見えるモノだけが彫刻か?

若い頃に読んだ「見えない彫刻」(飯田善国著 小沢書店)の中で、ブランクーシの彫刻に触れて「彼が創造した鳥たちの影像は空間に永遠の静止を姿態で完結しながら、その放物線はやみがたい無限運動の彼方を示す。また、彼が故郷に建てた『無限の柱』は、その名の示す通り無限の彼方を指し示すことが目的なのであって、人の眼に見える部分は、目に見えない部分を指示するための手段と化したかのようである。」とあり、またムアに関しても同様に「彼の初期から現在までのほとんどすべての作品に一貫している主題は、眼に見える当のものを指示しながら、内なる動機は、当のものを超えて遥かなる眼に見えない世界へとわれわれの意識を導いて行くということであり、その世界は地上的なものでもまた天上的なものでもなく、何か名状し難い超現実の世界、時間と空間が一点に収斂して死者と生者が同一のもののように出会う地点とでも形容したいそういう世界である。」とあります。彫刻を思索の産物として捉え始めた当時の自分にとって「見えない彫刻」は恰好の論評でした。目の前に見える立体だけをもって彫刻と言えるのかという問いかけを抱きつつ、20代の自分は人体塑造の習作に励んでいて、粘土で捉える立体構造だけに終始して、モノの存在や周囲の空間を考えることがなかったのでした。近視眼的な視座しか持ち合わせがなかった自分は、彫刻とは写実的に人体を解釈して具体化する手段と思っている節があり、空間の変容なるものは論外でした。自分の中で何かが変わったと思えたのは滞欧中で、物質と空間の関係をようやく感じ始めたのでした。それは思考であっても、むしろ空間を感覚で理解したといった方が相応しい体験でした。武蔵野美術大学美術館で見た「墓は語るか」展で、この考え方に近い彫刻的意図を感じ、また現在の自作を鑑みると、見えない部分が彫刻として意識の上で確かに存在していると確信したのでした。昨日NOTE(ブログ)にアップした故若林奮の作品を考えるにあたって、同世代の故飯田善国著による「見えない彫刻」を思い出してNOTE(ブログ)にしました。

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