「崇高」を導くドラマ仕立て

森羅万象に対する視点や認識を新たに思索・提案し、理路整然と説き伏せるものが哲学書であると私は思っています。「感性」「悟性」「表象」「意志」等は偉大な哲学者たちの選び抜いたコトバの一部で、それに纏わる論考を自分は学び取っています。現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)でも例外なくさまざまな事象を取り上げて、その思索が述べられています。ただ、哲学とは趣が異なる奔放な文章に出会って、まるでドラマを見るような昂ぶりを感じたのでNOTE(ブログ)に書き留めました。本書第三巻の芸術に関する箇所で「崇高」とは何かを解いています。「崇高の印象がさらにいっそう強まるのは、われわれが昂然と相争う自然力の大規模な戦いを目の前にしたときであって、~略~落下する奔流の轟然たる音にかき消されて自分の声も聞こえなくなってしまうような場合である。あるいは、嵐のさか巻く広漠たる大洋のほとりに立ちつくす場合もそうであろう。山なす高波が上下し、切り立つ岸の断崖に猛然と当たっては砕け、空高くその飛沫をあげ、風雨は咆哮し、海は怒号し、黒雲から稲妻が閃光し、そしてとどろく雷鳴は嵐も海をものみこんでしまう。このようなとき、平静不動な心をもって光景を眺めるものの内部では、意識の二重性が最高度の明瞭さに達しているといえよう。彼は一方では、自分を個体として感じる。この自然力からの打撃をほんのわずか受けただけでも打ち砕かれてしまいかねなく危い意志の現象として、自分を感じる。つまり彼は自分を、強力な自然を向うに回しては、いかんとも頼りなく、独立性のない、偶然に翻弄される存在、怪異巨大な自然の勢力に直面すればたちまちにして消え失せてしまうであろう無にひとしい存在であると感じるのである。だがそのとき、彼は同時にまた、自分を永遠の、平静な認識主観とも感じているのである。この認識主観こそが、客観の条件であり、まさしくこの全世界の担い手であるといってよい。凄絶をきわめた自然のかの戦闘といえども、認識主観からみれば、単におのれの表象であるにすぎまい。認識主観そのものは、いっさいの意欲、いっさいの困窮から解放されているし、またそれらとは無関係であって、平然としてイデアを把握するのである。これが崇高というものの全き印象である。」

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