「芸術とイズム」について

現在、通勤時間帯に読んでいる「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)の第三章では「芸術とイズム」について考察しています。筆者の理論は多義にわたり、歴史的考察を踏まえた厚みを持っているので、章ごとのまとめは私にとって困難です。気になった箇所に線を引き、そこを取り上げて、まとめにしたいと思います。「イズム、実践や理論を貫く主義主張のことである。芸術の場合、芸術家のイズムは作品となって現れる。制作はイズムの実践、作品はイズムの宣揚、プロパガンダになっている。アートになって『イズム』が希薄化したとすると、作家に確たる主張がなくなったか、あるいは逆に、個人的な主張が余りにも多様化して、全体を一個の芸術的主張と総括できないかのいずれかだろう。」確かに最近ではイズムという言葉は使われなくなったなぁと思いました。「職人の技術は『良い作品』を作ることで評価される。良い作品とは他でもない、パトロンの要望に合致する作品、しかしてパトロンのイズムが表現され、イズムのプロパガンダたりうる作品である。~略~『様式』は必ずしも職人個人のものではなく、畢竟、パトロンのためのものだった。またそうであるから、個人のスタイルが時代のスタイルでもありえた。~略~それに比べて『アート起業』の方は、意図がはっきりしていて分かり易い。『アート』を商品にして、一儲け企むのである。そのとき、イズムはかえって邪魔になりそうである。パトロンはいないし、もう彼らのために制作することはできない。となれば、アートの相手は大衆、不特定多数の人間である。」一時代前の芸術と現在罷り通っているアートとの相違には、こんなこともあるのかと思いました。ではイズムが希薄になった契機はいつ頃だったのか、印象派の時代から探っています。「プラトンに始まり、キリスト教と融合して培われていったアカデミズムの伝統の中で、一貫して、『感覚』には低い位置しか認められてこなかった。『主観的な感覚印象をなぞる』ような印象派の作品が正しく理解されず、真っ当に評価されなかったのも道理である。」さらに時代は進んで現代に近くなってきました。「ダダイズムは芸術の解放運動であった。あらゆる権威や制度から芸術を解き放つ、そしてもし芸術が何らかの形で制度的になったり、権威的であったりすれば、そんな芸術からも芸術を解放する、それが眼目だった。」これでは第三章のまとめには到底なりません。大意の論点を絞る力は私にはありませんが、次の章に繋げたいと思います。   

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