「芸術の摂理」読後感

かなり長く鞄に携帯していた「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)ですが、漸く読み終えることができました。副題にあった「不可視の『形』に迫る作家たち」という言葉の意味と、作家論に取り上げられていた石彫家中島修さんの評論が読みたくて本書を購入したのでした。遅読の言い訳になりそうですが、柴辻政彦氏と米澤有恒氏の深い洞察に、時に立ち止まることもあり、解釈に頷けることもあって、文面によっては繰り返して読んで納得をしていました。不可視の「形」を作るために、米澤氏の言葉を借りれば「神憑っているというか、正気の沙汰に非ずというか、そういう人の仕事は畏敬すべき力を以って人間を魅きつけ、それに接するものを沈黙させ、無論精神的意味でだけれども、平伏させるのである。」という表現活動に常軌を逸してしまう作家像が浮かび上がってきます。あとがきの中で私が共感した箇所を抜粋いたします。「精根の限りを尽くすというと、人間の粒々辛苦の末のように響くものだが、どうやら努力し苦心し身を賭してそうするのではないらしい。否、そんな筈はなく、やはり人間的努力の極限の辺りを往還するだろうが、知らぬ間に没頭し、のめり込んでそうなるようなのである。何かしようとする人間が、いつの間にやらその何かにとり込まれ、何かをさせられてしまう。主ー客の顛倒が起こっていながら、当人はそれに気がつかない。だからだろう、その人間は精根の限りを尽くして、それで猶疲弊することも困憊することもなく、否、縦んばそうあっても懲りることなく、再び三たびと同じような情況に身を委ねるのである。」本書で取り上げられていた作家には及ばないものの、自分も同じ心境になることもあります。私も不可視の「形」を作る作家の端くれでありたいと願っています。

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