「芸術と美」について

現在、通勤時間帯に読んでいる「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)の第二章では「芸術と美」について考察しています。最近のアート作品は美しいという概念がなくなってしまったような印象を受けます。それもそのはず、美とは何か、本書が語る通り、美は神からの恩寵、神が遣わせたものというキリスト教による観念が存在していました。時代の流れに沿って神学から人間学へ移行する際に、芸術は美を追求するものではないという考え方が生まれてきたのです。本書の中では哲学史上、理性(悟性)や感性を思索したプラトンやヘーゲル、カントにまず焦点を当てていますが、後半は美学の創始者バウムガルテンや、現代にも通じる芸術哲学を彫琢したフィードラーが登場してきます。著者の文章は部分が面白く、つい私は拘りが過ぎてしまうのですが、ここでは敢えて2人の思索家に的を絞ります。バウムガルテンとフィードラーです。「理性的存在として人間を考察する、もとより、哲学がそれを閉却する訳はない。ただそれだけでは済まず、理性の水準と並べて、感覚的存在としての人間をも考量しなければならなくなったのである。だが何分にも従来の哲学の中では、感覚の水準はまともに相手にされてこなかったので、いざ考察するといっても、拠るべき確かな思索的な方途がないのである。その意味で、バウムガルテンは開拓者であった。~略~バウムガルテンの美論は、プラトンのイデア論とキリスト教の形而上的な美論を『足して二で割る』ような、実に苦心の折衷案だった。美から感覚的な快という側面を括弧に入れて、美を一種の認識の問題に仕立てたことは、バウムガルテンの意図を離れて、後々、有効な考え方と認められることになる。美学が芸術哲学になったとき、芸術の美が感覚的な快として議論されることは、もうほとんどないからである。」また、フィードラーはこんな考え方を持っていました。「今になればもう当たり前の考え方なのだが、フィードラーのユニークな所は、『芸術』を人間の活動としか見なかったし、そうとしか評価しなかったことである。彼は、芸術の意義や価値を、もっぱら人間的能力に特有の活動と意味付ける。~略~フィードラーの芸術論からすれば、芸術的真理と所謂リアリズム、写実主義とは関係はない。要は、周りの世界が感覚にどのように映じ、感覚がどのように反応して、芸術活動として自己を貫徹するか、なのである。写実的になるかもしれないが、写実的だから感覚に忠実だということにはならない。フィードラーの時代、当然まだ抽象画は存在していない。だが彼の絵画理論は、具象抽象の別が、絵画にとって必ずしも本質的な問題ではないことを先取って示していた。この点でも、ユニークなものであった。」

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