存在論としての運命
2014年 11月 26日 水曜日
現在読んでいる「存在と時間 Ⅲ 」(マルティン・ハイデガー著 原佑・渡邊二郎訳 中央公論新社)に運命を存在論として捉える箇所があって興味を持ちました。2つの箇所を引用いたします。「決意性のうちにひそんでいて、先駆しつつ、瞬視の現へとおのれを伝承することを、われわれは運命と名づける。」「運命的な現存在は、世界内存在として、本質上他者たちと共なる共存在において実存するかぎり、そうした現存在の生起は、共生起であって、全共同運命として規定される。」さらに運命や歴史性を総括する箇所がありましたので、これも引用しておきます。「本質上おのれの存在において到来的であり、したがって、おのれの死に向かって自由でありつつ、死に突きあたって打ち砕けておのれの現事実的な現へと投げ返されうる存在者のみが、言いかえれば、到来的なものとして等根源的に既在しつつ存在している存在者のみが、相続された可能性をおのれ自身に伝承しつつ、おのれの固有な被投性を引き受けて、『おのれの時代』に向かって瞬視的に存在することができる。本来的であって、同時に有限的な時間性のみが、運命といったようなものを、すなわち本来的な歴史性を可能にするのである。」難解と感じた哲学書も終盤に差し掛かり、その難解さにも慣れてきました。時間を論じる上で登場してくる運命や歴史性を考察することの自分なりの意義を感じ取っているところです。
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Tags: ドイツ, 書籍
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