「中島修論」② 彫刻の周辺について

「芸術の摂理」(柴辻政彦・米澤有恒著 淡交社)の中島修論に「石が勝手に自己言及していって生まれた位相彫刻」という副題がついています。これはどういうことでしょうか。本文を引用します。「彼の話を聞いていて思うのだが、どうも、いったん彫を入れ始めると、おのずから体験的な一種の法則性が働いて、幾何学的な位相面が秩序よく展開し始めるようだ。結晶が造られていく時の、周期的な秩序と似ているみたいだが違う。しかも、斜角の異なる面と面が精密に繋がっている。あたかも、石が勝手に自己言及していって生まれる造形のようにも見えるのである。」これが中島さんの制作の秘訣でしょうか。30年以上前の自分の記憶を辿りながら、中島さんの工房の風景を思い出していますが、体験的な法則性に従っているということは、かなり失敗もあったのではないかと考えます。私の記憶の中の工房には、果たして失敗だったのか、これから作っていくのか定かではない中途半端な石彫も数多くありました。失敗は技巧的なものに限らず、原石の内部に皹が発見された場合もあることを中島さんから聞いたこともありました。こんな一文もあります。「水を使用する研磨ブース、水のタンク、変圧器、パイプ、ゴムコード、グラインダー、砥石、ドリル。『長靴をはいてカッパ着て、水飛翔との戦だよ。』~略~『この庇の下の土地ね。下から2メーターくらいあるけど、これみんな石のハツリ屑なの。そう長さ15メーターはある。屑ばかりたくさんつくったものだよ』~略~どれだけの石を刻んだのであろう。我を忘れた無心の地盤である。呆れた量だ。」彫刻を作っていく上での労働の蓄積。中島さんだけが纏っていた造形感覚。現代美術の潮流情報が入らない空間でひとり闘っていた孤高の石彫家。これら全てが私に勇気を与えてくれるものばかりです。制作現場を思い出すと共感できるものが多いのです。最後に本書のタイトルに絡む箇所を引用します。「中島修の『あたかも石が勝手に自己言及していって生まれた位相彫刻』の形体は、西欧の論理性を土壌にして、日本人である中島修が『自然の摂理』から導き出した、本来、不可視の『かたち』である。」

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