情と知について

「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)の中の、理性と概念に関するものを、数日前のNOTE(ブログ)にアップしましたが、今回はまず「根拠の原理」に言及している箇所を引用します。「時間とは徹頭徹尾、継起ということであって、それ以外なにものでもなく、空間とは徹頭徹尾、位置なのであって、それ以外なにものでもなく、物質とは徹頭徹尾、因果性であって、やはりそれ以外なにものでもないが、これほどに、根拠の原理が表象の一部門を支配する形態は、それが表象であるかぎり、つねにその部門の本質を厳密に言い当てて、あますところがないのである。だとすれば、概念、あるいは抽象的な表彰の部門の、本質そのものは、ひとえに関係であるといってよい。」次に自分を捉えた箇所は矛盾対立する「情」と「知」です。「情ということばが示す概念は、どこまでもネガティヴな内容のみをおびている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的な認識ではないこと、~略~いろいろ相異なった要素や、たがいに敵対する要素までもが、情という概念のなかに安んじて並んでいるからである。例えば宗教的感情、肉欲の感情、道徳的な感情、触覚・苦痛・色彩感覚・音響感覚ならびに音の調和や不調和といった肉体的な感情、憎悪・嫌悪・自己満足・名誉・恥辱・正義・不正義の感情、真理の感情、美的な感情、力・弱さ・健康・友情・愛の感情等々。」「知は既述のとおり、抽象的な認識、すなわち理性認識のことであった。しかしながら理性は、いつも要するに、理性とは別口で受け入れたものを今一度『理性の』認識の前に引き据えることをなし得るのみだから、がんらいがわれわれの認識を拡大する力はなく、認識にもう一つ別の形式を与えるだけである。それはつまり、直覚的に、具体性をもって認識されたものを、抽象的に、かつ一般的にあらためて認識させるのが理性だという意味である。」引用文だけを羅列してみても前後の文脈がないので不明瞭あることは十分承知ですが、膨大な情報とその論拠とするものを端的にまとめ上げる力量は自分にはなく、パッチワーク的でやや統率を欠いたNOTE(ブログ)になってしまうことをご勘弁いただきたいと思います。

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