「意志と表象としての世界」第四巻を読み始める

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻を読み始めました。昨年暮れからずっと本書に関わっていて、いよいよ最終巻になりました。自分は朝の通勤時間帯が一番頭に入るようで、電車に揺られながら構築された内容を目で追っています。帰りの時間帯は一日の疲れがあって本書の内容が頭に入らず、同じ箇所を繰り返し読むこともあります。通勤時間帯しか読書ができないので時間がかかるのは百も承知ですが、大著作にあっては内容が細切れになってしまって、前回の復習から始めないと先へ進むことができません。そんなことを思っていたら、第四巻の冒頭に前巻までの復習がありました。「意志はたんに自由であるばかりではなく、全能ですらある。行為が意志から出てくるのみならず、世界もまた意志から出てくるのであって、意志がいかに存在しているかに応じて、行為も現象するし、世界も現象するのである。」さらに哲学とは何かを解く文面がありました。「『哲学とは』世界が『どこから』来て『どこへ』行き、また『なぜ』であるかを問うようなことはなにひとつせず、常時に随所で世界とはそもそも『何であるか』だけをひたすら問題にする考察法である。~略~あらゆる相対関係のなかに現象こそすれ、自身では相対関係に従属せず、つねに自己同一を保っている世界の本質、すなわち世界のイデアを、考察の対象とするものなのである。芸術と同じく、哲学もまたかような認識を起点としている。」最後にショーペンハウワーの死生観が述べられている箇所を引用します。「われわれがなににもまして明瞭に認識しなければならないのは、意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式というものが、もともとはただ現在なのであって、未来でも過去でもないということである。未来や過去などは単に概念のなかに存在しているものでしかない。つまり未来や過去は根拠の原理に従っているような認識の連関のなかにのみ存在しているのである。過去を生きた人はいないわけだし、未来を生きてみるというような人もけっしていないであろう。現在だけが生きることの形式なのであり、また現在だけが人間からけっして奪い取ることのできない彼の確実な財産でなのである。現在はそれのはらんでいる内容もろともにいつもそこに在る。現在といい、その内容といい、ともに動揺することなしに確乎として存在しているが、そのさまはあたかも滝にかかる虹のようなものだ。」

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