2018個展の批評より

(株)ビジョン企画出版社から発行されている「美じょん新報」は月々の展覧会情報が掲載されていますが、「評壇」欄では美術評論家瀧悌三氏による、端的で歯に衣着せぬ展覧会批評があって、私は常々参考にしています。9月20日発行の新報にギャラリーせいほうでの私の個展評がありました。引用すると「黒褐色の、古い遺跡から出土した『発掘』品のような陶彫。塔のようにそそり立ち、根元から4本の足が出た立体と、高いテーブル下方に長四角が付いている立体との2体。前者が最大、後者がそれに次ぐ。共に手の混んだ作り。迫る力、並みではない。他に方形板の類品(小品)若干。」という短文ですが、「迫る力、並みではない。」という箇所に元気をもらいました。この一言で私の彫刻は彫刻としての発信が強いのだと勝手な解釈させていただいています。何よりも現在進行形の私の表現に間違いはないと実感した次第です。陶を扱うと陥りやすい技巧的な作為、私はそれに反発して作品が技巧的に走ることを戒めました。初期の頃の作品には陶板をギリギリまで薄くしていこうと考えた時期がありました。私の作品が工芸品ならばそうしていたでしょう。でも私が求めていたのは彫刻なので、あくまでもイメージを優先にして作品を考えました。手先で器用に作ることではなく、自分の心に湧いたイメージを常に思い描きながら、表現への渇望が生じない限りは作らず、技巧よりも精神性を求めました。思いつきや小手先ではない一貫した自己世界観の創出。それは思索でもあり、造形理論の構築でもあります。彫刻でなければならない必然性、陶彫でなければならない必要性、私のイメージの起源はどこにあるのか、若い頃やっていた人体塑造を放棄したのは何故か、広漠とした都市空間に眼を向けた時に感じた空間の開放感と閉塞感。そもそも空間とは何か、モノが存在するとはどういうことか、モノが眼前に現れている現象の考察、意志と表象の世界、アポロン的解釈とディオニソス的解釈、そんな根源的な学問が頭を駆け巡り、私に何をするべきかを示唆しているのです。並みではない迫る力はそんなところから生まれてくるのかも知れず、私がこれから求めていく世界は、さらに深淵なところに私を追い詰めていくのだろうと思っています。空間に対して面と向かう彫刻表現は、空間を哲学として扱うものだと私は考えています。嘗て親しんだハイデガーの著作も現在読んでいるフッサールの現象学も、私の求めるものの一助となると信じているのです。

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