信仰とは何かを考える①
2016年 6月 7日 火曜日
民族と宗教との関わりを考えはじめた動機は、現在読んでいる「人間モーセと一神教」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)によるものです。自分にとって宗教は生活全般の中でも大した影響はなく、冠婚葬祭の時に触れる程度のものなのです。祖父母、両親から受け継いだ寺社に対する感覚は、精神性を伴わず、至って形骸化した儀式であると思っています。生きるための心の支柱としては、宗教ではなく家庭教育や学校教育による道徳観や倫理観にあると言っても差し支えありません。日本の一般家庭に生まれて育ったほとんどの人の場合、親が余程宗教に入れ込んでいなければ、自分と変わらない前述の薄っぺらな宗教観をもつ人が多いのではないかと思っているところです。自分にとって宗教は哲学と同じように学ぶもので、与えられるものではありません。まだ宗教学に一歩踏み込んでいませんが、20代の頃に滞欧生活で経験した西欧の街に点在するカトリック教会の果たす役割や、東欧の木造教会で祈りを捧げる村人たちの真摯な姿勢に胸が打たれ、民族と宗教との関わりが頭を過ぎったことがありました。宗教は彼らの生活と密接で、与えられるものという概念がありました。その時は宗教と言うより人間が心の拠としている信仰について考えていました。キリスト教では神に対する従順と信頼があります。神は絶対的で超絶的な存在で全知全能の創造者とされています。神に従う代わりに救済を求めて、善い行為が死後に報われるという図式があります。契約社会が生んだ信仰の在り方で、西洋的とも言うべき弁証法が感じられて、自分が今ひとつそこに踏み出せない要因がこれではないかと思っています。信仰は特定宗教に入れ込んでいない自分にもあります。何をもって信仰しているのかわからないのですが、人間本来の脆弱さを補う何かかなぁと思っている次第です。曖昧模糊とした自分には西洋的な明晰な宗教観と相容れないものがあると感じます。