「ダダイズムと哲学」について

現在、通勤時間帯に読んでいる「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)の第四章では「ダダイズムと哲学」について考察しています。ダダイズムと哲学、これを結びつける論理を、本書はさまざまな検証の中から導いていますが、一言でまとめるのは至難の業で、私には到底できません。しかし面白い着眼点に溢れた論考が、私を虜にしてしまうことだけは事実です。まとめにはなりませんが、気になった文章を引用しようと思います。まずダダイズムについて、その意図するところを挙げます。「オブジェ概念を借りてダダイストは、『芸術作品』といえども、実体は『単なる物』にすぎないことを発き出した。裏を返すと、単なる物でも『芸術作品』になりうる、といいたかったのである。~略~オブジェ概念が作品の水準、制作物の水準で『芸術作品』か『物』かの区別を無化したとすれば、デュシャンの具体的なオブジェは、芸術という制度そのものの無化であった。無化、これは否定ではない。否定なら裏に肯定がある。~略~それに比べると、無化は揶揄の極みといってよかろうか。」理論を端折りますが、ダダイストたちの発想した概念は、理性の言葉、理性的に意味のある言葉を安気に使うことができないことに至ってしまいます。「言葉と理性の分離、それは危険である。西欧的な文化伝統の瓦壊の危機である。誰かの表現を借りると、『西洋の没落』の危険に晒されたのである。」私が嘗て愛読したシュペングラーが出てきました。さらに理論を飛ばします。哲学史を覗く中で、そもそも学問の源泉が神学だったことを考えると、ダダイズムが跋扈する近代の状況を鑑み、神と人との在り方を哲学から改めて考え直すことを試みています。「神から人間への主役の交代である。しかし、きちんとした題本があってのロゴスの禅譲ではなかった。だから、この間の人間理性の煩悶や葛藤は、当時の哲学界の混乱や当惑振りに窺うことができる。この事態をどう合理的に解決すべきか。合理的解決、それは従来の理性の伝統を必要充分な仕方で継承しつつ、なお、人間理性の可能な根拠付けを当の人間理性の中に求めるという、大難事を理性に負わせることだった。哲学的には、この問題の解決は十八世紀後半、カントまで待たねばならなかった。」このNOTE(ブログ)の文面だけでは何のことかわからないと思います。読まれている方々には甚だ失礼ですが、今回は自分なりのメモとして記述させていただきました。

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