現象学書籍の再度確認

前から読んでいた現象学に関する書籍「経験の構造 フッサール現象学の新しい全体像」(貫茂人著 勁草書房)に再び戻ってきました。さて、どこまで読んだものか、文章を眼で追っていても内容のほとんどが頭から抜けてしまっていたので、わずかに残る記憶と挟んでおいた付箋を頼りに、もう一度内容の読み解きを始めました。すると徐々に眼の前が開けてきて、第一章の「能動的認識行為の現象学」の主旨を思い出しました。第二章の途中で中断したことが判明し、今回は第二章「真理と実在」の気になった箇所をピックアップいたします。第二章の冒頭の文章をまず書き出してみます。「フッサールによれば真理もしくは真実在に到達するのはある理性定立に含まれる部分志向がすべて、完全に充実されたときだが、それは原理的に実現不可能であり、真理は『カント的意味での理念』にとどまらざるをえない。このような考え方は、真理がわれわれの経験構造と無意味に存在するという考え方(『真理自体』)や、真理が何らかの仕方で実現可能という考え方の対極にある。」真理を実現可能にするのは「対応説」であり、言うなれば現象学は反「対応説」となると述べられています。「現象学において対応説的真理論は拒否されるが、それは、現象学者が経験を分析する際、経験外部に視点を設定することはけっしてしないからだ。言語的命題と事態が対応しているかどうかを問うなら、知覚という言語外の審級に訴えることもできる。しかし、志向的相関の場面で、経験が事物と対応しているかどうかを語ろうとするとき、志向的相関の外部にたつのは禁じ手である。」また実在論においてはこんな一文もありました。「現象学の任務が実在の『証明』ではなく、実在の意味の『解明』であることに注意しておく必要がある。」現象学を真理と実在との関わりにおいて述べられている箇所ですが、現象学の学問的な意味づけが従来の哲学の概念とは異なるものだと言っていて、現象学の何たるかが今後さらに明らかになっていくであろうことが推察されます。

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