴったりだった。」イサムにはオーエンズという制作協力者がいて、イサムの気難しい性格にも耐えて仕事をしています。「イサムは馬のように強く、ロバのように頑固で、十歳児の活力をもつ。見つかるかぎりで最高のビジネスマンだ。ぼくが会ったなかで最良の政治屋であり、途方もなく優れた彫刻家だ」とオーエンズは称賛もしていました。次に私が大好きな作品であるチェース・マンハッタン銀行のサンクンガーデンにイサムは取り組みます。「七つの岩のいくつかは京都近くの宇治川と鴨川の川底から運ばれた。何世紀にもわたって水の流れに寝食されてできた複雑なひびのために、岩たちは中国の学者が瞑想を促すために書斎においた賢者の石のように見える。ノグチはチェースの庭園を『ぼくの龍安寺』と呼んだ。あの禅寺の庭のようにチェースの岩たちは島に見える。」さらに次のプロジェクトは、興行主であったビリー・ローズの依頼で、「エルサレムに建設中の新しい国立博物館わきに彫刻庭園をつくることについてノグチに接触してきた。」とありました。そこでノグチはこんなことを言っています。「『ほんとうにどこにも帰属せず、未来永劫途切れることなく国を追われている人としてのユダヤ人にはいつも惹かれてきた。アーティストとはそんなふうに感じるものなのだ』1965年に完成したとき、ビリー・ローズ彫刻庭園はノグチがもっとも誇りに思う成果のひとつとなった。~略~擁壁に内包される大地は『大きな翼』あるいは『大きな船の舳先のよう』になるだろうと書いている。道や通路はなく『砂利と樹木の自由なエリアだけ』。彫刻自体の配置が空間を規定する。ここでもまた、ノグチは『静謐と観照』のための場所をつくりたがった。~略~ノグチは、庭園は彫刻をおくために意図されているが、たとえその彫刻が加えられなくても意味をもち、イスラエル人だけではなくすべての人に帰属すると書いた。」

イサム・ノグチ 様式の変遷とプリシラ

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第36章「変化したヴィジョン」と第37章「プリシラ」のまとめを行います。1958年に米国に戻ったノグチは新たな表現方法を模索しました。「アルミニウムを折り、穴を開けることでノグチは奥行き感と量感を創出した。この方法は、1940年代のスラブ彫刻、そして折り紙と多くの共通点をもつ。それはまるで、禅寺の庭で半ば地面に埋められ、重力に縛りつけられた岩とは正反対の様式の探求を、ノグチが選んだかのようだった。」また一方で大理石を彫る仕事にも取組み、「変化したヴィジョンに、ぼくはいかにすばやく適応することか。これは触覚的価値の完全に感情的な領域だった。」と自ら語っています。「アルミ彫刻で軽さを探求したことをきっかけとして、ノグチはバルサ材でも仕事をした。~略~バルサ材彫刻最大の《犠牲者》は戦争で破壊された人間の姿をあらわす。ノグチはこの作品について『悲劇は重さの緊張、絡み合う四肢によって暗示される』と書いた。」この時期ノグチは重要なパートナーと出会っていました。「歳月が経つにつれてノグチとプリシラは深い友情を育んでいった。忠誠と相互理解という意味では一種の結婚ともいえる協力関係だった。もっともどちらも実際の結婚は望まなかった。~略~大きな活力、臨機応変の才、組織能力で、プリシラはノグチにとって計り知れない助けとなった。」プリシラの支援を得て、ノグチには大きな仕事が舞い込んできます。「『テキサス彫刻』という名で知られるようになるこのプロジェクトには、ノグチが大きな手間をかけて運び出した灰緑色の花崗岩から彫られた大型の作品二点が含まれる。ノグチはこの二対を一種の門、そして『エネルギー(金はエネルギーだ)の象徴』とみなした。抽象ではあるが、人体を連想させる。二体はプリミティヴなトーテムのように銀行の煉瓦敷きの前庭を見張る。」さらにノグチの活躍は続いていきます。

回遊(遊歩)式庭園について

「ノグチと佐野藤右衛門の最大の闘いは低木をめぐるものだった。佐野は伝統的な『見え隠れ』の考え方に従った。遊歩式庭園の一部は隠され、それから来園者が移動すると姿をあらわす。佐野は庭園の石のいくつかが隠れるような形で低木を配置した。『ぼくの彫刻になにをするんだ』とノグチは視界をさえぎる低木の一本を蹴飛ばしながら怒鳴った。」この一文は「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)より、ユネスコ庭園を造った時の彫刻家イサム・ノグチと日本からやってきた造園家佐野藤右衛門の葛藤を描いています。彫刻と造園、この2つの分野には鑑賞に対する相違があると私も感じています。私の亡父は造園業を営んでいて、数々の庭園を造っていました。私の学生時代は亡父の手伝いに費やされ、造園の考え方を叩きこまれましたが、学校で学んでいた彫刻との圧倒的な違いは、その見え方にありました。彫刻は、西洋の考え方を体現する立体造形で、形態そのものを明快に見せる芸術です。日本庭園には、その代表として回遊(遊歩)式庭園があり、それは歩きながら見え方が変わる風情を楽しむもので、樹木に隠れた池や石などを視点を変えながら味わうのです。それは彫刻と言うより絵画的な要素も含む空間演出ではないかと思うところですが、そこでは全体の構築性はそれほど重要ではなく、寧ろ俄かに差し込む光や影といった刹那を楽しむ要素もあるのです。回遊(遊歩)式庭園は、室町時代の禅寺により造園され、江戸時代には大名に好まれたようで、日本各地に点在しています。私が訪れた回遊(遊歩)式庭園は、兼六園(金沢)、栗林公園(香川)、足立美術館(島根)の他、京都には桂離宮、金閣寺(鹿苑寺)、慈照寺、天龍寺、西芳寺、二条城などがあって、どれも回遊する楽しさを満喫しました。パリのユネスコ庭園にも行きましたが、残念なことがひとつありました。日本庭園は定期的に手入れをしないとその美しさを保てないのです。見え隠れする造形は、それを維持するために放置できない宿命があり、それが証拠に足立美術館の庭園には日常的に職人が入っています。完成された美は、いつまでも完成されない施工によって完璧な美が保たれているのです。

週末 5点目の陶彫成形

今日は酷暑から解放されて凌ぎ易い一日になりました。久しぶりに朝から午後まで工房で過ごし、新作の5点目になる陶彫成形を行ないました。陶彫の制作工程の中で、成形こそが唯一立体を作り上げる工程で、彫刻的に言えば一番面白い作業です。現在作っている新作は単なる直方体に過ぎませんが、それでも立体が立ち上がることに喜びを感じます。新作は今までの作品に比べると、禁欲的な箱型が多く、形態の自由度が少ないと感じます。曲面を排除しているせいで、最近見に行った「きたれ、バウハウス」展のバウハウス・デザインに似た傾向の造形になっているなぁと思います。ただし、あくまでも私が作っているのは彫刻であって日用品ではありません。バウハウスのように日常生活に簡潔なデザインを取り入れて、当時の時代を先取りした様式を私が試しているわけではありません。他の素材ではなく最終コントロールが難しい焼成が必要になる陶土を使って幾何的な直方体を作るのは、素材有効性を無視した困難な道を行くようなものですが、そこに創作物としての緊張度が増すように私は考えているのです。今日も陶土で平らな面を立ち上げ、出来るだけ歪まないような手作業を施しました。今日は酷暑ではなかったのですが、精神的な働きのせいで汗が流れてシャツをびっしょりにしました。今日は久しぶりに10代のスタッフが3人、工房に顔を出しました。2人が美大受験生、1人は文学系の高校生で、それぞれの課題を黙々とやっていました。工房に関わりのある子たちは、昔からおしゃべりではなく、工房で過ごす数時間を自己を見つめて何かしらの表現をしています。現在出入りしている子たちも例外ではありません。そんな私は若いスタッフに気分的に助けられています。暗黙で私の背中を押してくれているように感じるからです。自己表現は実のところ大変なエネルギーを必要としています。満足も得られますが、地道な努力ばかりで、成果を得るのには時間もかかります。それでも美術が好きで彼女たちは集まってくると言っても過言ではありません。また来週末に頑張る予定です。

週末 土練り&RECORD制作

週末になりました。今週から職場での仕事が始まっていて、漸く1週間が経った気分で、今週は長く感じました。職場では職種に関係する論文を書かなければならず、締め切りの金曜日にやっと間に合わせたことが、今週を振り返ると苦しかったなぁと思っています。このNOTE(ブログ)のように思いついたまま気楽に書けるといいのですが、仕事となるとそういうわけにはいきません。序論から本論に繋がるところはどうだったのだろう、まとめとしての考察は月並みなものになってしまったなぁと、自分の役職としての浅はかな思考に嫌悪感さえ覚えます。やっと週末になり、創作活動に頭を切り替えて、新作の陶彫に取り組みました。新作は5点目の陶彫制作に入ることになり、今日はその土練りを行ないました。土練りと明日の成形のためのタタラ作りは、慣れているとはいえ、単純な肉体労働で骨が折れます。炎暑はちょっと落ち着いた感じがありますが、それでも午前中だけで汗が滴り、自宅から持参した水分はカラになりました。午後1時まで頑張って工房にいましたが、今日の最低ラインのノルマを達したところで工房を後にしました。まだまだ夏の暑さは半端ないなぁと感じています。午後は自宅で少々休んでからRECORDの追い込み制作に精を出しました。このところ休日は午前中に陶彫制作を工房でやって、午後からは自宅でRECORD制作をやっています。アクリルガッシュは色別に分けないで大きな箱にバラバラにして入れていますが、足りない色彩が出てきたり、面相筆の機能が落ちたりしていて、毎日やっているといろいろなところに支障が出てきます。RECORDに使う厚紙ボードもうっかりしていると足りなくなります。塵も積もればの諺通り、毎日の実践習慣は大したものだなぁと思わざるを得ません。明日は工房で陶彫成形に励みます。

ヴァシリー・カンディンスキーの授業

先日見に行った東京ステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展では、バウハウスの教壇に立っていたロシア人画家ヴァシリー・カンディンスキーに関する資料が展示されていました。昨日は同じ立場にいたパウル・クレーについて書きましたが、カンディンスキーも自身の作品の他に、彼に師事した学生作品も展示されていました。カンディンスキーは「芸術における精神的なもの」を著した抽象絵画の旗手として、20世紀の前衛美術を牽引したことでも知られています。図録からカンディンスキーの授業に関する箇所を引用いたします。「カンディンスキーは、形態では点ー線ー面の分析から、色彩ではその基本要素である寒ー暖(青ー黄)、明ー暗(白ー黒)の対比から講義を進めた。また彼独自の観点から形態と色彩を結びつける見解を示して、大きな反響を巻き起こした。『分析的デッサン』は、正確に対象を見ることと構成的に絵をまとめることを目的として行われた。教室の一角に無造作に積み上げた机や椅子、ハンガーや箒、あるいは自転車などの混沌とした物のかたまりの中から、いくつかの単純な基本的形態と、カンディンスキーがいうところの『緊張』(シュパヌングSpannung)という造形関係を見いだし、全体の構造を理解し表現する。それは全体の簡単なデッサンから始まって、いくつかの段階を経て、緊張関係の抽出へと至る。それはまるで抽象画のプロセスである。学生の習作を見ると、この授業がバウハウス初期のヴァイマール時代から始まって、彼の授業の中核として行なわれ続けていたこと、そして表現に工夫がなされてきたことがわかる。」理論家であったカンディンスキーは、自らが論考した抽象への過程を、造形の基礎教育を補完する役割として学生に対して実践していたことが明らかになっています。学生が試みた分析的デッサンは、大まかなアウトラインを描いた後、定規やコンパスを使いながらアウトラインを取捨選択し、制作過程が一目で分かるような習作になっていました。当時、バウハウスに留学していた日本人学生も、この授業を日本に紹介していて、日本の造形教育の中にも取り込まれていたようです。

パウル・クレーの授業

先日見に行った東京ステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展では、バウハウスの教壇に立っていたドイツ人画家パウル・クレーの作品の他に、クレーに師事した学生たちの作品もあり、大いに興味を持ちました。図録によるとクレーが授業を担当したのは1921年に着任し、1931年に退職するまでの10年間だったようです。図録からパウル・クレーの授業についての箇所を引用いたします。「パウル・クレーは、イッテン(後にはアルバース)の予備課程を終えた学生を対象に、造形論の講義をおこない、形態と色彩について教えた。彼は、生来の几帳面な性格から、膨大な量の講義ノートを残しており、それによって授業の詳細を知ることができる。週1回の授業があり、講義の週とそれについての演習の週が交互にあった。みずから『形式的手段とのおつきあい』と呼ぶ彼の授業は、造形を『運動』と『成長』という観点から説明する独特なもので、線から面、空間そして構造から運動(螺旋や矢印)へと講義は進んだ。クレーにかかると線は意志をもって走り、あるときは逡巡し、形は生物学的に、そして数学的に解析される。数式が多用されるが、これまでに学生が習ってきた数学とはまったく異なる世界が広がる。色彩についても振り子と螺旋という2つの運動から説明した。必要があれば両手にチョークをもち、2本の線や文字を同時に書きながら説明することもあったという。毎回の講義の終わりに出される演習の課題もまたユニークだった。」図版を見ると、学生作品はいずれも製図の書き始めのようで、禁欲的な線と面が丁寧に画面に書き込まれています。旧態依然とした芸術アカデミーのデッサンから始める造形活動とは、まるで異なるアプローチで造形教育を捉えていたことが分かります。教育者としてのクレーはどうだったのか、私には推し量ることは出来ませんが、存在感のあったクレーのもとで学ぶことは、それなりの覚悟はあったのではないかと信じたくもなります。クレー自身の絵画は技巧的にも理論的にも模倣が出来ないと私は思っています。

復元された建築家の邸宅

夏季休暇を利用して東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に行き、野外展示されていた建造物の中に復元された建築家前川國男邸があったので見てきました。前川邸は木造のモダンな佇まいで、板壁の素材感に私の感性が擽られました。第二次世界大戦があった当時にも関わらず、よくぞこんな資材が手に入ったなぁと思わせるほどの完成度で、日本を代表する建築家宅に相応しい風格を感じさせてくれました。「江戸東京たてもの園」のギャラリーショップで「前川國男邸復元工事報告書」を見つけたので購入してきました。報告書の中の概説から引用いたします。「昭和17年頃は戦時体制下で、建築資材の入手が困難であったり、または使用を制限されている時期であった。~略~1973年(昭和46)に前川國男邸は解体され、軽井沢にあった父の代に建てた別荘に運ばれ、部材として保存された。~略~1994年(平成6)七月頃、前川國男邸が部材として軽井沢の別荘に保存されていることを知った東京都江戸東京博物館野外収蔵委員会委員である藤森照信氏より江戸東京たてもの園の収蔵建造物としてどうかという連絡があった。」(早川典子著)これが前川國男邸が復元保存された経緯です。前川國男は東大で建築を学んだ後、フランスでル・コルビュジエに師事しています。その影響が読み取れる座談会が報告書に記載されていました。「戦前の段階ですと、バウハウスのデザインを継いだ人たちが日本でも主流だったんです。~略~要するにバウハウスのデザインの非常に禁欲的で、当時の言葉で言いますと、箱とガラスのような非常に禁欲的なデザインをやっていたわけです。むしろその中では~略~コルビュジエの影響を受けた人たちというのはむしろ少数派であったわけです。むしろその少数派が戦後に、日本の場合、世界的に見ると非常に特異な例ですけれども、主流になっていった。おそらくその大きな力になったのが前川さんだと思います。」(藤森照信談)座談会では前川國男邸から話の端を発し、戦後日本の建築界の流れまで盛り込まれていて、大変興味のある内容になっていました。

東京駅の「きたれ、バウハウス」展

先日、東京駅にあるステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展に行ってきました。バウハウスとはドイツ語で「建築の館」という意味です。1919年に建築家ヴァルター・グロピウスによって設立された造形学校で、旧来の芸術のアカデミーとは一線を画する教育方針を採っていました。その革新的な学校もナチスの弾圧を受けて1933年に閉鎖に追い込まれました。活動したのは僅か14年間でしたが、アートとデザインの領域に大きな足跡を残しています。今となっては現代美術を牽引した魅力的な教授陣、残された講義メモや学生の作品に、現在も続くデザイン教育の源泉を見る思いがしたのは私だけではないはずです。図録には多くの論考が寄せられて、バウハウスに関する多方面にわたる研究が掲載されていました。その中でまず「バウハウス宣言」の一部を引用いたします。「建築・彫刻そして絵画のすべてが一つの形態のうちに存在するようになる未来の新しい建設(Bau)を、われらもろともに意欲し、考えだし、創出しようではないか。」(V・グロピウス)とあるようにバウハウスは全造形的領域を建設(建築)に統合する理念を打ち出していました。初期のバウハウスで教壇に立ったヨハネス・イッテンは、私の学生時代に彼の著作である「色彩論」が大学の講義で必要になり、当時購入した書籍が今も自宅の書棚に眠っています。「グロピウスがバウハウスに招聘したマイスターのうち、美術教育の経験者はイッテンのみだった。ウィーンで既に成果をあげていた彼は生徒を伴ってヴァイマールに移ってきたのだ。最初期のバウハウスでのイッテンは、教師が揃うまで予備課程および多くの工房を担当し、大きな影響力を持っていた。イッテンは予備課程の目的として次の3点を挙げた。1.先入観や既成概念から解き放って学生の想像力を解放させること。2.さまざまな材料を扱い、次の工房教育における専攻の選択を容易にすること。3.形態や色彩に関する基礎的な知識を身につけること。~略~1921年に着任したパウル・クレー、翌1922年に着任したヴァシリー・カンディンスキーが予備課程を補う形で形態・色彩の授業を行い、オスカー・シュレンマーのヌードデッサンの授業も必須とされた。」(杣田佳穂著)バウハウスの新しさはまさにこうした予備課程(基礎課程)にあったのではないかと思います。ここでは図録の論考の一部しか紹介できませんが、作品と理念を同時に見ていくことがバウハウスを正確に捉えることができると私は思っています。

横浜の「深堀隆介 金魚愛四季」展

先日、横浜駅に隣接するデパートそごう8階の催し物会場でやっていた「深堀隆介 金魚愛四季(きんぎょいとしき)」展を見てきました。本物そっくりに描かれた金魚の群れを見ていると、夏の風情に相応しく清涼感に満たされていて、また多くの鑑賞者も詰めかけて、老若男女が金魚の作品群を楽しんでいました。さまざまな器に透明樹脂を流して、その上にアクリル絵の具で金魚の部分を描いていき、また上から透明樹脂でさらに覆うことを繰り返して、何層にもわたって金魚の全貌を完成させていました。そうして表現された金魚は、水の中を泳いでいるような錯覚に陥り、まさに超絶技巧の産物であることが分かりました。展覧会には額装された絵画や屏風絵もあり、金魚をモチーフにさまざまな実験を試みた作品も並んでいました。図録に画家のコトバが掲載されていたので、一部を引用いたします。「モネは睡蓮の絵が特に有名ですが、モネは睡蓮という植物を描きたかったわけではないと思います。その証拠に彼は睡蓮の品種にこだわってはいません。彼は睡蓮を画面上の水面の位置を示すために利用することで、絵画を光学的に解釈し、絵画を科学に変えてみせました。そこには西洋的な物質主義的な考え方があると、僕には思えるのです。~略~僕の描く金魚は、モネの睡蓮と同じような関係にあります。品種が重要なのではなく、『金魚』という存在が重要なのです。僕の描く金魚は、自分であり、また人間そのものの隠喩として考えています。僕にとって樹脂作品の水面より下は霊的世界を暗示しています。描かれた金魚や藻など、水面より下の世界は絵画だけれども魂の宿る世界だと信じて描いています。これは東洋的アニミズムだと思います。」(深堀隆介著)金魚というテーマと表現方法を見つけたことで、画家自身は「金魚救い」と呼んでいますが、その気持ちは私にもよく分かります。発展性のあるテーマだけに、試行を繰り返して、さらに世界が広がっていければ楽しいだろうと思っています。強烈な夏の暑さの中で、一服の清涼剤のような展覧会でした。

週末 RECORD追い上げに本腰

今日も朝から気温が上昇し、静岡県では40度を越す気温が記録されました。空調のない工房での陶彫制作は、どのくらい体調が保てるのか、実際に朝から工房に篭っていましたが、2時間程度で切り上げることにしました。大型扇風機を回していても温風をかき回しているだけで、涼しくはなりませんでした。カチカチに凍らせたペットボトルの水が忽ち溶けて、あっという間に水分補給でカラになりました。新作陶彫の4点目にあたる彫り込み加飾をやっていると汗が噴き出て、シャツが汗を含んで絞れるほどになりました。今日は若いスタッフは誰も来ていません。2時間経過して工房にいることは無理と判断して自宅に戻ることにしました。自宅で昼食を済ませ、午後はRECORDの追い上げに時間を費やすことにしました。週末に彫刻ができないのは残念ですが、こればかりは仕方がありません。夏季休暇中も長く工房に留まった日は少なく、炎暑のせいで制作工程は遅れ気味です。その分、RECORDは遅れを取り戻そうと追い上げに本腰を入れることにしました。下書きの山積みは徐々に減ってきましたが、それでもまだ1ヶ月以上も下書きのまま残されていて、アクリルガッシュで彩色し、ペンで仕上げる日々が続いています。一日1点制作をノルマにしているRECORDは、1点1点が容易く完成できず、絵の具を垂らしてみたり、滲ませてみたり、その時の色彩イメージを思い出し、工夫を凝らせています。下書きを見ると、写実表現があったり、象徴的表現があったり、平面的な幾何抽象もあり、その時試みようとしていた多様性に、自分の節操の無さも感じつつ、我ながら振り幅の大きさに驚いています。あの時はこんなことを考えていたんだっけ、と思いながら筆を動かしていました。どんな表現であれ、ここまでRECORDをやっていると自分の個性や癖が見えてきて、気に入らない作品もあります。また下書きではたいした作品にはならないだろうと思っていたものが彩色すると輝いて見える作品があり、不思議な気持ちにさせられます。今日は夜まで頑張っていたRECORD制作ですが、まだ下書きの解消にはなりません。それでもかなり山積みは小さくなりました。明日から職場に復帰して本格的に仕事が始まりますが、帰宅後のRECORDは手を抜かず頑張っていきたいと思っています。

週末 陶彫制作&横浜の展覧会

週末になりましたが、昨日まで夏季休暇を取っていて、休暇中から陶彫制作を継続してやっています。今日も身体がおかしくなりそうなほど気温が上がり、この体感は体温に近づいていると思いました。工房は野外とほとんど変わらない室温になっているので、じっとしていても汗が流れ、シャツがびっしょりになります。まして創作活動は精神性を伴うため、あれこれ考えながら陶土に向き合っていると、汗が噴出してきます。今日も工房にいる時間は、4時間が限度と判断しました。これでは新作の土台を施工するまではいかないなぁと思っていました。彫り込み加飾をした箇所も見る見る乾いていくので、後で仕上げをするためにも水を打ってビニールで保護しておかなければなりませんでした。昼過ぎには工房を後にして自宅に戻ってきました。エアコンの効いた自宅に戻ると、ホッと溜息が出ました。これでは若いスタッフを呼ぶことは出来ないと思い、明日は来ないように連絡を入れました。午後は自宅の食卓でRECORDの追い込みに精を出していましたが、横浜のデパートで金魚の画家が展覧会を開いているのを思い出し、家内を誘ってみました。夕方、横浜そごうには暑さを避けて車で行き、8階催し物会場で開催している「深堀隆介」展を見てきました。本展には「金魚愛四季(きんぎょいとしき)」と洒落た題名がつけられていて、多くの鑑賞者が訪れていました。さまざまな器に透明樹脂を流し込み、そこにアクリル絵の具で一層ずつ丹念に金魚を描きこんでいました。透明樹脂の厚みで金魚が立体的に見えていました。描き方の巧みさで言えば、これはまさに超絶技巧の域に達していて、海外で評価されている理由が分かりました。詳しい感想は後日改めますが、この世界は一般的に受け入れられる要素はたっぷりあるように思えました。工房での陶彫制作は明日も継続の予定ですが、どのくらい進めることができるのかは気温次第です。毎日汗をかきすぎていて、夜はクタクタになっています。

夏季休暇最終日 新盆&陶彫加飾

5日間あった夏季休暇が今日で終わります。工房で新作の陶彫制作に邁進しつつ、「江戸東京たてもの園」に建築家前川國男邸を見に行き、別日に東京ステーションギャラリーの「きたれ、バウハウス」展、池袋の「自由学園明日館」を見に行きました。今年はコロナ渦の影響で旅行に出なかったものの、建築の見学三昧で過ごした夏季休暇でした。また人体に害を及ぼすような高温の日々が続き、工房での制作に支障が出ました。工房にいられる時間としてはせいぜい4時間が限界で、陶彫制作をやっていると、身体中から汗が噴き出てきました。そのため半日をRECORDの追い上げ制作に充てました。RECORDはエアコンの効いた自宅の食卓で制作が出来るので、午前中は工房、午後は自宅という制作スケジュールを組みました。さて、4月に母が亡くなったので、今年は新盆になります。昨日は家内が居間に「精霊棚」を設えました。私は制作の合間に竹を切り取ってきました。小さな机に竹の小枝を立てて結界を作り、供物とともに位牌を置きました。生花も買ってきました。朝10時に菩提寺の住職が新盆法要のためにやってきてお経を唱えました。昼頃には妹夫婦と姪が供養にきました。家内の作った「精霊棚」は簡素ながらよくまとまった立派なもので、大学の空間演出デザイン科で舞台美術を学んだ彼女は、こうした設えが好きなのかもしれません。家内は浄土宗の「精霊棚」をネットで調べて、その謂れを理解していましたが、何より亡くなった母から伝え聞いていたやり方で用意したようです。生前の姑と嫁の関係が垣間見られた思いでしたが、「精霊棚」は明後日の日曜日まで居間に置いておくようです。昨晩遅くやっと「精霊棚」を作り終えた家内の耳に密かにカタッと音がしたそうで、いよいよ先祖が来ているのかなぁと思っています。私は宗教はイメージだと思っているのですが、知識では理解が出来ない何かが存在していることを信じてみたいのです。午後は気温上昇にもへこたれず、工房に行って新作陶彫の彫り込み加飾をやっていました。そろそろ新作の土台の設計施工に手をつけたいのですが、暑さのため作業時間が短くて、彫り込み加飾をやるだけで精一杯です。明日から週末に入ります。引き続き頑張っていきます。

池袋の「自由学園明日館」

昨日、東京池袋に「自由学園明日館」を見に行ってきました。「自由学園明日館」はテレビで紹介されていて、一度行って見たいと思っていたのでした。池袋駅から歩いて数分という立地に驚きましたが、創立された1921年当時は武蔵野の雑木林が残っていたようで、現在のような高層ビルに囲まれている環境ではなかったのでした。創立者は新聞記者だった羽生吉一とその妻もと子で、とくにもと子は「婦人之友」を創刊した人として知られ、子女教育の重要性に着目して本校を設立しています。夫妻は伝手を頼って帝国ホテル建設中のフランク・ロイド・ライトを訪ね、女学校校舎の設計を依頼したのでした。写真集から言葉を引用します。「美の規範としての左右対称というのは、万人を納得させる手易くて効果のある手法。多くの権威を誇示する建物に用いられてきたが、明日館はそうした威圧感がない。それは、中心性を強調しない左右対称の造形にまとめたことにある。~略~畳を基準尺度として展開する和風の建築は、ライトに深い感銘を与えた。6帖の間、8帖の間などと広さのみ規制されたそれぞれの部屋は、いわば無目的的であり、しかし多目的的である。使い勝手は使い手が決める。2つの部屋の境界となっている襖や障子を取り払えば、さらに大きい空間が確保できる。そうしたフレキシブルな空間に魅せられたライトは、ホール、食堂、厨房を隣接させ、層状に重ねて、ドラマチックな空間を醸成した。」(谷川正己著)和風の空間を西洋建築に取り入れて、全体的にすっきりまとめた印象があるのは、こんな理由によるものかもしれません。日本では架構式工法が一般的ですが、ライトは西洋の組積式工法で建築を作り上げていました。「自由学園明日館」の屋根蓋も築かれた壁全体で支える方法だったことも写真集にありました。当時は安価な材料で作られていたこともあって、自由学園が久留米市に移動してしまうと、明日館は忘れ去られた存在になり、材料が朽ちた状況でした。1997年に国指定の重要文化財になると修復工事が始まり、2002年に当時の麗姿が蘇ったようです。併設されている講堂も見てきましたが、ここではコンサートや講演会が開かれていたり、結婚式の予約も受け付けていました。施設を有効利用しながら保存をしていく動態保存というカタチをとって、現在は運営されているようです。

建築に纏わる東京散策

今日は夏季休暇を取得して、前から計画していた東京の展覧会等の散策に出かけました。先日も夏季休暇を使って「江戸東京たてもの園」に行ったばかりですが、今日も建築に纏わる散策になりました。例年なら夏季休暇をまとめて取得して旅行に出ていますが、コロナ渦の影響で今年は旅行には行かず、近隣を回って楽しんでいるのです。展覧会は東京ステーションギャラリーで開催している「きたれ、バウハウス」展を見てきました。今回は予約制なので自宅近くのコンビニで入場券を2枚購入しました。「きたれ、バウハウス」展は、100年前にドイツに設立された画期的な造形教育を行なったバウハウスの全貌を紹介するもので、私は40年前の滞欧中にバウハウスの資料を集めていました。ドイツ語による分厚い書籍は、今となっては読むことが出来ず、和訳のある書籍をあれこれ買って、バウハウスの教育について多少齧っていました。このNOTE(ブログ)に頻繁に登場するP・クレーやW・カンディンスキーが教壇に立っていた学校だったので、私は当時から興味津々だったのです。バウハウスはバウ(建築)とハウス(家、館)という意味で「すべての造形活動の最終目標は建築である。」(創始者グロピウスの言葉)とある通り、それまでの美術教育とは違う視点でのカリキュラムが組まれていました。詳しい感想は後日改めますが、家内は美大デザイン科出身なので、展示されていたバウハウスの学生たちの課題に、辛かった自分の学生時代を重ねていたようです。日本のデザイン教育にもその影響があった証でしょう。次に私たちが向かったのは池袋にある自由学園明日館で、重要文化財として保護されている学校施設です。設計は巨匠フランク・ロイド・ライトで、その弟子の遠藤新が受け継いで1921年に女学校として設立されました。ライト独特な「草原様式」と呼ばれる平たい校舎と中央に切妻屋根をもつ中央棟ホールが特徴的で、その空間のセンスにただ驚くばかりでした。自由学園明日館の詳しい感想も後日に回したいと思います。池袋駅からそんなに離れていない場所に、こんな建造物があったこともびっくりでした。せっかく池袋まで出てきたので、ジュンク堂書店に立ち寄り、美術関連の書籍を数冊購入してきました。中世イタリアの宗教画家ピエロ・デッラ・フランチェスカの書籍、フランス後期印象派ポール・ゴーギャンの彫刻に注目した研究書など、多少価格は張っても前から読みたいと思っていた書籍だったので、ちょっと楽しみになりました。今日はバウハウスの展覧会とフランク・ロイド・ライト設計による学校建築を見て回り、まさに建築に纏わる東京散策に終始した一日で、私にとっては幸せな時間でした。

イサム・ノグチ 離婚とユネスコ庭園

「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第34章「ぼくの慰めはいつも彫刻」と第35章「ユネスコ」のまとめを行います。「1955年という年はほかにもさまざまなプロジェクトが実現せず、ノグチはそれを自分の個人的な難局ーノグチと山口(淑子)は離婚届を提出したーのせいにした。それは円満な離婚だったーどちらもが、じぶんたちの生活がそれぞれを別な方向に導いたという点で同意していた。」お互い世界的な名声のある彫刻家と女優ならば、すれ違いや自己主張の強さで一般人のような結婚は望めなかったのでしょう。このあたりはノグチの仕事も上手くいっていなかったようで、数々の空間デザインが雛形制作だけで終わっていました。そんな中でパリに新築されるユネスコ本部のパティオのデザインの依頼がノグチにやってきます。ノグチはパリに視察に行って、その隣の一段低くなった広いスペースに日本庭園を作ることを考えついたのでした。石や植木を日本に求めて、日本からの経済的支援を取りつけ、造園家重森三玲を紹介されます。重森三玲とともに選んだ石を日本から輸送していきますが、フランスの現地では作業員が大理石の彫像は扱えるが、でこぼこの地面の上に設置する庭石が扱えないことが分かったようです。「ユネスコ庭園にもどったノグチを多くの厄介事が待っていた。ユネスコの予算の問題から遅れが生じ、その春、重森が送りこんできた職人たちとの仕事はひと筋縄ではいかなかった。職人たちは伝統的な庭師として修業をし、ノグチの借り物のフォルム、日本の造園規則の変更などに賛成しなかった。しょっちゅう言い争いがあった。職人たちは予定より1ヶ月早く帰国してしまった。~略~10月、重森はさらにすばらしい信任状をもつとさえいえる職人を送りこんできた。三十歳の佐野藤右衛門は、1955年に京都府からノグチを手伝うよう依頼されたときにノグチに出会っていた。~略~腹を立てて帰ってしまったふたりの日本人庭師と同様に佐野は伝統主義者であり、庭園は近代彫刻であるというノグチの信念に同意しなかった。石の配置から水の流れ方、『蓬莱山』の形態まですべてが争いの的になった。~略~ノグチは石を設計図どおりにおくことにこだわった。佐野はより直感的なアプローチを信じ、『紙の上の計画はけっしてうまくいかない』と言った。~略~たとえユネスコ庭園の精神が日本からきたとしても、コンポジションはノグチ自身のものだ。そこには『個人的な工夫』があり、したがって真の日本庭園というよりは『ちょっと日本的な庭園』だった。」造園と彫刻、この根本的な相違は決して小さいものではないと私は実感しています。亡父が造園業を営んでいた私だからこそ気づいたこともあります。私は20代後半で渡欧後すぐにパリのユネスコ庭園を見に行きました。私自身いろいろ思うところもあり、これは稿を改めたいと思います。

三連休 最終日は彫り込み加飾

三連休の最終日で、今日は「山の日」になります。今日も熱中症警戒アラートが発令されるほど温度が上昇し、工房内は茹だるような暑さがありました。私は新作3点目の陶彫部品と4点目の陶彫部品に彫り込み加飾を施す予定でいました。彫り込み加飾は制作工程の中で一番時間がかかります。彫り込みする箇所をひとつずつ丹念に削り取っていくので、作業としては地味で、コツコツした姿勢が求められます。言わば私の得意分野ですが、工房内の気温の高い中での作業としては、身体に負担がかかります。私は昔から汗かきで、頭を覆っている手ぬぐいやシャツが忽ちびっしょりになってしまうのです。汗をかくと不思議と身体が動くようになり作業は進みますが、後で疲労が残って身体がおかしくなります。どこかで時間を決めて作業を切り上げないと長く続かないこともよく分かっています。そんなこともあって彫り込み加飾は今日だけでは終わらず、引き続き夏季休暇中もやっていくことにしました。乾燥を避けるため、陶彫部品の作業をしない面はビニールで覆って、彫り込みがやり易い状態を保つことにしました。今日は若いスタッフが2人来ていましたが、昨日とは違うメンバーでした。昨日から平面構成を始めた高校生は引き続き、工房にやってきました。もう一人は美大生でグラフィックデザインを学んでいる子です。4年生になった彼女は卒業制作のプランを練りに工房にやってきたのでした。美大はリモート授業になっていて、慣れないせいか調子が出ないと彼女は言っていました。私がお世話した子たちが今年4年生になって卒業を迎えます。それぞれの美大に卒業制作展を見に行きたいと思っていますが、卒業制作展は開催されるのでしょうか。明日は仕事で外会議があります。明後日から夏季休暇に入ります。

三連休 4点目の陶彫成形

三連休の中日です。今日も朝から気温が上昇し、工房は茹だるような暑さに見舞われました。私は昨日用意した座布団大のタタラ数枚を使って、新作の4点目になる陶彫部品を立ち上げました。4点目の陶彫部品は、乾燥を待っている大き目の陶彫部品の二段目にあたるもので、底辺は僅かに小さく、高さは50センチほどになるノッポな形態をしています。制作工程では成形が一番彫刻的で面白いと感じていて、立体が立ち上がると私自身はワクワクしてしまいます。三連休の最終日である明日は、3点目と4点目の彫り込み加飾をやらなければならず、土台の寸法取りと切断は、三連休後の夏季休暇で行なうことにしました。工房室内の温度が高いせいで、陶土の表面が早く乾燥してしまうため、時々水を打ちながら作業をしました。陶彫制作は陶土の乾燥具合が関係するので、作り手の都合で休憩が入れられません。成形が始まれば休みなく作業を継続しなければならず、息切れする時もあります。今日は美大受験生が一人増え、2人の若い子たちが工房にやってきました。一人は前からデッサンに通ってきている子で、今日から平面構成をやらせることにしました。面相筆で平塗りを試しながら、アクリルガッシュの使い方を教えました。私の頃はポスターカラーだったのですが、外部のアトリエではアクリルガッシュを使うところが増えているようです。今日から加わったもう一人は鉛筆デッサンを始めました。私も高校生の頃は、大学で工業デザインを専攻したいと考えていて、デザイン科のための静物デッサンや平面構成や立体構成をやっていました。最終的には彫刻を専攻したにも関わらず、デザイン科入試のことを多少齧っているので、彼女たちの指導支援が可能なのです。思わぬところで私の転科が役立っています。それより工房の暑さに耐えて作業している彼女たちの健康状態を気遣ってしまいました。外部のアトリエならエアコンが効いているのに、工房は最悪な環境で申し訳ないと思っています。午後2時まで作業をやって彼女たちを車で送り届けました。夕方、自宅の食卓に置く布を選びに家内と横浜中華街に車を走らせました。食卓に置く布が古くなったので、夏らしいものに替えようと家内と相談していたのでした。中華街にあるチャイハネというアジア雑貨を扱っている店で、手ごろな布を見つけました。夕食にするため大きな豚マンも買ってきました。コロナ渦の影響で休日にも関わらず、人の混雑はありませんでした。陶彫制作は明日も継続です。

三連休 蒸し暑い工房にて

今日から山の日を含む三連休になります。三連休は陶彫制作に終始する予定ですが、新作の土台部分も考えたいなぁと思っています。私は早朝に工房にやってきて、座布団大のタタラを掌で叩いて数枚用意しました。これは明日の成形で使います。早朝から制作を始めたのは今日の昼間の気温上昇を考えたもので、熱中症警戒アラートが出されたら、工房にどのくらいいられるのか分からなかったため、早めに工房に出かけたのでした。今日は若いスタッフが10時過ぎに工房にやってきました。彼女は文学を志す人で、エアコンの効いた自宅よりも工房を選ぶのは、工房の方が集中力が増すせいかもしれません。私も新作の彫り込み加飾を始めましたが、集中はしてもシャツに汗が滲み、短時間で作業を終わらせなければならないかなぁと思いました。2人で昼食を取った後、1時間は制作をしていましたが、午後1時過ぎには工房を後にしました。蒸し暑い工房で我慢をすることは止め、若いスタッフを車で送りました。まだ陶彫制作が切羽詰った状況ではなく、健康に気遣ったためにこうした処置を取りました。その後、私はエアコンのある自宅でRECORDの彩色に追われていました。今月はRECORDの遅れを取り戻すことを目標に掲げています。下書きが山積みされた状況はまだ解消できていませんが、日々少しずつ進めていきたいと思っています。午前中は陶彫制作、午後はRECORD制作をやっていて、結局今日は充実した一日だったと振り返っています。自宅にいると気持ちが緩んで休憩を求めてしまいますが、そこを踏み留まって頑張れることが出来るかどうかが私の課題です。制作を始めてしまうと何のことはないのですが、制作を始めるまでが自分との闘いです。弱い自分に鞭打って創作に向かう気構えを作ることが大事で、そのちょっとした努力の積み重ねが大きな成果を生むのです。

東京小金井市の「江戸東京たてもの園」散策

今日から飛び石で夏季休暇の5日間を取得することにしました。今年の夏季休暇は例年のような旅行は控えています。新型コロナウイルスの感染拡大が今も猛威をふるっているため、地方へ出かけることは止めました。まして海外などあり得ない話です。夏季休暇初日の今日は、東京小金井市にある「江戸東京たてもの園」に行ってきました。以前、家内が友達と出かけて楽しかったと言っていたので、家内を案内役にして車で出かけました。私は建築が好きなので、きっと私が気に入るだろうと家内は言っていましたが、まさにその通り、暑さを忘れて移築された有形文化財である建造物群を楽しみました。暑さを忘れてと書いたのは、今日熱中症警戒アラートが東京都で発令されていて、野外を歩く際には水分補給などの注意が必要でした。場内アナウンスも熱中症や三蜜を避けるように注意喚起を呼びかけていました。ただ週末ごとに工房で汗を流している私には、今日の暑さはあまり身体に応えず、寧ろ気軽に場内を歩き回っていました。豪農であっただろう藁葺きの母屋は、川崎にある民家園でよく見かける構造になっていました。ここでは明治の頃に建てられた西洋風の間取りを取り入れた家屋に興味が湧きました。商店や大衆風呂がある一角も面白いなぁと思いました。その中でもとりわけ興味関心があったのは、建築家前川國男邸でした。外観は切妻屋根の和風に見えますが、左右対称の極めてシンプルな構造になっていて、内部は吹き抜けの居間が中央にあり、そのモダンさに憧れにも似た気持ちになりました。当時の建築の記録が残っていて一冊にまとめられているので、早速購入してきました。その報告書を基に改めて感想を述べたいと思います。ともかく暑い日だったので、昼食はエアコンの効いたデ・ラランデ邸1階にあった喫茶室に寄りました。そこでカレーライスとデザートを注文しました。私は今年初めてのカキ氷を食べましたが、氷がフワフワしていて美味しいと感じました。家内はカキ氷の中にアイスコーヒーを入れる洒落たデザートを食べていました。インスタ栄えのする食事に舌鼓を打って、充実した一日を過ごしました。明日は工房で陶彫制作を頑張ろうと思います。