「学問と美学」について

現在、通勤時間帯に読んでいる「アートと美学」(米澤有恒著 萌書房)の第一章では「学問と美学」について考察しています。私は幾度となくNOTE(ブログ)に書いていますが、哲学に興味関心があります。このNOTE(ブログ)にも最近読んだニーチェ、ショーペンハウワー、ハイデガーの著作の感想を掲載していますが、本書に出てくるヘーゲルについて私は僅かに齧っただけなのです。文章を引用すると「『精神的なものが、感覚的な形となって現れる』という彼(ヘーゲル)の定義は、美学が芸術に与えた最上のものの一つである。ヘーゲルは恐るべき慧眼の士であった。『芸術』の観念に最も相応しい形式は、文芸でも音楽でもなく造形芸術であり、就中、彫刻である、これがヘーゲルの芸術哲学の核心だった。」とありました。ヘーゲルはギリシャ彫刻をイメージしていたようですが、こんなふうに語られてしまっては、私としてはヘーゲルの著作に挑むしかないかなぁと思いました。西欧の学問の源は何からきているのか、文章を探ってみると「西欧哲学の標榜する神、具体的には、ギリシャの神々とキリスト教の神である。多神教か一神教か、それが『神学theology』を違ったものにした。神への見方が異なると、当然、神を範に仰いで人間を見る、その見方にも違いが表れる。ギリシャ哲学とキリスト教神学とは、互いに別のものだった。~略~ギリシャ哲学とキリスト教神学、この異質な二つのものがグレコ・ローマン的文化の支柱である。西欧の諸学問、それがグレコ・ローマン文化を継承しつつ発展させたものである以上、諸学問が『神学』から完全に離脱することは不可能である。そして離脱できない範囲で、すべからく諸学問は人間探究の一環をなしている。」西欧哲学は神学ありきの学問として始まったにせよ、近代になって神を蔑ろにするニーチェの思想が登場し、その後に何か変化が生じたのでしょうか、実はこんな文章もありました。「近代合理主義もしかし、神学と訣別できるものではなかった。哲学として最も信頼できる学問形態は『神学』だったし、これ以上の学問が存在した例もなかった。新しい学問、合理主義的思潮、それは決して『無から』生じた訳ではない。学問的な伝統あってこそのことなのである。神学と訣別できるかのような学問は、自ら学の体裁さえ覚束ないことを認めねばならなかっただろう。それが西欧の学問、というものである。」うーん、言われてみればおっしゃる通り。西欧的な神の存在は日本人には分かり難いところもあり、神の否定に走ったニーチェも西欧哲学の枠内にいることは確かです。否定をしなければならなかったのは、その存在を認めているからこそなのだと認識しました。

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