「日本を語る 多様で一途な国」について

「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)は、読み易いうえに視点がユニークなので、通勤途中やちょっとした休憩時間に、つい頁を捲って読んでしまいます。第一章は「日本を語る 多様で一途な国」について述べられています。ここでは現代日本の多様性をさまざまな事例を出して語っていますが、この中で注目したいのは日本語の文字表記の多種と、日本人がコトバを操る時の流行と感覚です。私が外国人だったなら、日本語なんて絶対に勉強しないと思っています。省略も多ければ、使い方によって意味も違ってくる言語なんて誰が好き好んで勉強するでしょうか。私たち日本人にも分からない言語が日本語にはあるのです。日本語の成り立ちについて、本文を引用いたします。「やがて万葉仮名から片仮名や平仮名がしだいに派生してくると、どのように日本語を表記するかという議論がまきおこり、そのうち紀貫之の『男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり』(『土佐日記』)という屈折した方法が出てきます。これを国文学では『仮託の方法』といい、そのようにしてだんだんできあがった日本語システムの変則的な成り立ちかたを、国語学では『日本語の重層的成立』というふうにいいます。表立った日本語は捩れながらできあがってきたというべきなのです。」日本語が以上のように多様なら、文化そのものも日本人が好きなように吸収して自分のものにしてしまう傾向があると言えます。そこで著者はこのようにも述べています。「ただ、気にいらないのは、そのような日本の多様を最近の日本がはしゃいでいるばかりで、寂しがらないところです。『おもしろい』ということと『寂しい』ということが断絶してしまっているところです。多様が一様になり、一途が拡散になっている。」という警鐘を鳴らしています。結論では「私は日本の『いろいろ』がいろいろ好きなくせに、その『いろいろ』の、キワ(際)に入ってこない日本が嫌いで、その両方です。」成程、著者の言いたいニュアンスは伝わってきます。この視点を自分も持っていたいと願う昨今です。

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