イサム・ノグチの陶彫について
2018年 6月 26日 火曜日
「(イサム・ノグチの)五〇年代の陶器彫刻群は、はるかにそのイメージや題材も広がりは大きい。だが、系譜から言うと、シュルレアリスムの有機性と、縄文やら弥生やらのアルカイック・インスピレーションがふたつの柱であるのは変わりないが、土の質感がはるかに活き活きしているのは、第一級の職人や材料が勢ぞろいした魯山人のアトリエや、備前の金重陶陽の窯場で仕事ができた、陶芸的環境のためであるのは、言うまでもない。」これは現在読んでいる「イサム・ノグチ 庭の芸術への旅」(新見隆著 武蔵野美術大学出版局)の中に出てくる陶彫に関する文章です。陶彫の創始者として八木一夫ら走泥社の活躍が挙げられますが、その契機となったのがイサム・ノグチの陶彫でした。イサム・ノグチと同世代の美術評論家瀧口修造は、有史前の日本の埴輪や土器に関して、それらが現代を生きる芸術文化に大きな意味を与えている自論を唱えていました。それをそのままイサム・ノグチ論として読み替えられるのではないかと著者は指摘しています。文中から拾うと「瀧口は縄文、弥生、古墳という『世界で最も古い土器文化』の美を『生きる必要に迫られたときにつくりだす緊張した形のユニフォーミティ(一様性)』としながら、それを『地域を越えた形態感覚』と見る。用途も、ものとしての分類も不可能な、『未分化の造形』である。絵画、彫刻、工芸といった美術史的な分類ももう、無効なのである。『緊張した形の結晶』である縄文土器は、『実用の容器をこのような比類のない精神のモニュメント(記念物)にまで高めることができた』もの、古墳前期の鍬形石の『モニュメンタルな緊張した抽象性』、縄文土器の『非合理な造形性』、弥生土器の『静かな空間のなかの遊戯精神の現れ』、『手の初発的なういういしさ』、『機能的な形態感覚』、そして縄文土器の『呪術の世界にもたくまざるユーモア』。そしてさらに、それらは究極的には、『むしろ人間に対する巨大な他者を対象としていたのではないか』と問う。」とありました。『』は瀧口修造の語彙をそのまま借用したらしく、ノグチの陶彫を切り口に、瀧口流の大きな捉えと考察に、私は興味が尽きません。