「聖別の哲学」について

現在読んでいる「聖別の芸術」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)の冒頭部分に米澤有恒氏による「聖別の哲学」の記載がありました。これは「聖別とは何か」を哲学的見地から論じたもので、具体例としてキリスト教を絡めていますが、主張は特定宗教に限らず人間が元来有する精神的な業を、偉大な哲学者の著作を礎にしながら、近代以降に人々が陥った世俗化に警鐘を鳴らすものとして私は理解しました。まず、カントの唱えた「趣味」の概念に心動かされました。「趣味」は個人の主観反映なのに、その普遍性や社会性を考査するカントの美学とは如何ほどのものか理解に苦しむところでした。私が親しんだニーチェやハイデガーも論拠を助ける部分で登場していて、頷ける箇所も数多くありました。19世紀以降登場した清濁併せもった芸術至上主義にも興味が湧きました。気に留めた文章をいくつか引用いたします。「福音書と黙示録が一つになって『聖書』ができ上がっているように、人間の善と悪の美を等しく実現することにおいて、芸術が芸術である。このように、芸術は人間のすべてを『人間的なもの』として明るみに出す力を持っているから、人間を全体として聖別する資格を有するのだろう。そして芸術にそのような能力や資格を認めることこそ、理性の寛容さ、合理主義の合理主義たる所以である。」「これまで『聖なるもの』と呼んだり神と呼んできたものは、決して特定の宗教神のことではない。人間が畏怖の念を以て臨まねばならない一切のもののことである。~略~私たちは『聖なるもの』を自然現象ばかりでなく、人為にも求めたい。人間が偉大と仰ぐものは、おのずから神気を帯びていると思うからである。」「今日、芸術は人間業としてすっかり世俗化してしまい、聖なるものと何の繋がりもないように見える。もしそうだとしたら、偉大な芸術が生まれないからである。偉大な芸術とは何か。聖なるものによって聖別されうる芸術である。聖なるもの、この非合理なものは人知図り難い水準で人間の勲しを嘉し、愛でて聖別してくれる。」

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