「自我・エス・超自我」について

かつて読んだニーチェの哲学書にも出てきた語彙ですが、精神分析学でフロイトが提唱したコトバが「自我・エス・超自我」です。現在読んでいる「フロイト入門」(中山元著 筑摩選書)第五章「フロイトの欲動の理論」に登場する第二局所論に、このコトバがよく出てくるので、改めて確認をしておきたいと思います。哲学や精神分析学に取り上げられるコトバは、普段の意識にのぼらない意味を含んでいて、形而上として捉える必要性があります。まず「自我」ですが、ネットで検索をしてみました。当初といっても1923年の話です。「自我」は当初、自己や私という意味であり、ここまでは私も普通に理解できるところですが、1923年以降のフロイトが精神分析に取り組むにあたり、「自我」を意識と前意識に無意識的防衛を含む心の構造として定義していきます。意識・前意識・無意識とは何か、これは簡単に説明できないので、私のNOTE(ブログ)のアーカイブから「フロイト入門」に関する文章を引っ張り出せば、説明している文章が出ていると思います。「自我」は「エス」からの要求と「超自我」からの要求を受け取り、外界からの刺激を調整する役割をもつのです。では「エス」とはなにか、これは無意識のことで無意識防衛を除いた感情や欲求や衝動のことを言うのだそうです。つまり本能に忠実なエネルギーのことです。「超自我」とは、ルールや道徳観、倫理観のことで「自我」と「エス」双方に伝える機能があるそうです。「超自我」は人として社会生活を営む上で必要な要素を有していて、さまざまな抑制の源になるように思えます。逆に「エス」が本能であるならば、「自我」に「エス」的部分が強ければ、感情を抑えきれない困った人になるのかなぁとも思いました。余談ですが、この「エス(es)」というドイツ語の意味の深さに私は驚いてしまいました。「Es ist~(それは~です)」というドイツ語会話は、普段の生活の中で頻繁に出てきます。私も滞欧中には多用していました。ずっと後になって和訳のニーチェを読んだときに不思議な感覚をもちましたが、哲学や精神分析学でのエスの扱いを改めて認識した次第です。

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