「奇想の系譜」読後感
2017年 11月 24日 金曜日
「奇想の系譜」(辻 惟雄著 筑摩書房)をやっと読み終えました。継続して読んでいたわけではないので時間はかかりましたが、職場で仕事の休憩時間に楽しみながら読んでいました。本書で取り上げられている6人の画家は、現在展覧会があれば多くの人が押し寄せる人気作家ですが、本書が出版された1970年には美術史の片隅に追いやられた画家たちでした。本書で取り上げている岩佐又兵衛、狩野山雪、伊藤若冲、曾我蕭白、長沢蘆雪、歌川国芳だけではなく、「奇想」という視点で捉えれば、まだ論じられる画家がいるのではないかと思いました。それについて「あとがき」で著者がこんなことを述べています。「〈奇想の系譜〉という題名は、これらの画家に共通する性格を的確に浮き彫りにするような恰好の言葉をあれこれ探しあぐねた結果、止むを得ずこうつけたにすぎないのだが、考えて見ると、〈奇想〉という言葉は、エキセントリックの度合の多少にかかわらず、因習の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括できるわけであり、この意味で〈奇想の系譜〉を室町時代以後の絵画史の中にたどるならば、雪村の水墨画の奇態なデフォルマションが、先触れとしての意味を持つし、『本朝画史』に“怪怪奇奇”と評された永徳の『檜図屏風』のような巨樹表現がこれにつづき、宗達の『養源院杉戸絵』や『風神雷神図』、光琳の『紅白梅図』などもこの仲間であり、さらに白隠、大雅、玉堂、米山人、写楽…と、近世絵画の動向に大きな影響を与えた錚々たるメンバーが名を連ねることになり、こうなると、傍系とか底流とかいった形容はあてはまらず、むしろ、近世絵画史における主流といってさしつかえないほどである。そしてまた、これら〈主流〉の背後から動かし、推し進めている大きな力が、民衆の貪婪な美的食欲にほかならないことも指摘されてよいだろう。」些か長い引用になってしまいましたが、改めて日本美術の斬新な面白さを再確認した次第です。日本人は奇想が好きなのでしょうか。縄文土器から始まる美術史を辿ると、奇妙奇天烈な世界が生真面目に整理されたアカデミックな世界を凌駕しているように思えてなりません。