「幻想の未来」まとめ②

「宗教論ー幻想の未来」(フロイト著 吉田正己訳 日本教文社)を読み終え、昨日のNOTE(ブログ)で前編のまとめをしました。今日は後編のまとめをします。フロイトの科学者として視点からすれば、宗教は幻想に過ぎないという理論が導き出されたとしても不思議ではなく、次の引用はその論理を如実に物語っています。「宗教の教理は幻想であると知ったあと、ただちに生じるつぎの疑問は、われわれが尊重し、それにわれわれの生活を支配させているほかの文化財もまた、似たような性質をもっているのではないか、ということである。われわれの国家機構を規制している諸前提もまたおなじように幻想と名づけるべきではないだろうか。」文化そのものも宗教と同じく幻想ではないかという疑いの目を向けるフロイトの思索はどこへ向かうのか、ここで敢えて反対論者を登場させて、フロイトはその回答を先鋭化していく手法をとっています。反対論者は、文中ではですます調で語られています。「われわれの文化は、宗教の教理の上に築かれており、人間社会を維持するためには、人間の大多数がそれを真理だと信じることが前提になっています。全能で公正な神、神による世界秩序、あの世での生活などは存在しないと教えられると、人間たちは、文化の規制に服従する義務が一切なくなったと感じるでしょう。どの人も、だれはばかれず、心配なしに反社会的で利己的な衝動のままに動き、自分の力をふりまわしてみようとするでしょうから、われわれが数千年もの文化活動によって追放した混沌がまた始まるでありましょう。」このもっともな意見に対し、フロイトは信仰の自由を認めながらも、宗教とは何かを探っています。「宗教は、人類一般の強迫神経症であって、幼児の強迫神経症と同じように、エーディプス・コンプレックス、つまり、父との関係から生じたといってよい。この考え方から予測できるのは、宗教からの離反は、成長過程のもつ運命的な過酷さによって行わざるをえないし、われわれはいままさにその発達段階のまっただなかにあるということである。~略~何ものも長きにわたって、理性と経験に抵抗できないし、宗教がこの両者に矛盾していることはあまりにも明白なのだ。あの洗練された宗教的理念でさえも、人類の慰めとしての宗教内容をすこしでも残しておこうとするかぎり、この運命をまぬがれることはできない。」敬虔な信者からすれば、身も蓋もないことを言っていますが、これは宗教の何たるかを究明しようとする科学者の論理だろうと察します。これをもって「幻想の未来」のまとめにしたいと思います。

関連する投稿

  • 「中空の彫刻」読後感 「中空の彫刻」(廣田治子著 […]
  • 「《逸楽の家》」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「3 […]
  • 「結語」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「結語」の「1 木彫と陶器」「2 親密な環境における彫刻」「3 […]
  • 「状況-思考の神秘的内部を表すこと」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「1 […]
  • 「文化的総合」について 「中空の彫刻」(廣田治子著 三元社)の「第二部 ゴーギャンの立体作品」の中の「第6章 タヒチからマルケーサスへ(1895~1903年)」の「2 […]

Comments are closed.